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幸田露伴の評論「罹災者に贈る言葉」

罹災者に贈る言葉

 今回の大震災で、或いは家屋の倒壊や半壊や大破損の危険に脅かされ、或いは全焼半焼や取り壊される憂き目に遇い、幸いに圧死や焼死の惨苦を免れたにしろ、或いは妻や子、或いは父母や祖父母、或いは孫やひ孫や使用人等を失い、或いは自身にしても他にしても負傷等の苦しみを受けた人々等が、その被害に程度の差こそあっても、何れも忘れ難い悲哀と困苦を味わられたことは、実に何とも慰問の言葉さえ出ないことである。自分もまた被害者の一人として、幸いにその被害程度は甚大では無かったが、暫くの間は柱が傾き壁の落ちた小舞竹(こまいたけ)の隙間から月の見える塵土の散乱する不快な家の中で、生活の不安に脅かされながら日を送る者となったのであるから、自分が不幸中の幸な部分に属するにつけても、自分と同程度もしくはそれよりも強い程度の不幸に陥られた人々が、どのような気持で、どのように日を送られているかと思うと、ひとしお悼み悲しむ心がして、堪えられないのである。
 程度の高い生活を為して富裕の地位に在った人々が、突如として被災者の地位に立って、又はそれ程で無くても著しく安定の欠けた生活の境遇に陥られたことは、実に堪え難い苦しみであろうし、また普段でも余り楽でない境遇に居られた人々が、突如として職を奪われ、或いは取引関係を失い、或いは折角築き上げた商業や工業のその他の地盤を影も形も無いものにされ、露天に筵(むしろ)を被る無一物の何とも致し方ない境遇に立たされたようなことは、実に慰問の言葉さえ失うのである。ただ我々が此れ等一切の罹災者に対して、偽りなく発する事の出来る言葉は、負傷した人に対しては御生命に別状無くて何よりと云い、負傷しなかった人に対しては、御怪我も無くて此の上もなく悦ばしく存じますと云うより他は無いのである。
 自分に余力があれば、アアも仕度いコウも仕度いと思う事はある。ただ残念なことに微力不才の身で、自分もまた此の大震災には二人の子を連れて非難したほどである。しかし自分が罹災の人々に対して財物を寄付出来ないとしても、何も仕無いではいられない。人に贈るのに言を以ってするのは君子のする事であって、私自身を君子であると思っている訳では決して無いが、私は今辛うじて破壊を免れた家を修復することさえ悩んでいる微力者で、何をどうする事も出来ないが、ただ言葉を贈る事だけは出来る、そこで一言を人々に贈ろうと思う。思えば言葉は甲斐無いものである、千百の言葉は一円の飯に及ばず、切れ目ない言葉も垂れ落ちる水に及ばない場合である。けれども今の私の此の言葉は言葉だけでは無い、直ちにコレ私の心である、私の已み難い心である。誠である、願わくは罹災の人々に対して少しでも慰安の甲斐の有ることを念じるのである。斥けられなければ満足なのである。
 人々は既に一ト方ならない落胆を味わって居られる。これは実に無理もない事で、多年の苦労によって築き上げたところのものを、一日の震災と火災とによって喪失損害されて、煙のように、夢のように、我が精力や知恵や技術の成果を消散仕尽されて仕舞ったのであるから、誰しも茫然として焼け野原に立ち、憮然として瓦礫塵土を眺める眼の中に、自然と力無く涙が滲み出るのを免れないのが人情である、此の人の情と云うものは、ソウ仕度いと思わなくてもソウ成るものであるから、是非の範囲を超えていて、批評も思議も及ばないところのものである。しかし一時の失望落胆は仕方ないとしても、失望落胆は失望落胆で、何時までもその侭永く続くものでは無い。失望は永く失望のままでは居続かないで何等かのものに変わって行く、落胆も同様である。即ち失望は或いは自棄の念に変わり、或いは萎縮の状態を来し、落胆は恐怖の情に変じ、或いは脱力の状態を来すのである。自棄の念は最も有害な恐るべきもので、人が一度この念に駆られた時には、一切の善は覆(くつがえ)り一切の悪を招来し、時には他にまで累を及ぼすようにもなるのである。それなので、どんなに失望が深刻でも、どんなに他人の了解と同情が得られようとも、断乎として自制し平常心に戻らなければならない。私の知人にそれほど逸材と云うのでも無く、優れた技術を持って居ると云うのでも無いが、唯々その堅固な性質と勤勉な習慣と善良な品行によって、数十年間の地道な努力に基づき、何時の間にか中程度の資産を作り上げ、家作も十余軒を所有し、次第に老い行く我が前途に幾らかの安定を認めて、そして猶も正直に勤勉に日を過ごしていた人が在った。であるのに、震災の為に突然にして所有する家屋は焼かれ、自宅も失い、何一ツ無い境遇になって、憮然として歎き、「若い時から蟻が塔を積むようにして漸く作り上げたものを、全て一日で煙にして仕舞いました」と、涙を落とさんばかりに語った人が在る。私はそれを聞いて、暗然蒼然として深甚の同情を起こずには居られなかった。思うに世間にはこのような人は沢山在るに違いない。これ等の人々が失望するのも無理は無く、またその失望から自棄の念を起こすのも無理は無いと容認したいと思うが、しかし一旦自棄の念に陥れば、その次に来るのは安逸の気分や或いは享楽に傾く気分である。即ち飲酒に耽ったり、目先だけと云う気分になるものである。人が若し不孝に陥った時に享楽的気分や安逸的気分になれば、その次に来るものは健康の破壊や事業の荒廃などの、退廃的運命の捕虜となるに過ぎないことを知るべきである。不幸に陥るのは恐ろしくは無いが、安逸享楽の気分に陥ることは最も恐るべきことで、真の心が日々に苦しむから、大抵は寿命の障害となり、且つ真正の回復を得られないで終わるものである。何故かと云うと、どんなに酒を飲んだり遊びに耽ったりしたとしても、その人の胸の極々奥深いところには、以前のような生活に戻りたいと云う心が無くなることなく有るので、自分の享楽的行為は自分の本心では無いと分かっていて、そこで仮令(たとえ)美酒蘭灯の間に居て歌舞歓楽に一時の自分を慰めていても、何処かに此れを是認できないものがある。つまり心が一ツで無くて二ツになっている。人と云うものは、「二気あれば即ち病む」、と云う古い支那(中国)の諺にある通り、二心を抱くことほど苦しいことは無い。どれ程苦しくても心が純一に働いている時はその苦しみに堪えられるものである。しかし、自分が自分と戦っているように成っては堪えられるものでは無い。苦の有る人が酒を飲んで苦を忘れようとしても、その苦が極々浅い苦であれば或いは忘れることも出来るが、本当に奥深い苦であれば、酒などで忘れることなど出来るものでは無い。それでイヨイヨ強烈な酒を飲んだりする。爛酔すれば暫くは忘れるが、醒めれば却ってイヨイヨ苦しむ。それはまるでローソクの光が強いと影の黒さも強くなるようなことである。そこでイヨイヨ飲み苦しむ結果、身体がもたなくなる。実に悲しい運命が前途に待ち受けるだけになるのである。安逸に陥るのも同様である。マア宜(よ)い、今日が宜ければそれで宜い、目の前だけドウニカコウニカ出来ればそれで宜いと云うような調子で、物憂く怠けてグタリとして日を送る。それでも極々の本心ではそれを宜しとしないで、もっとキビキビ働いてウンと力一杯奮闘して、幸福を開拓してほしいと云うのが、真の偽りないところの心である。しかし失望の打撃に弱った自分はそれだけの勇気が出せないで、ダラケ切った安逸的な日を送るのである。そうなると、休んでばかりいる力士が段々弱くなるように、又は使わない刃物が錆びるように、体力も心力も次第に衰弱して来る。終にこれもまた悲しい運命に呑まれる日を待つほか仕方が無くなる。であるから、一旦の失望は仕方無いが、それから起きる享楽的気分や安逸的気分は絶対に断乎として排除し、自棄の念などは地震よりも火災よりも恐ろしいと信じるのである。
 失望から萎縮の状態に陥るのも、俗に云う気の弱い人には免れない事であるが、それも大災害を被った後では尤もな事であるが、現実世界が案外にも脆く破壊された事を目撃体験した結果、今までは一万円の資金で以て十万円の働きを仕ていた者も、今度は十万円の資金を持っていても一万円の仕事だけ仕ようと云うように成ったり、或いはナマジ困難で苦労の多い職業をするよりも隠退しておとなしく生活しようなどと考えるようになるのも皆萎縮である。このような萎縮的な考えは一寸智慧が有るように見えるが、萎縮ほど宜くないものは少ないのである。萎縮や退嬰は一度これを始めると際限の無いものである。アトズサリと云うことは、踏み止まることが出来ればよいが、中々踏み止まることが出来難いもので、次第に萎縮し、萎縮した結果は手も足も出なくなって、終に前方に気を取られながら後ろの溝に落ちるような事になるのは、碁や将棋の局面に喩えて見てもよく分かることである。善良で小心な人で、謀叛気や山気、騙詐(へんさ)の気、拗戻(おうれい)の気などの無い者は、失望すると兎角この萎縮病にかかるものであるが、それは丁度どこが悪いいと云うのでは無いが、全身が衰えて行く萎黄病と云う病気になると、そのうちに何かの重い病気を引き起こしたりするように、人間は萎縮仕出すとツマラナイ災難に出遇うものである。引く気が立つと云って何事にも甚だ面白くないものである。その人の才能や技術や知力も一度引く気が立つと三割減り五割減りして、俗に云うボケに成って仕舞うものであるから、萎縮の気が起きたらこれを蛇蝎(だかつ)のように嫌って排除し、猛然として奮い立って、ウンと踏み止まって、おもむろに前途に対する自分の取るべき道を看取らなければならない。知恵立てや分別立てをして知らず知らずに萎縮の境涯に陥ってはならない。
 落胆も失望も似たものであるが、失望は心理的で、落胆は生理的である。胆嚢が落ちる訳では無いが、恐ろしい事に遭遇すると胆はその体(たい)を失うと古人は感知していたので、また胆の大きな者は事変に遭遇しても驚いたり避けたりしないとされていたので、落胆だの大胆だのと云う言葉も生じ、蜀の姜維などは胆に毛が生えていたなどと云う話さえ生じているのである。それは兎に角、今日の病理学でも黄疸と云う胆汁分泌の異常で起きる病気は、恐怖や憂惧などによって惹起される場合があると云われているところで、大災害に落胆したなどと云うのも只の形容だけでは無い。また実際にこの様な大震災に遭遇して落胆したところで無理は無いのである。多くの人々は皆重要な資材や手掛けた仕事を一日の煙りとして仕舞ったのであるから、落胆するのも無理は無いのである。しかし此の落胆から引き続いて恐怖の状態に陥っては、正しい行動も、正しい思慮判断も出来なくなるのである。それなので恐怖は払い去らなければならない。大地震はマズ済んだのである。火災は全く収まったのである。今日一日に起こった事に対して長く恐怖している必要は無いのである。それよりも恐ろしいのは、落胆の余りに恐怖に囚われて、生理的な欠陥を生じることである。恐怖は胃液の分泌を悪くし脳力を悪くする。その他種々の生理的安定や神経系の働きを悪くする。恐怖によって身体が悪くなり、身体が悪くなることで、恐怖も続くのである。宜しく決意し気を壮(さか)んにし、適宜に飲食し、運動を怠らずに行い、何等畏れるところの無い境地に所に安住すべきである。宗教上の信仰を有す人は、このような時こそ宗教の加護を受けるべきである。観音の額には無所畏(むしょい)の三字が示されているでは無いか。不動尊は不動経で、「我は衆生の心中に住す」と説いているでは無いか。不動でも観音でも薬師でも弥陀でも宜い。法華は法華、禅は禅、各々その依る所、信じる所に随って恐怖心を去ればよく、キリスト教徒はキリスト教の信仰で救われるべきである。神や仏に人を脅かすものは無い、皆各々その大威力大慈力によって人々に無所畏心(安心)を得させるものである。まして無信心な者は神も仏も無いとする豪い者であるから、夢にも恐怖心などに囚われてはいけない。何としても人々は恐怖心を去って平静でなくてはいけない。落胆によって脱力状態に陥っても大抵は数時間で回復するものであるが、甚だしく神経を傷めると筋力は回復しても視力や聴力や消化力や脳力などは急には回復しない場合がある。これ等は不幸の後に不幸が残るようなもので最も気の毒なことであるが、努力を増して胆を張って気を壮んにし気血の運行を旺盛にすれば、大抵は徐々に病患を排除することが出来るものであるから、それ相当に医療の道を講じて無所畏心を得て、勇気を奮い、不幸の残留物を除くべきであろう。
 過去は日々に遠くなる。未来は日々に近くなる。一日経てば一日だけ大災害を被ったことは遠くなるのである。壮美な大東京建設の日は近づくのである。この際は一にも勇気である。二にも勇気である。三にも四にも何も彼も勇気である。神武天皇が我が国を開国された時は、この東京の昨日までの東京のようでは無かった。ただ蘆萩草莱茫々(ろてきそうらいぼうぼう)の地であったろう。それから段々と開拓する人が在って開けたのであり、成り立たせる人が在って成り立ったのであろう。我々は一日にして東京を失っても、幸いなことに祖先以来の蓄積した徳力(とくりき・善い能力)を有し知力を有し勇気を有し、種々多数の経験を有し物質を有し便宜を有し機関を有している。獅子奮迅の意気を振るって奮励努力すれば、我等の前途は光明あるのみである。福慶あるのみである。決して日本開国時の困難のようなことは無い。幾年も経たないで、一個人は一個人、一家は一家、一区は一区、一都は一都、各々その徳力知力勇力等の輝きを煥発することによって、喜ぶべき幸福を実現し、燦々とする壮麗安穏活気が横溢した境涯で生を楽しむことができるようになるであろう。そうしないでソモソモどうしようか。奮うべし奪うべし、為せば成る世の中である。為さねば成らないのである。悪くするのも善くするのも皆心からである。クダラナイ無駄口をたたいて無駄に心を使って我々の勇猛邁進を阻害するような者は排除して、人々各々その分に応じて健闘すべきである。戦いの勝敗は兵馬の優劣に在る。戦いだけでは無い。全ての事に於いて人々の意気は勇壮で無くてはならない。粛然・凛然・毅然としたものがあって、そして奮然として勇戦健闘すれば、勝利は必ず手中に在るのである。
(大正十二年十月)

注釈
・小舞竹の隙間:昔の日本家屋の壁は土壁であった。土壁は竹材で組んだ下地に土泥を塗って出来ていたが、その壁が地震で崩れて竹組の下地(小舞)が露わになって出来た隙間。
・萎黄病:思春期前後の若い女性にみられる貧血症。 十九世紀頃盛んに用いられた病態で,一種の鉄欠乏性貧血と考えられている。
・姜維:中国三国時代の人物、その胆は一升枡ほどもある巨大なものであったと記されている。
・無所畏:畏れる所の無い。
・蘆萩草莱茫々の地:蘆や萩や雑草が茫々と生い茂った荒れ地

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