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幸田露伴の伝記「真西遊記・その十」

その十

 玄奘はこの時本国への帰国の思いが頻りだったので、仏像や経文などを手広く集めていたが、交友する諸大徳等はそのことを聞いて、「インドは仏の生まれ玉いし地であって、釈迦は世を去り玉われたが霊跡は今なお現存しており、此処彼処(ここかしこ)を礼拝し、読経坐禅の道の上に清き楽しみを取って一生を送られるのに不足はあるまい、かつ支那国は辺鄙な地にして諸仏も生まれ玉わないほどなのに、何が恋しくて折角馴染んだ此の地を今更捨てなさろうとされるのか、是非ともこの地に永く留まって、二度と帰ろうと云い玉うな」と言葉を尽して止めたけれども、玄奘は、「イヤイヤ聞き玉え、私の思いは大徳等と異なります、諸仏が教えを立てられたのは、出来るだけ教えを広めて、迷える者が悟りを得、苦しむ者が救いを得るようにと思い玉われたからで、それを支那国は仏も生まれ玉わないほどの辺鄙な地であると軽んじられるのは道理ではありせん。日輪は暗きを除き教法は迷いを消すものを、この教法を私有して自分だけ幸福を得るのは私の善しとするところではありません」と答えて、慰留に応じず互に問答が果てし無い。では尸羅跋陀大師にどちらが善いか訊いてみようと、大師の意見を訊いたところ流石に大師、「諸僧が玄奘を留めようとするのは朋友の情として道理(もっとも)ではあるが、玄奘が本国へ帰ろうとするのは故郷が恋しいだけではない。未だ尊い教えを知らない者達へ高く深い教えを伝えようとすることであれば、これは諸菩薩の心とも云うべき善い心掛けである。私がお前等に望むのも即ちそのようなことだ、お前等は玄奘を強いて止めてはならない、アア嬉しいことを聞いた」と、大層玄奘を褒めれば、諸僧等もまたこれ以上争いかねて各々の房(へや)に退いた。
 それから二日ほど経った時に、前記した東インドの鳩摩羅(クマーラ)王から尸羅跋陀大師の許に使者が来て、「支那国の大徳を招待したいので、できれば玄奘法師を我が国へ派遣されたい」と慇懃丁寧な書面で依頼されたので、尸羅跋陀大師は書を衆徒に示して、「以前戒日王が玄奘を招待してきたものを、今回鳩摩羅王の招待に応じて玄奘を派遣しては、大層戒日王を軽く見るようで宜しくない、鳩摩羅王の招待は断るほかはない」と、使者に対して、「支那の僧はすでに今は、故国に帰る心算(つもり)なので、残念だが王の依頼には応じられない」と答える。鳩摩羅王は答えを得て大いに失望したが、再度使者を派遣して、「たとえ故国に帰えられるにしても、暫時我が国へ来られることが、玄奘法師にとってどれほどの事があろう、願わくは是非我が望みを叶え玉え」という。しかし尸羅跋陀大師が猶も承知しないので王は大いに怒りを発して、「我は凡夫の浅ましい身なので、世の楽しみを知るだけで未だ仏法を知らないが、支那国の僧の噂を聞いて密かにその人柄を慕う心が起こり道に入る心が芽生えた。であるのに今もってその僧の来ることを許さないと云うのは、我を永く迷いの道に捨て置く所存か、僧をよこし玉わなければ弟子(ていし)にも考えがある、近頃では設賞迦(シャシャーンカ)王ですら仏法を害して霊跡の菩提樹さえ破壊した。師は我が身には設賞迦王ほどの力は無いと思い玉うか、御答によっては象軍を以って押し出し那爛陀寺を粉微塵に踏み砕いて申そう」と急使を立てて云って来たので、尸羅跋陀大師もつくづく思案して、「これほどまでに鳩摩羅王が云ってくるのも、或いは玄奘と王の宿世の縁かも知れない、彼の王は元来仏法に心掛けのある者でなく、彼の国もまた信仰する者は少ないが、或いはこれからは彼の国に仏法が大いに広まるようになるやも知れない」と、その思いを玄奘に伝えて、「面倒と思わず、使者に同道して彼の国に行って見なさい」と云われて、玄奘は鳩摩羅王の要請に応じて出発した。
 王は待ちに待った玄奘が来たので大いに悦んで群臣を引連れて出迎え、宮中に招き入れて日々音楽や飲食・花香などいろいろと供養を尽くし、自ら願って戒を受けた。このようにして一ト月余り過ぎたが、戒日王は恭御陀(コーンゴーダ)国を討って帰ったが、玄奘が何時の間にか鳩摩羅王に招かれて迦摩縷波(カーマルーパ)国に居ると聞いて大いに呆れ驚いて、「我が以前招いた時は来りなく、今迦摩縷波(カーマルーパ)国の居るとはどうしたことか」と急使を鳩摩羅王の許に送り、「至急、支那の僧をこちらへ寄こすべし」と要求した。鳩摩羅王は玄奘を深く慕い尊び、自分の王宮の外などに出す積りは無いので、戒日王の使者に対して、「戒日王の威勢は強いと云えども、我が頭は得られても法師は中々与えられない」と突っぱねる。使者が帰って王にこの旨をそのまま伝えると戒日王は奮然として、「鳩摩羅め我を軽く見おって」と大いに怒って、又も使者を派遣して、「よしそれならば、お前の頭をこの使者に直ちに与えて送らせろ」と烈しく責め立てれば、鳩摩羅王は今やインドに並ぶ者の無い戒日王の憤怒に遭っては国の存立も危ういと、大いに恐れて失言を悔い、象軍を整え船を揃えて玄奘と共にガンジス河を渡って羯朱嗢祇(カルナスヴァル)羅(ラ)国に着き、マズ群臣を引連れて戒日王の許に行き図らずも失言したことについて謝罪すると、戒日王も「結局は法師を敬愛する余りに云い出した過失であろう」と深く咎めず、ただ「支那の僧はどこか」と忙しく問うだけで気にもしない。
 その夜になって戒日王が自ら鳩摩羅王のところへ出向くと、鳩摩羅王は数千の篝火の光と勇ましい鼓の声に早くも戒日王の来たことを知って、灯(あかり)を掲げて諸臣とともに遠くまで出迎えたところ戒日王も機嫌よく入って来て、そこで玄奘法師を礼拝し頌賛を終えた後、「なぜ以前私が師をお呼びした時に来玉わなかったのですか」と問うと、玄奘は素直に、「私は尸羅跋陀大師の瑜珈師地論の講義の聴講の中途でした」と答えた。その他二三の問答も済んで王は無事帰ったが、翌朝になると早くも使者がやって来て玄奘を出迎えたので、玄奘は鳩摩羅王と共に戒日王の宮殿に行った。戒日王は門師等二十余人と共に迎え出て招き入れ、玄奘を座らせ、珍膳を並べ音楽を奏で花を振り撒いて供養の式が終わると、玄奘の制悪見論を請受して見て一読すると、大いに悦んで彼の門師に対し、「日光が出ると灯火の明かりは奪われ、天雷が鳴れば槌音は聞えなくなると云う、師等の宗旨は皆敗れたぞ、云うことがあれば此の論に対して自分等の宗旨の優位を云って見よ」と云うと、あれだけ陰で大乗を悪く云っていた者たちも云うことが無く口をつぐんで黙っている。ここに於いて王はもちろん、物陰で訊いていた王の妹も大いに悦んで、歓喜称賛の声が止まなかったが、王は言葉を改めて、「法師の論は真に大層好い、ここにいる者は私を始め諸師等も信伏致したが、猶恐らくは他国の小乗や外道などには頑固に自論を信じて、自論の陋劣なことが分からない者が多い、そこで私は曲女城で大会を開き、法師に大乗の微妙な理を示して頂いて、全インドの沙門・婆羅門・外道等の頑固な心を砕きたいと思う」とこの日直ちに勅命を発して、諸国の者に大会のあることを洩れなく通知した。
 玄奘が戒日王の言葉に従って臘月(十二月)になって会場に行くと、全インドの中から十八人の国王が来て、大乗や小乗を知る僧も三千余人来て、婆羅門や外道等も二千余人来て、那爛陀寺の僧も千余人来て居た。これ等の人たちは皆何れも永年の苦学で識見を煉り幾度の論難に舌鋒を研いだ侮りがたい俊秀である。多くは七人十人の従者を随え少なくとも二人三人は連れない者は無く、或いは象に跨り或いは輿に乗って、幢(はたほこ)を押し立て旗をなびかせて物々しく威儀を調え、雲が興り霧が湧きたつように競い合って参集する。王はマズ命じて千余人が座ることの出来る二ツの草殿と会場から西に五里ばかり離れた所に王の行宮(あんぐう)を造営させて、宮中に於いて日に仏像一体を鋳造させ、大象の上に宝帳を設置してその中に仏像を安置し、自らを帝釈天に擬(なぞら)えて宝冠と錦服に身を装って右に控え、鳩摩羅王を梵天王に擬えて宝蓋を執って左に控えさせ、華鬘(けまん)を着けて珮玉(はいぎょく)を鳴らして堂々と押し出して行き、また二頭の大象に宝花を載せて仏像の後に随わせて行く道々で花を撒き散らさせ、玄奘と門師等を大象に乗せて王の後に続かせ、また三百頭の大象を諸国の王や大臣・大徳等の乗り物にして、讃美の歌を唱えつつ行宮から会場に到着した。会場の門で皆は下乗して、仏像を宝殿の奥深くに入れた後、王と法師等は次々に供養を終えて、その次は十八ヶ国の王、諸国の名僧千余人、婆羅門・外道等五百余人、諸国の臣等二百余人に供養させ、次に群衆に食を提供し、次に金盤・金椀・金澡缶・金錫杖などと、金銭三千・上氈衣三千を布施し、別に宝床を設けて玄奘を座らせ、論主として大乗を讃える論を述べさせ、次に那爛陀寺の沙門の明賢(ヴィディヤーバドラ)法師にも讃大乗の論を述べさせ、猶また別に大乗を称揚する論文を会場の門外に高く掲示して一切の衆生に示し、モシ一條であっても論破できる者が居れば負けた者の首を斬って謝罪すると添記する。しかし一人として法師と討論する者は夕暮れになっても出て来ないので、王は大いに悦んで鳩摩羅王と共に行宮に帰り、法師等もそれぞれ帰った。
 次の日も前日と同様に供養の儀式を執行し、玄奘を論主として論を述べさせたが、小乗の徒や外道の輩等は自分等の宗旨を大乗論師のしかも外国人の玄奘に論破されて、恨みを晴らすところが無く怒りに堪えられず、密かに、「憎い支那僧の玄奘め、殺して呉れよう」と謀ったが、そのことが戒日王の耳に入ったので王は怒って、「愚か者等め自らを責めないで人を恨むとは、もとよりヒマラヤを見たこともないのに蟻塚を高いとし、自己(おのれ)の顔かたちの醜さを忘れて鏡を恨むような者共である。正しい教えを埋もれさせて衆生を誤り導くこと久しいところへ、支那法師が来て心広く智慧深く行い高く、真偽を分ける弁(べん)明らかに、邪正を正す眼(まなこ)鋭く、大法を掲げて諸疑を開明したことを、恩としないで恨みとし、猶も迷いを捨てかねて害そうとするとは不埒千万である。モシ法師を傷つける者があれば首を刎ねろ、理由なく罵る者はその舌を必ず斬れ、但し自己(おのれ)の是とするところのために論難することは当然であり、この限りではない。公明正大に論じるのであれば論じてよいが、密かに害を加えるなどは仏の罪人・法の罪人であり以っての他の悪事である。」と厳しく命じたので、小人共も首を縮めて悪計を思い止まった。
 遂に予定の期日である十八日間を、玄奘は日々論壇に座して論敵を待っていたが、玄奘の宏智雄弁には敵わないと思ったのか名乗り出る者は無く、却って邪を捨てて正に帰し、小乗を棄てて大乗に入る者が非常に多かったので、王は益々玄奘を崇め尊んで、金銭一万・銀銭三万・上毛衣一百領を贈ったが、十八ヶ国の王もまた各々競って宝を贈った。サテ予定通り十八日間の大会も大乗方の勝利で首尾よく終わったので、古式に則って、「支那国の法師が大乗の義を立てて諸々の異見を破ったが、十八日間敢えて論破する者はいなかった。皆々宜しくこの事を知れ」と、幢(はた)を立て飾りを施した大象に乗った者に玄奘の袈裟を持たせて国中に触れ回らせたが、人々は何れも玄奘の名誉を羨み褒めたたえて、大乗を信じる者等は玄奘に摩詞耶那提婆(マハーヤーナデーヴァ)と云う美称を付け、小乗の徒は木叉提婆(モクシャデーヴァ)と敬い称えた。摩詞耶那提婆(マハーヤーナデーヴァ)とは大乗天と云う意味であって、木叉提婆(モクシャデーヴァ)とは解脱天と云う意味である。
 これからは玄奘の名は雷鳴が轟くように全インドに鳴り渡ったが、サテ十九日に王の許を離れ帰ろうとすると、王は猶も止めて、「私は鉢邏耶伽(プラヤーガ)国で七十五日の大布施を行おうと思いますので、願わくは法師も臨席され玉え」と云うので、断わりかねて承諾する。この鉢邏耶伽(プラヤーガ)国の大施場と云うのは古来から名高い布施場で、二つの大河の間に在って、他所でするよりも功徳が多いと云い伝えられるほどの霊場なので、代々の王は皆、布施の大会を行う時は必ずここで行う習慣であって、戒日王も既に五回も大会を催したことがあり、今度が即ち六回目である。王は当世に並ぶ者のない王である。地は全インドでも屈指の地である。来席する法師は曲女城の大会で英名を馳せた玄奘法師ということで、我もその会に参じよう我も洩れてはいけないと、十八国王も追従して来て、僧徒や婆羅門・俗人らも追従して集まり来れば、その数は数えきれない。初日は例によって仏供養の式を行い、二日目は日天を供養し、三日目は自在天を供養し、サテ四日目になると僧徒一万余人の一人一人に金銭百文・珠一枚・氈衣一揃いを施し、五日目からは婆羅門に施して二十日余りをそれに費やし、六番目には外道に施して十日余りを費やし、七番目には遠方から特に来た者たちに施し、八番目には諸方の貧窮孤独の者に施したために、流石に戒日王が五年間貯えた富も一時に無くなって、身の回りの衣服や瓔珞・耳環・腕輪・頭の飾りまでなくなる。しかし王は少しも気にせず、玄奘に向って、「私は、このようにして少し心楽しい」と云う。玄奘も王の心の広さに内心感歎する。
 玄奘は強い帰国の思いに駆られて、しばしば王にその旨を伝えて来たが、王はなかなか離し難く思う、鳩摩羅王もまた、「願わくは法師、永く此の地に止まり玉え」と諫める。玄奘はホトホト弱って、「幸いに法を聴くことができましたが、私一人が成果を得るのは本意ではありません、又それは仏の広大無私な御心にも反しましょう、是非とも早々に故郷に帰り、未だ支那に伝わらない経論等を広めたい」と真剣に云えば、戒日王も鳩摩羅王も反対しかねて遂に玄奘の希望通りにすることに決まる。ここに於いて戒日王は金銭等を贈り、鳩摩羅王も種々の宝を贈ったが、玄奘は鳩摩羅王が贈った毛衣だけを受けて、その他は辞退して出立した。戒日王をはじめその他の者たちは数十里を送って別れを惜しんで咽び泣きして悲しんだ。玄奘は経文や仏像等を北インド王の烏地多王に依頼して託したが、戒日王も大象一頭と金銭三千銀銭一万を更に烏地多王に送って玄奘法師の旅行の費用とした。また玄奘と別れた三日後には鳩摩羅王や南インド王の杜魯婆跋多(ドゥルヴァバッタ)などと共に軽騎数百を引連れて後から追いかけて見送り、優秀な役人を四人随行させ、国書を持たせて支那までの沿道の各王達に玄奘法師を充分保護するように頼み聞かせるなど、親切は喩えようもない。(「その十一」につづく)

注解
・恭御陀国:前出
・迦摩縷波国:前出
・羯朱嗢祇羅国:今のガンジス河西岸のラジマハル付近に在った国。気候は暖かく、風俗は素直、才ある人を尊び、学芸が尊重されている。王統が途絶えて隣国に隷属し都城は廃城になっている。戒日王が東インドに出遊する時は此処に行宮を建てて執務した。
・鉢邏耶伽国:ガンジス河とヤムナ河の合流点付近に在った国、学芸を好み、外道を信じている。
 


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