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幸田露伴の随筆「折々草46」

四十六 劇評を求められるを辞するの書
 
 十一日に見物した歌舞伎座の劇についての感想を書けとの御催促、委細承知しました。しかしながら日々郷(さと)暮らしの生活に慣れて市中(まちなか)の喧騒を嫌い、歌舞伎座へ車を走らせて枡の中で窮屈を堪えるよりは、中川べりで一竿(いっかん)を携えて桶魚籠(おけびく)に腰を休める方が、私の性分に合っていると思うほどの野人ですので、日曜という日曜は、昔の絵師が描いたと云うバカ者のバカ仕事の魚釣り三昧で日を送り、中々芝居も観に行かず、玉ウキの浮き浮きと世を過ごすのも、板オモリの沈みがちにワビて身を処すのも、人それぞれの心持ち、私には私の楽しみがあると、大川の水の深みで澄ましかえっている冬鮒のように、格別求めるところも無く過ごしております者が、たまたま評判の高さに誘われて役者の一挙一動に一日の眼を晒したからといって、直ぐにアレコレ云い出すのもオコがましい限りで、お恥ずかしいことであります。団十郎・菊五郎の名優は云うに及ばず、丑之助・英太郎の若手まで、誰が心を込め身を使い技を演じない者がありましょう。しかもこれ等の諸俳優は、その最も勝れた団菊(団十郎・菊五郎)からその最も劣る無名の輩まで、皆多少の天賦の才と血筋の因縁で歌舞伎界の名を連ね、その最も長いのは数十年からその最も短いのでも数年の切磋鍛錬によって舞台に身を寄せる者であれば、酸いも甘いも彼等は知っているハズである。観る者が眼に止め心に浮かべる事などを何で彼等が知らないことあろう。であるのに彼等に対して、野天で弁当箱を開け慣れていても、シャンデリヤの下で弁当を食い慣れていない私などが評をするのは愚の骨頂のように思います。世の中で忌まわしいのは、生半可な理解力しか持たない輩が聞きかじりの耳学問で賢顔(かしこがお)に口を出し、花の中にも枯れ木を捜すキツツキ根性のせせこましさでナンノカンノと批判し、或いは孔雀の羽を拾って自分の黒い身を飾ろうと思ったたとえ話のカラスのように、「誰の型(かた)はコウ、誰が仕種(しぐさ)はコウ、コウコウ、カクカク、カアカア」と声喧しく騒ぎ立てて、観たことも無い古人の演じたことを基準に借りて妙に高ぶる、急ごしらえの評者であります。私なども交際する人の中には老人の劇通が一人二人いないこともありませんが、急ごしらえの劇通となってアレコレ評をするのも、或いは出来なくは無いが、横山町(日本橋横山町問屋街)の仕入れで云えば十把一からげの袋物のような分際で、型(かた)が形(なり)がと生意気を云う仕入れ通(通人)にはなりたくはありません。貴方の与かられる此の雑誌も、通人に黄色い声を立たせるようなところとも思えません。であれば、「水滸伝」中の阮三兄弟のように窮状を抜け出したいと思っている私に何かを書かせてやろうとの君の意(こころ)は、私に劇評を求めているようで実はそうでないことは、例えば「水滸伝」で智多星が特に来た理由が、鯉を求めて来たようで実はそうで無かったようなことではないでしょうか。君が私に鮒を語らせるのであれば、私は必ずその鯉が荒川の鯉か中川の鯉か見分け、またその味は何方が美味かをも云えられるでしょうが、私に俳優の技を語らせようとされても、私は愚かですが通人になることには堪えられません。この件に金槌鮒は固くなり銀鮒は平に平にとお断り申し上げます。しかし君の意(こころ)は私に必ずしも劇評をさせようとあるのでは無く、思うにその意(こころ)は愚直な私を使って世の通人を諷刺しようというのでしょう。真(まこと)に通人の面(つら)の憎さよ、小魚の分際で人魚ほど長生きしたように物知りぶって、演劇界の大魚を或る時は取り巻いてその威を借り、また或る時は侮って自分の跳ね返りの名を上げようとする。分不相応に口が大きく、どんなものにも咬ぶりつこうとするのは、例えば鯊(はぜ)というものに似て、自分は魚だと思っているが漁師は魚籠(びく)に入れないでただ取って捨てるだけで魚扱いにされないように、その云うところを俳優は頭(てん)から取り上げないと聞いていますが、このような通人のするところは、批評の価値を低くする他は何の結果も世に与えず、苦々しい限りともうせましょう。これ等の通人も私のように早く劇評など止めて、ただ見物をしていれば劇界の水も次第に澄んで、批評の道の光も透徹するでしょうと、気持ちは釣り糸のように真直ぐですが旋毛(つむじ)は曲った棘(とげ)のある鉤(はり)であるとだけ申し上げる次第であります。草々。


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