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幸田露伴の史伝「平将門②(最初の抗争)」

 このような中で生長した将門は、不幸にも父の良将を亡くした。将門の何才の時であったか不明だが、弟たちの多いところを見ると、思うに十何才であったらしい。幼い子だけが残って主人の無くなった家ほど苦労なものは無い。母の里の犬養老人でも丈夫ならサゾ世話を焼くところだが、その存亡は不明であるが多分すでに亡くなっている年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事を世話したことは自然な成り行きであろう。後になって将門が国香や良兼と仲が悪くなった原因は、思うにこの時に国香や良兼が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少に乗じて私欲を逞しくしたことに因ると見て間違いない。サテ将門がようやく元服し京上りして、太政大臣の藤原忠平に仕えた。これは将門自身の思いから出たのか、それとも伯父等の指図から出たのか分からないが、何れにしても遥々(はるばる)と下総から都へ出て、都の風習を学び、文武の道を修め、出世の手掛かりを得ようとしたことは明らかである。もちろん将門だけでは無い、この頃の地方の名族の若者等は縁を頼って都の貴族の家に身を寄せ、世間を見たり、権力者に技量骨柄を認めて貰ったりして自分の任官叙位の下地にした事は、普通に行われて居たと見える。現に国香の長男の常平太貞盛もまた都上りをしていて、誰の推薦によったのか低い官職であるが左馬允になっていたのである。今日で云えば田舎の豪族の若者の従弟同士二人が共に大学に遊んで、卒業後に東京の有力者の知遇を得て出世の糸口にしようとしているようなものである。ここで考えられることは、将門が親無しで伯父の庇護によって世に出ている者であり、一方の貞盛は一族の長者の国香の総領として常平太とさえ名乗って、仕送りも豊かに受けていただろう貞盛の方が光っていたことは誰にも想像できることである。ところが変なことがあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思うとか、噂をするとかであれば、媢嫉猜忌(ぼうしさいき)の念(おもい)、俗に云う「やっかみ」で、自然とそう云う事も有ろうかと思えるが、別に将門が貞盛をドウコウしたと云う事は無くて、却って貞盛の方で将門を悪く云っている事実が有ることである。
もちろん事実と云っても「古事談」に出ているに過ぎない。「古事談」は顕兼の撰で余り確実なものとは云えないが、「大日本史」も貞盛伝に之を引用している。それはコウである。将門の在京中のこと、貞盛が式部卿敦実親王のところを訪問した。その時に丁度将門も親王の許(もと)を訪問して帰るところで、従兄弟同士が御門でハタと行き会った。カナタがジロリと見れば、コチラもギロリと見て過ぎたのであろう。その時に貞盛は親王に御目に掛って、「残念なことに今日は部下が居なかったので将門を殺せませんでした。部下さえいれば今日殺しましたものを、彼奴(キャツ)は天下に大事を引き起こすような者であります」と申したと云う事である。これは甚だ不可解な事で、貞盛が呂公(呂后の父)や許子将のように人相を能く見るとも思えないのに、随分思い切ったことを貴人の前で云ったものである。これはこの時が将門と純友が比叡山で謀叛の相談した後だとしなければ理屈の合わないことで、将門はまだ国にも帰らず刀も抜かず、謀叛どころか喧嘩さえも始めない時である。それを突然、「部下さえ居れば今日殺しましたものを」と云うとは、余りに従兄弟として貴人の前で口外するのも甚だしいことである。親王に貞盛がこれだけのことを云ったとすれば、モウこの時は既に貞盛と将門は心中で刃(やいば)を研ぎ合っていたとしなければならない。未だ父の国香が殺された訳では無いし、将門が何を企てて居たにせよ、貞盛がスパイをして知っていた訳でも無いし、ただ「悪い者で御座る、御近づけなさらないが宜しい」とでも云うのなら、後世の油井正雪と熊沢蕃山の出合の話のような事で、まだしも聞こえはいいが、「打ち殺せなかった事が口惜しい」とまで云ったとは余りに奇怪である。であれば、貞盛の家と将門とはモウこの時は反目し合う仲で、貞盛はそれを知っていたために、行く行くは無事には済まないとの予想から、そんなことを云ったのだと想像して初めて解釈の付くことである。此処に着目すると「古事談」の話が事実であれば、国香が将門に殺される以前から、国香の倅は将門を殺そうとしていて、そして殺せなかった事を残念がるような葛藤が、既に有ったと推測しなければならない事になるのである。ドラマの筋書きは早くも此の辺から始まっているのである。
 将門は京で、滝口の衛士になったのか分からないが、系図に滝口の小次郎と記されているところを見ると、その位の役職には付いていたのかも知れないが、それはともかく、将門と貞盛の家とは、仲が悪くなったには違いない。それは今昔物語に出ているように、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかったことからで、この様な事は昔も今もよくあることで、曽我兄弟の仇討もこのような事が原因で起きている。将門の在京中に既にこの事があって、将門と貞盛は互いに心中おもしろく無く思って居たところから、貞盛の言葉も出たとすれば合点が出来るのである。
 もう一ツは将門と源護一族との間の事である。これは原因が不明だが、因縁のもつれであることだけは明白である。護(まもる)は前の常陸大掾で役職を終えてからもそのまま常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波山の西にあたるところで、国香も此処に居たのである。護の世系は明らかでは無いが、その子の名が扶・隆・繁と皆一字なところを見ると嵯峨源氏らしく思われる。何れにしても護は名家であって、護の娘を将門の伯父の良兼は妻にしている。国香もまたその一人を貞盛の妻にしている。常陸六郎良正もまたその一人を妻にしている。この良正は系図では良茂の子となっているが、おそらくは誤りで国香の一番下の兄弟であろう(?、後述では高望王の妾の子で将門の伯父となっている)。
 将門と護とは別に敵対視する理由は無いハズであるが、この護一族と将門が私闘を起こしたのが最初の始まりで、将門には伯叔父が多いのにも関わらず、護の家と縁組をしている国香の家や良兼の家や良正の家が、特に将門を憎んで攻撃しているところを見ると、源護の家を原因とする紛糾した事情が有っての事件だと考えられる。「将門始末」では、将門が護の娘を得て妻にしようとしたが護が与えなかったので、将門が怒ったのが原因だと云っている。であれば、将門は恋の叶わない焦操から横車を押し出したことになる。そうすると良正か貞盛か二人の内の一人が将門の望んだ娘を妻にして仕舞ったことから起った事のように思われるが、いくら将門が乱暴者でも人の妻になって仕舞った者をドウしようと云う事は無いだろう。またそれが遺恨の本になる云う事も野暮な人の間では有り得るとしても、皆が一致して手酷く将門を包囲して攻撃するとは、何だか逆のような気がする。思う娘を奪われて、その娘の一族や縁者からコノ失恋男メ死んで仕舞えと攻めたてられた、と云うのは何だか変である。またたとえ将門の方から手を出したにしろ、恋の叶わない忌々しさから、その娘の家をはじめ、その娘姉妹の夫の家までやっつけようと云うのも、何だか変で過酷過ぎる。何れにしても決して簡単な事では無いだろう、かなり錯綜した事情が無ければならない。貞盛が将門を殺したがった事も、恋の叶った者が恋の叶わない者を生かして置いては寝覚めが悪いので殺すと云うのも、どうも情理が桂馬筋(斜め)に働いているようである。
 「故蹟考」ではコウ考えている。源護の子(扶・隆・繁)の中に将門が迎えた妻に懸想(けそう・横恋慕)した者が居たが、その婦人は源護の家には嫁がずに将門の妻となった。そこで憎悪の思いが高じて、兄弟姉妹の縁に連なる良兼や貞盛や良正等の力を併せて将門を殺そうとし、又、一面では国香や良正等はこれを好機に将門を滅ぼして相馬の夥しい田産を押収しようとしたのである。と云っている。ナルホド源家の為に大勢が骨折って世話をしようとした美人を将門に取られて面目を失わされ、しかも日頃から彼奴が居なければと願っていた将門にその婦人を取られては、襲撃して恨みを晴らし利を得ようと思う考えも出て来そうな事である。しかしこれも確証がある訳でなく想像であるらしい。ただその中で、将門を滅ぼせば田産押収の利が有ると云う事は、根拠のないことでは無い。
 要するに精しい事は知ることが出来ない。天慶年間、即ち将門が死んで間もないころに出来たと云う「将門記」の完本が有ったら訳も分かるのだろうが、今あるものは不完全なもので、肝心の発端のところが無いのだからどうしようも無い。しかし試みに考えて見ると、将門が源護の娘を得ようとした事から起った事では無いらしい、即ち「将門始末」の説は肯定できないのであって、むしろ将門の得た妻の事から起った私闘であるらしい。何故かと云えば「将門記」の中で、将門が勝を得て良兼を包囲したところの文章に、「このように将門は考えた。凡そこの戦いで負かしても、(伯父の良兼は)親戚である、親戚をつくる骨肉である。いわゆる夫婦は親しくとも瓦のように壊れやすい、親戚は親しくなくとも葦のように根で繫がっていると云う、モシ伯父を殺せば非難の声がアチコチで上がるだろう」と云って、取り押さえた伯父の良兼を、退路を開けて逃がして遣るところがある。その文意を考えると妻の事で伯父を殺すのは愚かであると云うのだから、将門が妻を得られないことで事が起こったのでは無く、将門が妻を得たことで伯父と争いが生じたのであるらしい。それからまた同記によると、将門を告訴したのは源護である。記に「その間、前の大掾の源護の告訴状に依って、護並びに犯人の将門及び真樹等を召進すべきとの官符が、去る承平五年十二月二十九日付で同六年九月七日に到来」とあるから、原告となった者は護である。真樹は侘田真樹で国香の属僚中の錚々たる者である。これに依って考えると良正や良兼は「将門記」の云う通り、源護が敗戦したため妻の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はただ源護一家と将門の間で事は起こったのである。であれば、将門が妻にした者に関連して源護一家と将門は戦い始めたのである。
 ドラマはここで幾通りも書き出すことができる。かつて同じ千葉県下で起きた事件でコウ云うのがあった。将門ほど強い男でも何でも無いが、可成りの田里を有していた未亡人が居た。その子が未だ成長しない間は親戚の或る者がその田里を自由にしていたが、その子が成人した後は当然これを返却しなければならなくなった。ところがその親戚は自分の娘をその男に娶らせて、自分は親としてその家に関係する計画を立てた。娘は醜くも無く、愚かでも無かったが、男は自分が拘束されるようになることを嫌う余りその娘を強く嫌って、その結婚を勧めた一族たちと烈しく衝突して仕舞った。悲劇はそこから生じて男は放蕩者となり、家は乱脈となり、紛争は輾転と増大して、終にかなりの旧家が村に落ち着いて居られないようになった。これを知っている自分の目からは一場のドラマが観えてならない。まことに夢のような想像ではあるが、国香と護は同じ国の大掾であって、二重にも三重にも縁合になっていて、居所も同じ地で極めて親しかったに違いない。モシ将門が護の娘を望んだのであれば、国香は出来難い縁であっても纏めようとした事だろう。その方が将門を自分の手中に置くのに都合がよいでは無いか、そうなれば「将門始末」の記すような事はマズ起こりそうもない。モシ反対に護の娘を国香が口を利いて将門に娶らせようとして、将門が強くこれに拒否した場合は、国香は源家に対する自分の企てが償い難い失敗を犯したことになって、貞盛や良兼や良正と共に非常に嫌な思いをしたことであろうし、護やその子等は面目を失って憤慨したことであろう。将門の妻はどのような人の娘であったか分からないが、千葉系図や相馬系図を見ると将門の子に良兌や将国や景遠や千世丸等が居て、また十二人の実子があった云う事が出ているから、妻や子が居た事は間違いない。そこで、将門が源家の娘を蔑視して顧みずに、他から嫁を迎えたとなると、面目を重んじるこの時代のことであるから、国香も護の子等も、特に源家の者は黙って居られなくなる。そこで談判論争の末に双方が後に引けずに武士の意地で、護の子の扶・隆・繁の三人は将門を敵に回して闘うことになったと想像しても無理は無いだろう。
 闘いは何れにしても将門が京から帰った数年後に起きたので、その場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の境界地方で、時は承平五年二月である。どちらから戦いを仕掛けたのか記されていないが、源家の子等の住地では無く、将門の領地から起ったのでも無い。将門の方から攻め掛けたように歴史が書いているが確実では無い。将門と源家とどちらの本領が戦場から近いかと云うと、将門の方が近い位である。相馬から出たのであれば遠いが、本郷や鎌庭からなら近い所から考えると、将門が結城あたりへ行こうとして出た途中を襲撃したものらしい。そうで無ければ理解出来ない。モシ将門の攻撃を防ぐ為に出掛けたものとしては、子飼川(小貝川)を渡ったり鬼怒川を渡ったりしていて、地理上からも遠くて合点がいかない。「将門記」にその闘いの時の記事に出て来る地名は、野本・大串・取木等で皆常陸の下妻付近であるが、野本は下総の野爪・大串は真壁の大越・取木は取不原の誤りか或いは本木村と云うのである。ドチラが攻めドチラが防いだか不明だが、「将門記」には「ここに将門、罷(や)めようとして罷められず、進もうとするが進むことが出来ない、なので身を励まし決心して、刀を交えて合戦する。」とあるのに照らし合わせると、どうも扶等が陣を張って通路を塞いで闘いを挑んだのである。この闘いは将門の勝利となって扶等三人は討ち死にした。将門は勝ちに乗じて猛烈に敵地を焼き立てて石田に着いた。国香は既に老衰して居た事だろう、なぜかと云えば、国香の下の下の弟の第二子か若しくは第三子の将門が既に三十三才なのであるからである。国香は戦死したのか又は焼き立てられて自殺したのか、後の書では分からない。双方の理非曲直は原因が不明なので今は評論出来ないが、何れにしても源家の方でも我慢が出来ずにコウなったのだし、将門の方でも闘いになれば闘争心が熾烈になって、やっつけるだけやっつけたのだろう。しかし此処で注意しなければならない事は、この闘いは私闘であって、謀叛を起こして国の大掾を殺したのでは無い事である。(③につづく)

注釈

・古辞談:
 鎌倉初期の説話集。
・呂公や許子将:
 共に人相見を能くしたと云う。呂公は漢の高祖の妃の呂后の父。
・油井正雪と熊沢蕃山の出合:
 由比正雪の乱の関係で熊沢蕃山が思想的に疑われた。
・滝口の衛士:
 蔵人所に属して内裏の警護にあたった武士。
・曽我兄弟の仇討:
 源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。
・前の常陸大掾:
 前の常陸国の国司(大掾)
・嵯峨源氏:
 嵯峨天皇の皇子皇女を祖とする源氏。
・「将門始末」:
 清宮秀堅著「下総国旧事考」巻3の「将門始末」か?
・「故蹟考」:
 「平将門故蹟考」、 織田完之著
・「将門記」:
 平将門の乱を描いた軍記物語。

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