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幸田露伴の小説「五重塔11~15」

       その十一

 格子を開ける響きさわやかに何時ものとおり、「お吉、今帰った」と元気そうに上ってくる夫の声を聞くと、心配を輪に吹いていた煙管(きせる)を捨てて忙(せ)わしく立ち迎え、「たいそう遅かったじゃアないか」と云いつつ背面(うしろ)に廻って羽織を脱がせ、立ながら顎に手伝わせて袖畳みを小早くし、それを室の隅の方にそのまま差し置いて、火鉢のそばへ直ぐまた戻って忽ち鉄瓶に松虫のような音をチンチンと発(おこ)させ、ムズと大胡坐をかいている男の顔を一寸見て、「日は暖かでも風が冷くて途中はずいぶん冷えましたろう、一ツお酒をつけましょうか」と、痒いところへ能くとどく手に口を利かせてガタピシさせずに膳ごしらえ、三輪漬(みわづけ)は柚の香ゆかしく、大根おろしで食わせる筋子は無造作だが気が利いている。
 源太の胸には苦慮(おもい)があるが幾らかこれに慰められて、猪口をとるなり二三杯、後の一杯をユックリ飲んで、「お前も飲め」と与えれば、お吉は一口つけ置き、焼きかけの海苔を畳み折り、「追っ付け三子(さんこ)が来そうなもの」と、魚屋の名を独語(ひとりごと)しつつ猪口を返して酌をした後、さぞかし良い結果であろうと腹で思えば動かす舌も滑らかに、「それはそうと、今日の結果はこちらのものと思っていても、知らせて下さらないうちは無駄な苦労を私がします、お上人様は何と仰せか、またのっそり奴(め)はどうなったか、ソウ真面目顔でムッツリとしておられては心配で心配でなりません」と、云われて源太は高笑い。「心配してもらう事は無い、お慈悲の深い上人様は結局俺を好い男にして下さるのよ、ハハハ、ナアお吉、弟を可愛がれば好い兄貴ではないか、腹の減った者に自分は少しつらくても飯を分けてやらなければならない場合もある、他(ひと)の怖いことは少しも無いが強いばかりが男では無いわナ、ハハハ、じっと我慢して無理に弱くなるのも男だ、アア立派な男だ、五重塔は名誉な仕事、ただ俺一人でものの見事に千年も壊れない名物を万人の眼に遺(のこ)したいが、他人(ひと)の手も知恵も少しも交(ま)ぜずに川越の源太の手腕(うで)だけで遺したいが、アア癇癪を起さずに堪忍するのが、エエッ男だ、男だ、成程好い男だ、上人様に虚は無い、せっかく望みをかけた仕事を半分他人(ひと)に呉れるのはつくづく忌々しいが、アア辛いが、エエッ兄貴だ、ハハハ、お吉、俺はのっそりに半口やって二人で塔を建てようと思うが、立派な弱い男か、褒めてくれ褒めてくれ、お前にでも褒めて貰わなくては余りに張合いのない話だ、ハハハ」と嬉しそうな顔もしないで、意味もなく声ばかり弾ませて笑えば、お吉は夫の気持ちを量りかねて、「上人様がどう仰ったか知らないが、私にはさっぱり分らない少しも面白くない話、あの唐変木(とうへんぼく)のっそり奴(め)に半口やるとはどういう訳、日頃の気性にも似合わない、やるものならば未練なしにスッカリやってしまえば好(い)いし、こちらで取るのなら要りもしない助太刀を頼んで、一人の首を二人で切るようなケチなことをするにも当らないじゃアありませんか、冷水(ひやみず)で洗ったような清潔(きれい)な腹を持っていると他人(ひと)にも云はれ自分でも常々云っているお前さんが、今日に限って何という煮切らない考え、女の私から見ても意気地のないグズグズした考え、褒めません、褒めません、中々どうして褒められません、相手は高がこちらの恩を受けているのっそり奴(め)、本来ならばこちらの仕事を先取りする太い奴と高飛車に叱りつけて、グウの音も出せないようにすることの出来るのっそり奴を、ソウ甘やかして胸の焼ける連名仕事を何でする必要があろうぞ、甘いばかりが立派な事か、弱いばかりが好い男か、私の虫には受け取れません、何なら私が一ト走りのっそり奴のところに行って、重々恐れ入りましたと思い切らせて謝らさせ両手を突かせて来ましょうか」と、女の賢(さか)しい夫思い、源太は聞いて冷笑し、「何でお前に分るものか、俺のやることを好いと思っていてさえ呉れればそれで可(い)いのよ」。

注解
・唐変木:気の利かない奴(やつ)。

       その十二

 頭から一言のもとに黙っていろとやり込められて、きかん気のお吉は顔をふり上げて何か云い出したそうだったが、自分より一倍きかん気の夫が云うものを押し返してどれほど云っても、機嫌をそこねる事はあっても、口答えの仕甲斐の露ほども無いことを経験しているので、連れ添う者に心の内を語り明かして相談しない夫を恨めしく思いながら、そこは利口な女は判断が早く、「何も私(あたし)が逆らって女の癖にいらない口を出すのではないが、ツイ気にかかる仕事の話、思わず様子を聞きたくて、余計なことを胸が狭いのでしゃべったわけ」と、自分が真実こめて云った言葉をわざと軽くして仕舞い、どこまでも夫の考えに従うように表面(うわべ)を装うのも、幾らかは夫の腹の底に在るムシャクシャを殺(そ)いでやりたいからの真実(まこと)、源太もこれには角張りかかった顔をやわらげて、「何事も皆天運(めぐりあわせ)じゃ、こちらの了見さえ素直に優しく持っていればまた好い事が廻って来ようもの、コウ思って見ればのっそりに半口やるのも却って好い心持、世間は気持ち次第で忌々しくも面白くもなるものだ、出来るだけケチな錆をつけないでアッサリと世をきれいに渡りさえすれば、それで好いハ」と云いさして、グイと仰飲(あお)いで、後は芝居の噂やら弟子どもの日頃の噂、まことに罪のない話を下物(さかな)に酒を適度に心よく飲んで、粗末な食膳であるが仲睦まじく食べ終わり、大方モウ十兵衛が来そうなものと何もしないで待っているのに、時は空しく経過して障子の日影は一尺動いたがまだ来ない、二尺移ってもまだ来ない。
 「是非にと先方から頭を低くし身を縮めてこちらへ相談に来て、なにとぞ半分なりとも仕事を分け与えて下さいと、今日の上人様のお情け深いお言葉を頼りに泣きついて頼み込むべきなのに、どうしてコウも遅いのか、思い諦めてもはや相談にも及ばないと、ひとり我が家で燻(くすぶ)っているのか、それともまた、こちらから行くのを待っているのか、もしもこちらが行くのを待っているというのなら、余りにも増長した了見だが、まさかそのような高慢気は出すまい、例ののっそりで悠長に構えているだけの事だろうが、サテも気の長い男だ迂濶にも程がある」と、煙草ばかり徒らに喫(ふか)して待つ身には短い日も随分と長いのに、それさえ暮れて群烏(むれがらす)が塒(ねぐら)に帰る頃ともなれば流石に心おもしろくなく、次第に癇癪が募ってきて堪えきれないで、用意された夕食の膳に向うと、そのまま云い訳ばかりに箸をつけ茶をガブリと飲んで、「お吉、十兵衛メのところに一寸行ってくる、行き違いになって留守に来たら待たしておけ」と、云う言葉さえトゲトゲしく怒りを含んで立ち出(い)でかかれば、気には懸かるがどうしようもなく、女房は送り出した後ただ溜息するだけ。

       その十三

 渋って中々開かない雨戸に源太はいっそう癇癪の火の手を昂(たか)ぶらせ、力まかせにガチガチと引き開けて、「十兵衛は家か」と云いざまに突(つ)ッと入れば、声を知るお浪は早くもそれと悟って、恩あるその人と争っている十兵衛に連れ添う身で、顔を合わすことも辛い女の気持ちの纎弱(かよわ)い胸をドキつかせながら、「マア親方様」とただ一言(ひとこと)思わず云い出しただけで、挨拶さえドギマギして急には二の句も出ない中を、煤けた紙に針の孔や油染みなどの多い行灯(あんどん)の小蔭に、ションボリと座り込んだ十兵衛を見かけて、源太にズッと通られて、慌てて火鉢の前に迎える機転の遅さも、正直一方で世情を知らない姿なのだろう。
 十兵衛が不器用に一礼して重たげに口を開いて、「明日の朝に参上(あが)ろうと思っておりました」と云えば、ジロリとその顔を下眼に睨みわざと落ち着いた源太、「オウ、そういう積りだったのか、こちらは例の気短(きみじか)で今しがたまで待っていたが、何時になったらお前が来るのか分からないと、出掛けて来ただけ馬鹿であったか、ハハハ、しかし十兵衛、お前は今日の上人様のお言葉を何と聞いたか、二人でよくよく相談して来いと云われた揚句の長者の二人の子の話、それでわざわざ相談に来たが、お前も大方考えをきめているだろう、俺もずいぶん癇癪持ちだが、悟って見ればあの喩えの通り、争い合うのはお互いに詰らないこと、まんざら敵(かたき)同士でもないから俺も身勝手は云わない、つまりはお互いの納得づくで決定したいと、我慾を充分に折って砕いて考えを凝らして来たものの、尚、お前の考えも腹蔵無く聞いて、その上でまたどのようにもしようと、俺も男だ汚い企みは腹に持たない、本当にコウ思って来たハ」と、言葉をやめて十兵衛の顔を見ると、俯伏(うっぷ)したままただハイハイと答えるだけで、乱れ髪の中に五六本の白髪(しらが)が瞬く灯りの光を受けてチラリチラリと見えるばかり。お浪は早やくも寝た猪之助の枕の方に思わず座って、息さえしないように之もまた静まりかえっている淋しさに、却って遠くで売り歩く鍋焼うどんの呼び声が、幽かに外から家の中に浸み込んで来るほどである。
 源太は益々気を静め、語気おだやかに説き出して、「マア遠慮無く俺の方から打明けようか、どうか十兵衛コウしてくれないか、折角お前も望みをかけて天晴名誉な仕事をして、持っている腕の光を顕わして、慾徳抜きで職人の本望を見事に遂げて、末代にまで十兵衞という男の意匠と細工ぶり、これを見てくれと遺すつもりだろうが、察しも付かう俺だとてソレは同じこと、滅多に有るような普請ではない、取り外(はぐ)れては一生にまた出会うことも覚束ない、なれば源太は源太で俺の意匠ぶり細工ぶりをぜひ遺したいハ、理屈を自分のために付けて云えば、俺はマア感応寺の出入り、お前は何の縁もない身、俺は先口、お前は後だ、俺は頼まれて見積もりまでしたが、お前は頼まれてもいない、他(ひと)の口から云えば俺は請負(うけお)ったも同然、お前の身では不相応と誰もが非難するだろう、だが俺は今は理屈を味方にするのでもない、世間を味方にするのでもない、お前が手腕(うで)を持ちながら不幸せでいるのも知っている、お前が普段不幸せを口にこそ出さないが、腹の底ではどのくらい泣いているかも知っている、俺がお前の身なら我慢できないほど悲しい一生というのも知っている、それで去年(きょねん)も一昨年(おととし)も何にもならないことだがマア出来るだけの世話はしたつもり、しかし恩にきせると思ってくれるな、上人様だとてお前のキレイな腹の中を御洞察されたればこそ、お前の不幸せを気の毒と思われての今日のお諭し、俺もお前が慾かなんぞで俺の相手に立つ奴なら、俺の仕事にじゃまを入れる生意気な死にぞこない野郎と、手斧(ちょうな)で脳天をぶち抜かないではおかないが、つくづくお前の身を思えばイッソ仕事も呉れたいような気がするほど、と云って俺も慾は捨てきれない、仕事はどうあってもしたいハ、そこで十兵衛、聞いてもらうのも云いだすのも仕難いが、云わない訳にいかない相談じゃ、マアどうじゃ我慢して承知してくれ、五重塔は二人で建てよう、俺を主にしてお前には不足だろうが副(そ)えになって力を貸してくれまいか、不足ではあろうが、マア厭でもあろうが源太が頼む、聴いてはくれまいか、頼む、頼む、頼むのじゃ、黙っているのは聴いてくれないのか、お浪さんも私(わし)の云うことが分かったなら、なにとぞ口をそえて聴いてもらっては下さらないか」と、もろくも涙になっている女房にまで頼めば、「お、お、親方様、エエありがとうござりまする、どこにこのような御親切な相談をかけて下さる方のまた有りましょうか、なぜお礼をば云われませんのか」と、左の袖は露時雨(しぐれ)の涙に重くさせながら、夫の膝を右の手で揺り動してかき口説くが、先刻より無言の仏となった十兵衛はなおも何とも言わないで、二度三度とかき口説くとも黙々として猶も云わずにいたが、やがて垂れた頭をもたげて、「どうしても十兵衛、それは厭でござりまする」と無愛想に放つ一言、ビックリ驚く女房、「なんだと」と一声はげしく鋭く首筋を反らす一二寸、眼に角立ててのっそりを真っ向から見下ろす源太。

       その十四

 人情の花を無くさずに義理の幹をシッカリ立てて、普通の者にはできない親切な相談を、一方ならない実意をもって源太親方がしてくれたのに、いかに無造作な性質がさせた返答だと云えども、十兵衛厭でござりまするとは余りにもの挨拶、他人(ひと)の情けの全く分からない土人形でもコウは云うまいものを、それにしても恨めしいほど非道な、口惜いほど無分別な、どうすればこのような無茶な夫の考えがと、お浪は呆れ驚いて、我が身が急に絞(しめ)木(き)にかけられて絞られるような心地がして、思わず知らず夫にすり寄り、「それはマア何と云うこと、親方様があれ程にアレコレと思われて、見すぼらしい私等など、云わば一ト足にて蹴落してお仕舞いなさることも出来る私等などに、一方ではないお情けをかけて下され、御自分一人でなさりたい仕事をも分け与えてやろう半口乗せて呉れようと、身に浸みるほどありがたい御親切な御相談、しかもお呼び付けにでもなってのことどころか、座布団さえあげることの出来ないこのようなところへ態々(わざわざ)お出でになってのお話、それを無にして勿体ない、十兵衛厭でござりまするとは恩を知らない我儘勝手、親方様の御親切を分らないハズは無かろうに、欲の深いも無遠慮も大方は程度のあるもの、コレこの私の今着ているものも、去年の冬はじめに袷(あわせ)姿で寒むげなのを気の毒がられ、お吉様が縫い直して着ろと下されたものを、貴方の眼には映らないのか、一方ならない御恩を受けておりながら親方様の相手に立っても、それを小癪なとも恩知らずなとも仰らないで、どこまでも弱い者を庇ってくださるお情け深いお考えに、頼りすがらないで頭から厭じゃとは、たとえ真底(しんそこ)から厭にせよ、分別ある人間(ひと)の口から出せる言葉ではござりません、親方様の手前やお吉様の思惑もよく念を入れて考えて見て下され、私はもはやこれから先どの顔さげて厚かましく、お吉様にお眼にかかることができましょう、親方様はお胸が広くて、アア、十兵衛夫婦は訳の分らない愚か者だから仕方がないと、そのまま何とも思われずに打ち捨てて下さるか知らないが、世間は貴方を何と云おう、恩を知らない奴、義理を知らない奴、人情が解らない畜生め、あいつは犬じゃ烏じゃと皆に爪弾きされるのは必定、犬や烏の身となって仕事をして何の功名(てがら)、慾をかくなアクセクするなと常々私に諭される自分の言葉に対しても恥かしくは思わないのか、どうぞ素直に親方様の御意見に付いて下さりませ、天に聳える生雲塔(しょううんとう)は誰々二人で作ったと、親方様と一緒に肩を並べて世に称(うた)われれば、貴方の苦労の甲斐も立ち親方様のありがたい御志(おこころざし)も知られる道理、私もどんなに嬉しかろうか喜ばしかろうか、モシそうなれば不足などは薬にしたくても無いハズなのに、貴方は悪魔に魅せられてそれでもまだまだ不足じゃと思われるか、アア情け無い、私が云わずと知れている貴方自身の身の程を、身の程をも忘れてか」と、泣き声になって掻き口説く女房の頭は低く垂れて、髷に挿した縫針(ぬいばり)の孔(めど)がくわえた一条(ひとすじ)の糸をユラユラと振(ふる)わす姿に、千々に砕けた心の状(さま)も知れるいじらしさに、眼を瞑(ふさ)いでいた十兵衛はそのとき例の濁声(だみごえ)を出して、「喧(やかま)しいぞお浪、黙っていろ、俺の話の邪魔になる。親方様聞て下され」。

注解
・非道:人の道に外れたこと。
・生雲塔:五重塔のこと。

       その十五

 思うことに激してか、ガタガタと慄え出す膝頭を確(しか)と寄せ合わせて、その上に両手を突っ張り身を固くして十兵衛は、「情けない親方様、二人でしようとは情けない、十兵衛に半分仕事を譲って下されようとは御慈悲のようだが情けない、厭でござります、厭でござります、塔を建てたいは山々でも、モウ十兵衛は諦めておりまする、御上人様のお諭しを聞いてからの帰り道、スッポリ思い諦めました、身の程にもない考えを持ったのが間違い、アア私が馬鹿でござりました、のっそりはどこ迄ものっそりで馬鹿にさえなって居ればそれで可(よ)いわけ、溝板でも叩いて一生を終りましょう、親方様堪忍して下され私が悪い、塔を建てようとはモウ申しません、見ず知らずの他の人ではなし、御恩になった親方様が一人で立派に建てられるのを、他所(よそ)ながら見て喜びましょう」と、元気なく云い出すのを気短(きみじか)の源太、悠々と聞いてはいないでズイッと身を進めて、「馬鹿を云え十兵衛、余りに道理が分らな過ぎる、上人様のお諭しはお前一人に聴けと云ってなされたのではない、俺の耳にも入れられたハ、お前が腹で聞たなら俺は胸で受取った、お前一人に重石(おもし)を背負わせ辞退させて、ソレで源太が男になれるかヤイ、詰らない考えに身をおいて馬鹿にさえなっていれば可(よ)いとは、理解(わかり)が良過ぎて尤もとは云われまいぞ、オウそれなら俺がやると得たり賢(かしこ)に引受けては上人様にも恥かしい、第一源太がせっかく磨いた侠気(おとこぎ)もそこで終って仕舞い、無論お前も虻蜂取らず、知恵の無いにも程があるというもの、ソウなっては二人にとってなに可(よ)かろう、サアそこで美しく二人で仕事をしようと云うのに、少しは気まづいところが有ってもそれはお互い、お前が不足な程にこちらにも面白くないことがあるのは分かりきった事、ならば双方で我慢仕合って我慢出来ない訳は無いハズ、何もわざわざ骨を折ってお前が馬鹿になって仕舞い、何日もの心配を煙りと消して、天晴な手腕(うで)を寝かせ殺しにするにも当らない、ナア十兵衛、俺の云うことが解ったらガラリと考えを変えてくれ、源太は無理は云わないつもりだ、コレなぜ黙っている、不足か不承知か、承知してくれないか、エエッ俺の考えをまだ呑み込んではくれないのか、十兵衛、あんまり情けないではないか、何とか云ってくれ、不承知か不承知か、エエッ情けない、黙っていられては解らない、俺の云うのが不道理か、それとも不足で腹立ちか」と、義には強いが情には弱い、意地も立てれば親切に飽くまで徹する江戸ッ子の腹、源太がやさしく問いかければ、聞いているお浪は嬉しさが骨身にしみて、親方様ああ有り難うござりますると、口には出さないが、舌よりも真実を語る涙をもらす眼で、返事をしない夫の方を気遣って見れば、夫は露一厘身動きもしないで無言にて、思案の頭を重く垂れ、ポロリポロリと膝の上に涙が落ちて声がする。
 源太も今は無言となって少時(しばらく)ひとりで考えていたが、「十兵衛お前はまだ分からないのか、それとも不足と思うのか、成程せっかく望んだことを二人でするは口惜しかろう、しかも源太を心(しん)にして副(そえ)になるのは口惜しかろう、エエッ負けてやれコウしてやろう、源太は副になっても可いハ、お前を心に立てるから、サアサア清く承知して二人でしようと合点(がってん)しろ」と、自分の望みを無理に折って思い切って云い放つ。「と、とんでも無い親方様、たとえ十兵衛気が狂ってもそのようなことをどうして出来ましょう、勿体ない」と、慌てて云うのに、「それなら俺の意見に付くか」とただ一言に返されて、「それは」と窮(つ)まるのをまた追っ掛けて、「お前を心(しん)に立てやろう、それでも不足か」と、烈しく突かれて度を失う、傍(そば)で女房が気をもんで、「親方様の御意見にマアなぜ早く付かれない」と、責めるように恨めしく言葉もオロオロとすすめれば、十兵衛ついに絶体絶命、下げた頭を徐(しずか)に上げて円(つぶら)な眼を剥き出して、「一ツの仕事を二人でするのは、モシ十兵衛が心になっても副になっても、厭なればどうしても出来ません、親方一人で御建て下され、私は馬鹿で終りまする」、と皆まで云わせず源太は怒って、「これほど事を分けて云う俺の親切を無にしてもか」、「ハイ、ありがとうはござりまするが、虚は申せません、厭なれば出来ません」、「汝(おのれ)よく云った、源太の言葉にどうしても付かないか」、「仕方ないことでござります」、「ヤア覚えていろコノのっそりめ、他人(ひと)の情けの分らない奴、そのような事が云えた義理か、ヨシお前とは口をは利かない、一生溝(どぶ)でもいじって暮せ、五重塔は気の毒だがお前には指一本差させない、源太一人で立派に建てる、建てたら出来栄えを見て見やがれ」。

注解
・重石:厭な思い(あきらめ)
・合点しろ:了解しろ


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