見出し画像

幸田露伴の史伝「平将門③(一門との戦い)」

 貞盛は国香の子として京に居てこの事を聞いて暇乞いをして帰郷した。「将門記」には、この時の貞盛の心を書いて、「貞盛がよくよく事情を調べて見ると、・・凡そ将門は本当の敵では無い、この闘いは源氏との縁から起きたこと、家の老母を子の我以外に誰が養えよう、多数の田地を我の他に誰が治められよう。将門と親しくして云々・・、即ち対面しようとする」とある。国香の死亡記事の本文は分からないが、この文意を観ると、将門が国香を心底から殺そうとしたので無い事を貞盛は自認しているので、源家との縁からこのような事も出来たのだから、無暗に将門を憎むことも無い。一族なのだから仲良くよう、と云うのである。前に述べた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取り囲んだ時もワザワザ逃がしたような人である。国香を強いて殺す訳がない。貞盛のこの言葉を考えると、源家と将門の戦いの余波が国香に及んだのであろう。伯父殺しを目的に将門が攻め寄せたものならば、貞盛にコウ云う言葉が出せる訳が無い。ただし国香としては田里のことで将門に対して負い目があったものか、そうでなくても居館を焼かれて撃退することも出来ない恥辱に堪えかねて死んだのであろうか。ここでもドラマはいろいろ描き出せるのである。まして国香の部下の侘田真樹は弱い者では無い。後には戦死しているほどの者であるから、将門の兵が攻めかかって来たら何らかの事蹟が生じるハズである。
 良正は高望王の諸子(妾の子)で妻は源護の娘であった。護は老いて三子を悉く失ったのだから悲嘆に暮れたことと推測される。そこで父の歎き、弟の恨み、良正の妻が夫に対して、報復の一戦を勧めたのも無理は無い。云われてみれば後には引けないので、良正は軍兵を動員して水守から出発した。水守は筑波山の南の北条の西である。兵は進んで下総境の小貝川の川曲に来た。川曲は「かはわた」と読んだのであろう、今の川又村の地で当時は川の東岸であったらしい。川を渡れば豊田郡の将門領である。貞盛がこの時に加担しなかったことは注意すべきところだ。将門の方でも、それならば伯父ではあるが一ツ痛い目に会わせてやれと云うので出陣した。時はその年の十月二十一日であった。将門の軍が勝って良正は散々に打ち負かされた。これも私闘である。将門は未だ謀叛はしていない。勝って本郷へ帰った。
 「負け碁はとかく後を引く」習いで、良正は独力では勝てないので良兼に助太刀を頼んで将門に仕返しをしようとした。良兼は護の縁に繫がっている者の中での長者であった。良兼の妻の雌鶏(めんどり)の勧めもあって雄鶏(おんどり)はついに鬨(とき)の声を作った。同六年六月二十六日に十二分の準備をした良兼は上総や下総の兵を出動して、下総へ突き出ている上総の武射郡から下総の香取郡神崎へ押し出した。神崎は滑川より下流で佐原からは上流の利根川沿いの地だ。それから利根川を渡って常陸の信太郡江前の津にかかった。江前は江の前(さき)で今の江戸崎である。それから翌日には良正の居る筑波の南の水守へ到着したと云う事だ。私闘は段々と大きくなった。関所破りこそ仕無いとは云え、抜け道を通っていやしくも何々の介と云う者が、役所の禁制を顧みずに武力で争おうと云うのである。良正は喜んで迎えた。貞盛も参集した。良兼は貞盛に対して、「常平太よ、何で我等と共に戦わないのだ、財物を掠られ、家倉を焼かれ、親類を襲われて、穏便に済まそうとは何事だ、早々に仲間に入って将門を討とうではないか」と叔父さん顔をして尤もらしく説いた。云われてみればその通りであるから、貞盛も自分の妻の兄弟の仇、今は亡き父の敵であるから、「心得ました」と云い切った。姉妹三人の夫でもある叔父甥の三人は、良兼を大将にして下野を目指して出発した。下野から南に下って将門に圧力をかけようと云うのだ。将門はこれを聞いて「サア来い、恐妻家共メ」とでも思っただろう。バクチは財布の大きい者がキット勝つとは決まっていない。大したことは無い、一ツやっつけてやろう」と、コチラからも下野境まで兵を出したが、ナルホド敵は大軍で、地も動き草も靡くばかりに勢いも堂々と攻めて来た。良兼の軍は馬も肥え人も勇み、鎧の毛も鮮やかに、旗指物もいさぎよく、弓矢・刀・薙刀、何れも美々しく、垣盾(かいだて)をヒシヒシと垣根のように築き立て、猛烈な勢いを見せた。将門の軍は二度の戦いで甲冑も摺れ、武具も十二分では無く、人数も少なく寒々として見える。例えば敵は毛羽鮮やかに鶏冠(とさか)を紅く聳えさせた鶏のようで、コチラは見苦しい羽抜け鳥が、肩も痩せ胸も露わに貧し気な様子であったが、戦って見ると羽ふくよかな地鶏は、命知らずの軍鶏(シャモ)の敵では無かった。将門の配下の勇士等は忽ち木っ端みじんと敵を打ち払った。良兼の軍は先を争って逃げる。将門は鞭を挙げ名を呼ばわって、勢いに乗って鬨(とき)の声を挙げて駆け崩した。敵はあっけなく下野の府に閉じ込められてしまった。ここで将門が厳しく攻め立てたら、良兼等を酷い目に遭わせていただろうが、将門の性質の美しさが窺い知れるところはここで在って、「妻の事で伯父を殺したと云われるのは欲せぬ」ために、囲みの一方を開けて逃げるに任せた。良兼等は危ない命を助かって辛くも逃れ去った。将門は明らかな勝利を得て、府庁の日記に下総介が無法に押し寄せ合戦を仕掛けた事と、これを退治した事を記録して置いて悠然と自領に引き上げた。火事は大分燃え広がった。私闘は余国までの騒ぎになったが、しかしまだ私闘である。謀叛をしたのでは無かった。これだけ大事になったのだから、周辺諸国も手出しこそしなかったが、注意深く見て居たに違いない。将門が国の役所の記録に事実を記して、周辺諸国に実際を知らせたのは、男らしく立派で知恵のある威勢あることであった。
 源護の方は事件を起こした最初から一度も良い事が無かった。痴者が衣服の焼け穴をいじるように、猿が傷口を気にするように、段々と悪いところを広げて散々な事になったが、いやに賢くずるい者は自分の命を投げ出して闘うことをしないで、何時も他の力や尤もらしいことを味方にして敵を苦しめることが上手だ。どう云う告訴状を上(たてまつ)ったかは知らないが、多分自分が前の常陸大掾であったことと、現常陸大掾であった国香の死を利用して、将門が暴威を振るって乱逆を敢えてしたと申し立てたに違い無く、そしてそれが、後世の歴史に「将門が常陸大掾国香を殺す」と書かせるようになったのだろう。去年十二月二十九日の官符が今年の九月になって、左近衛番長の正六位上英保純行や英保氏立や宇自加支興等によってもたらされて、下野や下総や常陸の諸国に朝命が示されて、原告の源護と被告の将門と、それと国香の部下の侘田真樹が召喚される事になった。そこで将門はその年の十月十七日、急遽京に上って裁判に臨んで一部始終を申し述べた。坂東訛の混じった蛮声で三戦連勝の勢いに乗じて、ガンガンと遣った事であろう。もちろん事実をありのままに述べたであろう、矢が来たから矢を報いた、刀を加えられたから刀を加えた、仕方なく弓矢を取る身となって合戦に及び、幸いに勝ちましてござる。と云ったに過ぎないであろう。もちろん私的に兵を動かした罰は受けたに違いないが、事情が判明して見れば重罪に問うこともないと認められて、それに加えて皇室に御慶事があったので、何等罰せられることも無く、承平七年四月七日には恩赦を拝して一見は落着した。検非違使庁の推問に対して、将門が男らしく勇威を示したことは却って都の評判になって同情を得たことと見える。しかし武力を戦わせたことについては、公式に深く譴責を受けたに違いない。そして同年五月十一日に京を去って下総に帰った。
 とは、「将門記」に載っているところだが、これは疑わしい。ここには事実の前後と年月に錯誤があるようだ。将門は何度も官符によって召喚されたが、最初の一度だけは上京したが、後は上京しないで英保純行に事情を告げたのである。将門はそれで宜しいが、良兼等にとっては、そのまま指を咥えて居ては坂東武者の腹の虫が承知しない。甥の小僧っ子に遣られて国香亡き後の一族の長たる良兼ともある者が、屈して仕舞うことは出来ない。護も貞盛も女たちも怒りの炎を燃やさないではいられない。将門が都から帰って来て流石に謹慎している状態を見て、恨みを晴らし恥辱を雪(そそ)ぐのはこの時と、良兼等はマタマタ押し寄せて来た。その年の八月六日に下総境の例の小貝川の渡しに良兼の軍勢は来た。今度は良兼もオカシナ知恵を出して、将門の父の良将や祖父の高望王の像(肖像画?)を陣頭に持ち出して来て、「サア矢が放てるものなら放って見よ、矛先が向けられるなら向けて見よ」と挑発して来た。籠城でもして万策尽き果て力尽きた時ならばいざ知らず、随分イヤな事をしたものだが、これには流石に勇猛な将門も閉口した。「親の位牌に頭コッツリ」と云う演劇には大抵の暴れ者も恐れ入ると云うもので、根がムチャクチャな男で無い将門は、神妙におとなしくして居た。おとなしくして居る将門の方がどれ程強いか知れないのだが、差し当って手が出せないと見ると、良兼の方は勝ち誇って、豊田郡の栗栖院や常羽御厨や将門領地の民家などを焼き払って、その翌日にサッと引き揚げた。
 芝居で云えば正念場と云うところになった。将門はやっつけられて怒り心頭になったがどうする事も出来ない。そこでその月の十七日に兵を集めて、大方郷堀越の渡しに陣を構えて敵を防ごうとした。大方郡は豊田郷大房村の地で、堀越は今は水路が変わって渡し場では無いが、堀籠村と云うところである。しかし将門は今回は前回と違って活発には動かなかった。「将門記」では、「脚気を病んで居て常に朦朧としていた」と云うが、それだけが原因かどうか、或いは都での訓諭に恐縮して、仮にも朝廷の下で、私的に兵を動かすのは悪いことだと思って、素直な勇士がもつ一面の優美な感情からウムと忍耐したのかも知れない。弱くない者には却ってこのような調子が有るものである。それでハッキリした抵抗も何もしなかったので、良兼の軍勢は思うままに乱暴した。前の恨みを晴らすのはこの時とばかり郡中を攻略し焼き尽くして随分と損害を与えた。将門は猿島郡の葦津江(今の芦谷)と云うところに隠れたが、猶危険が迫ったので妻子を船に乗せて広河の江に浮かべて、自分は防禦に適した陸閉と云うところに籠った。広河の江と云うのは飯沼の事で、飯沼は今は甚だ小さくなっているが、それは徳川時代になって伊達弥惣兵衛為永と云う者が、享保年間に飯沼の水が利根川より一丈九尺高く、且つ鬼怒川より横根口で六尺九寸、内守谷川辰口で一丈高いことを知って、大工事を起こし排水して数千町歩の新田を造ったからである。陸閉と云う地は不明だが、思うに降間(ふるま)の誤写で、のちの岡田郡降間木村の地だろうと云うことである。降間木も元は降間木沼と云う沼が有ったところである。サア物語は一大関節にさしかかった。将門がこのようにおとなしくして居て、むしろ敵を避けて身を屈して居るのだから、良兼の名分も立ったのだから、そのまま良兼方が凱歌を挙げて引揚げれば、或いは和解の助言なども他から入って程良いところで双方の折り合いが付いたかも知れないのである。ところが転石は山から下ると勢いが増す道理で、ついに良兼と将門は両立できない運命に到着した。それは将門が安全のために身を隠させたその愛妻を敵が発見したことであった。それシメタと云うので手向かう者を打ち殺し、七・八艘の船に積載した財貨三千余りを掠奪し、かよわい妻子を無残にも切り殺して仕舞ったのが同月十九日の事であった。元来火薬が無かった訳では無いから、一旦は神妙にしていたがコウなっては爆発しないでは居られない。逃がそうと思った妻子を殺されては、如何に将門が勇士でも、涙をこぼして悔しがり、拳を握りしめて怒ったことであろう。これではまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が辛辣になって来ただけである。謀叛をしようとは思って居ないのである。
 「将門記」の文章が妙に捻じれているので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総に連れ去られたので、九月十日になって弟の計らいで逃げ帰ったと云う風に読んでいる。しかし文に、「妻子同共(ともども)討取(うちとる)」とあるから、どうも妻子は殺されたらしく、逃げ帰ったのは一緒に居た妾であるらしい。しかし、「爰将門妻去夫留、忿怨不少(ここに将門の妻は去り夫は留まる、忿怨少なからず)」「件妻背同気之中、迯帰於夫家(件の妻は同気の中を背き、帰るに於いて夫の家に迯(のが)れる)」とあるところを見ると、妻が捕われたようでもある。「妾恒存真婦之心(妾は恒に真婦の心を存す)」「妾之舎弟等成謀(妾の舎弟等は謀ごとを成す)」とあるところを見ると妾のようでもある。妻妾の二字は形が近くて何とも紛らわしいが、妻子同共討取の六字が有るので、妻子は殺されたとものと読んでいる人もある。どちらにしても強調は出来ないが、「然而将門尚与伯父為宿世之讐(しかして将門は尚伯父と宿世の讐と為る)」と云う句によって、何れにしてもこの事が深い怨恨となったものと見て差支えない。しばらくは妻子が殺されて妾は逃げ帰ったと見て置く。
 この事があってから将門は遺恨已み難くなったのであろう。今までは何時も敵に攻められてから戦ったのであるが、今度は我から軍勢を率いて、良兼の居た常陸の真壁郡の服部、即ち今の筑波山の羽鳥を攻めたてた。良兼が筑波山に籠ったから羽鳥を焼き払い、戦書を送って勝負の一戦を為そうとしたが、良兼が陣を固めて戦いに応じなかったので、将門は腹いせに適地を散々荒らして帰った。コウなればお互いに遺恨は重なるばかりだが、良兼の方は官職を帯びているので官符が下って、将門を追補すべき事となった。良兼・護・今は父の後任となった常陸大掾の貞盛・良兼の子の公雅や公連・それから秦清文、これ等が皆職務として、武蔵・安房・上総・下総・日立・下野など諸国の武士を駆り集めて将門を取って抑えようとする。将門は将門で後へは引けなくなったから威勢を張って味方を集めて対抗する。諸国の介や守や掾は騒乱を鎮めるために務めなければならないのであるが、元来が私闘で、またその事情を考えれば強ち将門を片手落ちに退治すべき道理が有るようにも思えないので、官符が有っても誰も好んで戦乱の中へ出て来て、危ない目に逢おうとはしない。将門は一人で、官職も別に大したものを持ってはいない、ただ伊勢大神宮の屯倉(みやけ)を預かっている相馬御厨の司であるに過ぎない。思うに人の同情を得て居たので有ろう。そうでなければ四方から圧迫を受けないで済まない訳である。
 良兼はどうにかして勝ちたかったのであるが、実力勝負では勝つことが出来なかった。そこで時機を見て策略を用いて事を為そうと考えた。油断なく身張っていると、丁度将門の使用人に支部子春丸と云う者が居て、常陸の石田の民家に恋仲の女を持っていて、時々その女の許へ通うことを聞き出した。そこで子春丸を捉まえて絹を与えたり褒美を約束したりして、将門の陣営の様子を案内させることにした。将門はこの頃は石井に居た。石井は「いわい」と読むので、今の岩井がそれだ。子春丸は恋と欲とに心を取られて良兼の云うままに主人の営所内部の様子をことごとく良兼の武士に教えた。良兼はほくそ笑んで腕の立つ者八十騎を選んで密かに不意打ちを掛ける支度をさせた。十二月十四日の夕に良兼の手勢は出発して、首尾よく適地に突入し、風のように石井の営所に斬り入った。将門の武士は十人にも満たなかったが、敵が襲って来るのを知らせた者が居たので、急遽起って防戦した。将門も奮戦した。良兼の将の多治良利は一挙に敵を屠ろうとしたが、運悪く射殺されたので寄せ手は却って散々になって、命を落とす者は四十四人、可成り手強く戦ったが、敵地に踏み込むほどの強い武士共が随分巧みに、ウマウマと近づいたにも関わらずこの騎馬襲撃は成功しなかった。双方が精鋭驍勇の武士が死力を尽くしたこの華々しい騎馬戦も、将門方の或る騎士が結城寺の前で敵が不意打ちに来たのを悟って、良兼方の騎士の後ろから尾行してきて、鴨橋(今の結城郡新宿村のかま橋)から抜け駆けして、注進したために将門軍は勝ちを収めた。良兼は此の失敗で多くの勇士を喪って、気は屈し勢いは衰えて鬱々として楽しまず、その後は何も出来ないで、翌々年の天慶二年六月上旬に病死して終った。子春丸は事が露見して、不意打ちの日から何日もしないで捕らえられて殺されてしまった。
 騎馬襲撃が不成功に終わった翌年の春に、良兼は手出しが出来無くなっているし、貞盛も為すことも無く居なくてはならないので、これではイケナイと貞盛は京上りを企てた。都へ行って将門の横暴を訴え、朝廷の力を借りて将門を滅ぼそうというのである。将門はこれを知って貞盛にいいように云わせては面倒であると、急遽百四騎を率いて貞盛を追いかけた。二月二十九日に山道を採った貞盛に、信濃の小県の国分寺の辺りで追い付いて戦った。貞盛も予測していないでは無かったので、防ぎ矢を射った。貞盛方の侘田真樹は戦死し、将門方の文室好立は負傷したが助かった。貞盛は辛くも逃げて遂に京に入り、将門が暴威を振るうことの一部始終を申し立てた。この年の五月に改元が有って天慶元年となって、その六月に朝廷から将門を召喚する官符を得て常陸に帰り、常陸之介藤原維機の手から将門に渡した。将門は官符を得ても命令に応じなかった。維機は貞盛の叔母婿であった。(④につづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?