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幸田露伴の随筆「古革籠①」

古革籠①

塚原卜伝(つかはらぼくでん)

 田夫野人(でんぷやじん)も善い言葉を出す事がある。それなので、「聖賢(せいけん)は樵(きこり)や草刈りの言葉でもおろそかにされない」と云う。まして一芸一能ある人の一時のさりげない言葉にも、味わえば味わいの深いものがある。塚原卜伝は有名な兵法者である。細川幽斎なども卜伝に学んでその術を得たが、幽斎は人に語って、卜伝が何事においても人の芸が未だ達していないのに得意顔をするのを見て、「今だ手を使い申す」と云ったと云う。手を使うとは実に面白い言葉である。達した境地では手を使うと云うことは無いだろう。手を使うことにこそ未だ達しないところが有ると見える。蝶のように身を扱い、電光のように太刀をひらめかすなどは皆コレ手を使う境地であって、卜伝の一太刀の境地とは猶遠いのであろう。思えば碁や将棋や書画の道から文章や政治の事に至るまで、手を使う人は多いが手を使わない境地に達した人は少ないようだ。定家卿ほどの勝れた歌人でさえ、未だ手を使われたように見える歌が多い。凡人は手を使う境地にさえも達し難い。流石に卜伝の言葉である。尽きない味があると云えよう。

注釈
・田夫野人:教養がなく礼儀を知らない農夫や庶民。
・聖賢:聖人や賢者
・塚原卜伝:日本の戦国時代の剣士・兵法家で鹿島新當流の開祖、その戦績は、十七歳に洛陽清水寺で勝利を得た後、五畿七道に遊ぶ。真剣試合十九度、戦陣を踏むこと三十七度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合は数百度に及ぶが、切疵・突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外は一度も敵の兵具に当たることなく、敵を討つ事二百十二人。剣聖と云われる。
・細川幽斎:戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名で歌人。
・定家卿:藤原定家、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家で歌人。「新古今和歌集」の撰者。


木下長嘯(きのしたちょうしょう)

 木下勝俊は長嘯子と名乗る。東山に隠退して、歌を詠んで生涯を終える。門人の公軌がこれを集め、春正がこれを刊行した「挙白集」十巻があって、その歌文が世に存在する。しかし早くから尋旧坊の「雑挙白集」が世に出ていて、また古学復興にも遇って長嘯子を語る者は居なくなった。今ごろ長嘯子の歌を語るとなると、人は口を蔽って笑うかも知れないが、しかしながら私は其の人の歌の一首を愛する。その歌は、

 たまくしげ、明けぬ暮れぬと、いたずらに、ふたたびも来ぬ、世を過ぐすかな。

である。この歌を吟ずること一二度すれば、愴然として奮起するものがある。人はどうか知らないが、私にとっては好い歌である。

注釈
・木下長嘯:江戸前期の歌人。豊臣秀吉の北政所の兄の木下家定の嫡男として尾張に生まれる。秀吉に仕え,小田原攻めなどに参加。関ケ原の戦において豊臣秀頼の命により伏見城の留守を預かったが,石田三成の挙兵をみて任務を放棄,この責任を問われて城地を没収され失脚,三十二才で」京都東山の地に遁世した。晩年の十年ほどは西山に移り洛西小塩に閑居した。和歌は細川幽斎に師事,その歌風は旧来の二条派を脱出して自由で清新な自己表現をするところに特色がある。


里村紹巴(さとむらしょうは)

 連歌師の里村紹巴は、信長や秀吉の頃に名を馳せた者である。「三浦問答」などと云う書もあって悪く云われたけれども、人に容れられないのは其の大であった為なので、当時紹巴が詞壇で活躍していたことが分かる。今の人は誇りが高いので紹巴の句など眼中に無いだろうが、流石に一大の巨匠なので好い句もある。或る時の千句の中に、ただその侭に世こそをさまれ、と云う句が出た。紹巴はこの句に付けて、

 よきにのみなさんとするやあしからむ

と云ったとある。まことに、よいことだけをしようとするのは拙い事の始まりである。紹巴の言葉は神妙である。微妙である。玄妙であると云える。紹巴も自ら此の句を褒めて、大津の居宅で弟子の松永貞徳と語り合った時に、「何事もありのままがよいぞ、巧みなのは後に多くは悪い事になる、私が連歌において今まで付け切ったと思うものはこれである」と云った。何はともあれ、おもしろい句である。味噌だけではものは旨くない。鴨川石だけでは庭は出来ない。よきにのみなさんとするやあしからむ。面白い、面白い。

注釈
 ・里村紹巴:戦国時代の連歌師。連歌を周桂に学び、周桂の死後、里村昌休につき、その後里村家を継ぐ。その後公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流を持ち、天正十年、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名である。四十歳のとき宗養の死で連歌界の第一人者となり、連歌の円滑な進行を重んじた連歌論書「連歌至宝抄」を著した。門弟には松永貞徳などがいる。


松永久秀(まつながひさひで)

 松永弾正久秀が織田信長との戦い負けて自害する時に、中風の灸をすえ終わってから腹を切ったのは大層面白い話である。久秀は常に中風の気味があったので、イザ腹に刀を立てたて死に臨む時に、モシも突然に中風が起こって体の自由を失っては見苦しいので、そうしたと云う。久秀は此のように細心の人だったので、嘗て人に対して、「私はマツムシを飼って様々に育てているが三年は生きている。まして人間は心掛けによっては長命になること疑い無い」と云って、養生を勧めて不養生を戒めたと云う。マツムシの喩えは、その声がすずしく身に沁むように、横紙破りの人の耳にでも入れば善い。

注釈
・松永久秀:安土桃山時代の大和国の戦国大名、信長に反逆して敗れ信貴山城で切腹。


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