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幸田露伴・支那(中国)の話「蘇子瞻米元章②(米元章)」


 
 東坡を語ることは先ずこれまでとして、米芾(べいふつ)、字は元章のことに移ろう。米元章も一代に傑出した人で、その伝記は宋史の四百四十四に出ているが、もとより翰墨(かんぼく・書画)に止まり、蘇東坡のような政治に意見を有したり、国民に治績を遺したりしたと云う方面の人では無いから、伝記するところは甚だ少ない。しかもまた東坡居士の方は文集や詩集が現在まで伝わっていて、またその弟の「欒城集」やその子の「斜川集」までも遺っているので、それらを縦横に読破さえすれば、幾らでも種々の事を考えることが出来るが、米元章の方は、その書画が珍重されて残っていて、また書史や画史などの類こそ遺っているが、その詩文集の「宝晋斎集」は全く逸失して伝わっていないのか、とにかく私も人も目にしたことがないから、ただ雑書や随筆に談材を得るだけなのが残念である。なるべく虚妄作為の誤りは伝えたくないが、元来が奇人で、ピンピンと生きて居る時から米顚(べいてん・米の気狂い)々々と呼ばれた。超常的な人なので随分信じられないような変な話が多く遺っている。その代わり斟酌無しに詩人気質や芸術家気質を発揮した興味の多い話が多い。その話は断片的で、まるで作り話のようなものばかりだが、しかし大抵はウソでは無いだろう。東坡が仙人になって行方知れずになったなどと云われるように、この奇異な俊人のことをアレコレいわなくても、その人自身が現にいろいろ妙な談材を提供しているのであるから。「宝晋斎集」などのこの人の文集が遺って居れば、昼下がりの静かな部屋の中で読めば眠気も覚め、ニッコリと笑みを発して、惰気を払うことができると思うが、惜しいことにそれの伝わらないことは遺憾千万である。
 「宗史本伝」にも、「米芾の文は奇抜で、前例にとらわれない」と云っているが、前例にとらわれないと云うことは即ち定跡破り、脱線気味と云うことになるが、いかにもそうで、宋史の書くことは誤ってはいないように思える。一例を挙げると画史の序がそれである。原文が優れて奇抜なので、今ザッとその意味するところを取って云えばマアこんなものだ。「杜甫の詩に、薛少保のことを、惜しいかな巧名迂(う)に、ただ見る書画の伝わるを、とあるが、杜甫も好い先生だ分からないことは有るメエじゃないか、少保の筆精墨妙なこと、石が砕けりゃ重ねて刻され、絹が破れりゃ重ねて補われるし、又その名をかりているのも幾ら有るか知れやしない、だから世の気の利いた者が、キレイな布で十重二十重に包んで大切にしている。功名なんぞ遂げたところで何だい、エ、オイ杜二(とじ・杜甫)、一杯次いでやろうドウダイ、そこで画史を作った」。まさかこれ程でも無いが、いかにも奇抜だ。又、書史の跋も「ありがたい古い筆跡は、みんな伝録だ、偉そうに沮誦(そよう)や蒼頡(そうけつ)なんぞを引っ張り出して古証文でモノを云ったって、何処にも本物は無いヤ、いい加減に若い奴を欺く、罪なことだ。その後のバカ共の妄作に至っては神さまやお化けをこしらえる。笑わせるどころじゃない。俺はただこの目でチャンと確かに見たところを、集めて書史と云うのだ。識者に指南するのだ、素人に見せるんじゃない。」全て意味も恐ろしく鼻も高く文章の脇の下から翼が見えそうな気合だ。これだから随唐から自分の時代までの十四人の書家を評して、「智永は十四五の短気な華族の倅が礼儀に随っていると思うと、急に勝手なことをするようだ」と云い、「褚遂良は馴らされた軍馬がチャンと従うようだが、どうも一種の偉がったようすがある」と云い、「虞世南は断食している道士のようで、様子は清げだが、クタビレ面をしている。欧陽詢は病気上りの奴が、億劫そうにシカメッツラをしている。李北海は成金が偉げに振舞うが、礼儀作法がまるでダメだ。蔡襄は若い女がしゃなしゃなと気取って歩いているようだ。蘇舜欽は道楽者の若旦那が不行跡をしているようだ」などといろいろ名人上手を勝手に評価している。面白いには面白いが随分小憎らしいことを云う人だ。でも熟々(つくづく)この人を味わうと、小憎らしいと云うよりは可笑しいと云った方が適切だと思われる。嘗て徽宗皇帝の命で周官の篇を御屏(ぎょへい)に書いたが、書き終って筆を地に擲って大言をホザいた。その言葉はと云うと、「二王の悪札を一洗して、皇宋を万古に照輝した」と云うのであった。二王は云うまでも無く王義之と王献之で、いやしくも筆を持つほどの者は皆崇敬している人である。それを、我れが宋朝の芸術を輝かせた、と云うのである。今日では天狗の人が多いから此れ位のことを云う人も有ろうが、宋の時代ではマア大層な大言だ。徽宗皇帝も芸術家肌の天子だが、ひそかに屏風の後に起って居られて、この大言を聞いて驚かれたのであろう、思わず歩み出てその書を観たところが、ナルホド大言を放っただけ有って、実に立派なもので有ったから、暫し嘆賞したと云うことである。
 こういう人だけれども、流石に外に表れるところは粗剛なだけでは無い、内に修めるところは実に深く精密できびしい。その自ら云うのに、「一日書をしないと思いの渋るのを感じる。古人が未だ嘗て片時も書を捨てなかったことを思い知るなり」と云う言がある。それでこそで、そうでなければ真の誇大妄想狂である。また嘗て蔡君謨、即ち当時の一代明星の蔡襄に対して、「書を学のは、急流を遡るのに気力を尽しても、なお元の船所を離れないようなことだ」と云ったので、君謨も「まことに能く譬えを取って書を学ぶ者の境地を表した」と云ったということだ。米元章自身日々刻苦精励していることを告白したのである。画でも彫刻でも何の芸術でも、気力を尽しても船が元の所を離れないことを承知して、そして竿を突っ張り櫓をこぐ無益なような労力に満身の意気精神を励まして、熱汗が眉を越え目に入るような苦労をすることで、船は少しずつ前進して行くのである。そして能く急流を遡り、時には山上の碧々とした湖水の岸辺の花が映り珍しい小鳥が啼くような、好光景のところへ行き着くことが出来るのである。流石に米元章だ、好いことを云っている。その自らを評する言葉に、「壮年の未だ一家を成すことが出来なかった時、人は吾が書を古字を集めただけだと云う。思い返せば、諸々の長所を取って、全てについて之を成して、老いて初めて自ら一家を成すことが出来た。人は之を見て、何が吾が書の祖であるかを知らない。」と云っているが、集古字と云われた頃の、あらゆる前人の長所を学んだ永い苦学のところを看取らなければならない。随分とアレを習いコレを学んで、歴参遍学の功労を積んだことであろう。人から古い書を借りると、自ら臨書して、臨し終わると原書と併せて自らの臨書とをその家に送った。臨書がことごとく真に迫って居るので、その家では臨書の方を真書だと思って真書の方を元章へ返すことがある。そうすると元章はそれを奪ってしまって自家の蔵品にしたということである。真物を奪ってしまうのと酷いことで、いわゆるサギだ。感心できないが、しかし所有者が真書と臨書の見分けが出来ないというのは実に恐ろしい技で、普通の人では虎に似た猫の類で終るのだが、実に非常な熱心と天賦の霊腕とで初めて出来ることであり、そこにあらゆるものを習得して呑み込んでいるところが有るからである。関蔚宋と云う人が、褚遂良が愛した虞世南の枕臥帖を持っていた。落筆は糸髪のように精微で、骨気精神が兼ね備わった甚だ珍重すべきものであった。元章はこれを見せられ、非常に喜んでつくづくと欣賞した。その後、関蔚宋が死んで、その子の長源の代になった時に京口で元章が遇った。そこで元章が、「君の家のアレが欲しくて仕方ないのだが」と求めると、長源は愛惜して承知しない。デモ猶しきりに求めるので、「それなら、貴方の持っている陸探微の師子と交換なら」と云った。「デハ、師子をあげる」と云うと、また惜しんで、「イヤその上に、貴方の机上にある盈尺(えいしゃく)の硃砂を付けて呉れなければ」と云った。元章は余程欲しかったと見えて、「それも、お求め通りにする」と同意した。ところが、そう云われると、猶手離しかねて、「よく考えて見ると、その二物はどうも僕の集めたいものでは無い、貴方の頭を呉れるので無ければ差し上げられない」と断った。流石の米癲(米元章)先生も頭を遣る訳にはいかないから、それで物別れになったが、その後元章は前年に見たその帖の筆法筆跡を追想して、一通を写して、長源に見せた。ところが驚くことに殆んど真帖と同じで区別できないほどであった。と云う話が遺っている。ウソのような話だが事実であろう。明治の初め、自分がまだ十歳位の頃である。我が家の近所の善野と云う雑誌や板絵や文房具を売っている店の子で、自分と同じくらいの年齢の子が、自分が物を買いに行った時に一枚の売り物で無い、書いた絵を手にして見ていて、自分にも見せて呉れた。それは一目で分かった。浅草の観音堂に懸っている武士が弓を張りながら攻め寄せて来る軍勢を見る図であった。後で知った菊池容斎の御厩の喜三太の図だが、それを如何にも原画通りと感じさせるほど上手に美濃紙に画いたものであった。ビックリして、うまいナアを連発したところ、店の子は得意になって、「これは君、僕の友達の海野という子が昨日浅草へ行って、帰ってから描いたんだぜ、僕より少し大きいが、実に巧いネ」と云う話だった。で、驚いて自分は家へ帰って人々に話して、実に恐ろしいエライ子がいると深く深く感動したが、その後海野と云う表札のかかっている家の前を度々通ったことがあるので、その家は知ったがその子は知り合いにならずに終わった。ズッと後になって彫金家の海野美盛と云う人に会って、段々と話を交換して、その江戸育ちと云うことから、その住居の位置などを知って、自分の幼年時に深く感服した画を描いた子は即ち氏であったことを悟った。思うに物の形象を扱う芸術家になれるような天賦を有(も)った者は、自然に物の形象から衝動された場合は之を我が魂に記憶し、又その物の形象の構成やその構成が人の与える感じを理解し把握して、そして我が手腕が伴えば之を明瞭に復現できる能力を平凡人よりも多量に有しいているのである。幼童でさえ海野氏のような実例がある。まして既に鑑賞力も理解力も復元力も高度に達していた米元章がその位のことが出来たのに何の不思議も無い。非常な天才と強烈な芸術欲と深刻な勉強心を兼ね備えた鹿門居士(米元章)のこの話は、事実として疑えないことである。今日の人でも田中親美氏の復元能力などは非常なもので、その技能は世界的に具眼者から認められていて、確かに精巧な写真機よりも勝った腕を有している。面前に法帖を置いて、それを手本に書いても碌な字も書けない分際の者が、卓絶した人のことを疑うべきではない。
 こういう人だったから、元章の修養勉強時代にはきっと種々の話があったことと想われるが、何しろその詩文集さえ目に出来ない位だから、多く語ることは出来ない。しかしこういう話が伝えられている。長沙の湘江の西に道林寺と岳麓寺と云う二ツの名刹がある。そこに唐の沈伝師の道林の詩が有って、大字で実に素晴らしいものであったから寺でも大切にして、別に一閣を使って之を収蔵していたほどであった。元章先生がまだヘボ官吏か何かであった時に、官務でそこを通った。で、船を湘江に直ぐ出られるよう準備しておいて、寺僧にいろいろ様々にお願いして、ヤッとその詩巻を借り出して熟覧したが、ヤガテ堪らなくなったと見えて、とうとう或る夕べに帆を揚げて船を走らせて、失敬ッとヤラカシタというのだ。あまり品の好い話ではないが、元章のことだからその位の事は遣りかねない。蔡京は「水滸伝」では悪い奴だが、元章にとっては有り難い人で、蔡京も能書の人であり、元章の人柄や技能を愛していて呉れて、しかも権力者であったから、元章は旧交のあったことを幸いに蔡京に縋ってヤッと出世させて貰ったのである。それなのに天子が今の世に書で鳴っている人の事をお尋ねになった時、「蔡京でござるか、彼は筆を得ておりませぬ」などと酷評して、「蔡卞は筆を得てはいても韻に乏しく、蔡襄は字を勒(ろく・刻)し、黄庭堅は字を描き、蘇軾は字を画いている」などと云った。それもまだ可(よ)いが、その大恩有る蔡京の子の蔡攸に真州の船中で謁見した。その時船旅の途中であったが、蔡攸が携えて身近に持っていた秘愛の王義之の書を見せた。すると素敵なものだったから、元章は堪らない、自分の持っているものと交換しようと申し出たが、蔡攸はどうしても承知しない。まさか失敬する訳にもいかない、腕づくにも出来ない、横柄づくでは相手の方が上手だし、実力も及ばない、仕方が無いから誠心誠意、泣きそうになって執念深く口説いたが、元章がそれほど欲しがる品であるから蔡攸も承知しない。すると元章だ、「いよいよ願いを容れて下さらなければ、是非はござらん、アア生き甲斐も無い、それがしは此の川に身を投げて死んで仕舞い申す、エエ死んで仕舞え、と云って飛び込もうとする、人々が止めても猶も、ワアワア云って船端で揉み合って飛び込もうとするので、蔡攸もひとかどの人物だが貴公子だからとうとう負けて仕舞って、「いいヨ米老、進上するヨ」と云う結果になってしまった。帆を揚げたのも甚(ひど)いが、身を投げようとしたのも甚い。まるでダダッ子だ。しかし惚れたら遠慮は出来ないと云う調子だからどうしようもない。その代わりにその帖の事では無いだろうが、自分の持っていた晋の真蹟で墨王と云うのがあった。それを一日として机上に広げないことが無く、手から筆を離さずのべつ臨学して、夜は小箱に入れ枕頭に置いて離さなかった。と云うことが伝えられている。如何にもそうであろう。元章が自ら文を書いて王著(おうじゃく)の無見識を罵ったりした上で、「自分は全く富貴の願いは無い、独り古人の筆札を好む、一硯を洗い、一軸を展(の)べる時、疾雷の傍に在るをも知らず」と云っているし、また、「陶宏景は主書令史となることを願う、大層立派である。一念を通し、行年四十、恐らくは蠧書魚(書のシミ)となって、筆墨の中に入り、遊んで害を為さない」と云っている。自分で蠧魚(とぎょ・シミ)になるだろうと云っているほど古人の筆札が好きなのだから、どうにも仕方が無い。欲しいものがあると、交換だの、帆を揚げるだの、身を投げるだの、果ては詐欺や強奪なども敢えてしたのだろう。
 その中で、交換は自分でも最も正当な事だと思っていただろうが、米元章のような眼の利いた者に交換された日には、元章は好いだろうが、相手は大抵損をさせられそうなことだ。しかし元章は交換が大好きで、熱心に主張しているが、その論も可笑しい。云う、「書画は価を論じてはいけない、士人は貨幣を用いては取り難い、それなので書画の交換は自ずからこれ雅致がある。人が一物を持って生命と共にする。大いに笑うべし。人生は目に適しても見ること久しければ厭きる。時に替え新たに楽しむ、二人ともその欲に適う。即ちこれ達者なり。」ナルホド理屈は一通り立っているが、気に入ったものを生命と共にして一生離さないで居るのを、何も大いに笑うという道理は無さそうだ。唐の太宗は天下を取ったほどの英主だが、王義之の書を棺の中へ携えて行こうと云ったのも、愛着の余りの無理のない情で、理屈は通らないにしても情ではそうあるような事では無いか。結局は米元章の言葉は自分が佳いものを欲しいことから出た交易主張論のように思えてならない。蘇東坡が米元章の二王書の跋尾に次韻した二首の詩が、東坡集七十九に出ているが、その中に、「怪しむ君が何の処より此の本を得たるを、上に有り桓玄の寒具の油、詐欺強奪は古来より有り、一笑す誰か似たる癡虎頭」の句は、元章があやしいことをして佳いものを手に入れたことを云ったのだと、後人が評したのも満更そうでないことも無さそうだ。またその第二首に、「地に画いて餅を為すも未だ必ずしも似ず、癡児(ぎじ・痴児)をして饞水(ざんすい・貪った水)を出さしむるを要す、錦嚢玉軸来たって趾無し、燦然真を奪って聖智を疑う(偽物は本物とは違う、たわけ者に盗物を出せなくてはならない、錦の袋や玉軸は返って来たが真物が無い、明らかに真物を奪って不正を行う)」と云ったのも、元章の手の利きすぎるのを非難したのだと云う説が当たっているようで、黄山谷がこれに和して、「百家の伝本は略(ほぼ)似ている、月が天を渡って諸所の水に現れるようなことだ」と云ったのも、どうも交易において元章が御手製の何かを頂戴させたことを云ったものらしい、しかし元章の御手製なら結構なことで、我が国で麩屋町物の書を頂戴して光悦流だと思い、二朱ずつ払ったのだから印だけは真物に違いないと高久藹崖の書を嬉しがるよりは、元章の利いた手の書を頂いている方がドレホド好いか知れない。蘇東坡が以前から元章が自分と同様に能書であり鑑識や評論にも長(た)けていながら、その所蔵する古い書に偽物の混じっていることを疑って居たが、元祐四年六月に張致平と共に元章のところを訪れた時、致平がそれを云ったら、元章が笑って「長史」や「懐素」十余帖を出した。それは皆佳いものであったので、日頃人に見せるものは好い加減なものであったことを悟ったと云う話がある。こう云うと元章が悪徳骨董屋であるように聞えるが、元章のは自分が蠧魚(シミ)になるか知れないと云うほどに、ただ古の優品を得たいところから物品交易をしたのであろうから、甚いことをしたとしても許せば許せるところがある。何しろ帆を揚げたり水に身を投じようとする位の偏奇な性格なのだから。
 なので、交易はどんなに元章が好い事だと云っても、元章の方に勝手の好過ぎる話であるが、その交易の中でも大きな出来事がある。それは元裕の末に元章が雍邱県の知事だった時に東坡がそこを通った。元章が東坡を饗応した。東坡が宴に赴くと、大きな机を向かい合わせに置いて、そして精筆佳墨を備え、紙三百枚を置いて、饌をその傍に置いてあった。東坡はこれを見ると大いに笑って座に就いたが、酒が一巡するたびに、紙を広げては二人で字を書いた。二人の部下が墨を磨ったが間に合わないほどで、薄暮になって酒も足り紙も尽きた。そこで二人が互いに書いた分を交易して持ち帰って、二人共いつもより善く書けたと云って喜んだと云うことである。これは如何にも気持ちの好い面白い話で、誰でも入場料を払ってでも陪観したかったと思うようなことである。元章主張の交易論はここに至って大出来大出来である。東坡は元章を好いていて、元章に与えた手紙が今伝わるもので二十八通もあるほどだから、盃酒筆墨して三百枚を二人で遣い尽くしたのは実に佳話であるが、同様に元章を愛した人でも、楊次公などは悪い洒落をしている。次公が丹陽の守だった時に元章がそこに数日留まった。その時次公が煮物を作らせて、「今日は君の為にフグを料理させたよ」と云った。その実際はフグではない他の魚なのだが、フグと云われたので元章は疑って食わないでいた。すると次公は笑いながら、「ナーニ君安心したまえ、これは偽物サ」とやった。フグの偽物は好かった。
元章は書画の佳品を欲しがって狂人のようになったばかりでない。その石を愛したことでも有名で、無為郡の知事になった時に、州の役所の庭にあった石を見た時は、大喜びで礼服を着用して笏(しゃく)を手にして、恭しく礼をして石丈と呼んだところ、後にそのことを人に詰られて、「オレは礼はしない、手を併わせただけだ」と云ったというのも名高い話だ。臨江の守となった時は河岸から大怪石を取って来させて役所の庭に置いて、その石が着いた時に席を設けさせ大真面目で礼をして、「吾は石兄を見たいと欲して二十年です」とヤッタので、そのバカ気たことを言い立てた者がいて御役御免となった。それから僧の敄州(ぶしゅう)と云う者から、端州の石で山があり池があって、その池で墨を磨ることができる硯を得たから、嬉しくて堪らず三日抱いて寝て、おまけに東坡を口説いて銘を作って貰った。その石のことではないらしいが、東坡集の巻十九に元章の石鍾山硯銘と云うのがある。実に可笑しな銘で、「盗有り禦(ふせ)がれず、奇を探り瑰を発す。攘(ぬす)むこと彭蠡(ほうれい)に於いてし、鍾を切って取追する。米楚狂なるもの有り、これ盗の隠なり。山に因って研を作る、その詞や霣(おつ)るが如し。」云うのであるから、これも山形の硯だ。これは彭蠡地方からかっぱらって来たと云う文意を面白く云ったので、追は鎚琢の鎚で石を取り出すことであるが、随分と奇妙な銘である。東坡も石の好きな仲間なので、何度も頼まれたことがあるのだろう、元章が大切にしていた石はいわゆる宝晋斎研山で、その形は林仁甫の譜に図が出ているから、大体は想像できるが、南唐からの名石でもちろん素敵なものである。何と交易したか知らないが後に薛紹彭に譲ってしまった。ところが元章がその石が恋しくて堪らなくて、「硯山みえず、詩を哦(が)して徒(いたずら)に歎息す」などと泣きそうな未練を詩に洩らしているばかりか、その後かっぱらわれそうなので二度と見せて呉れない、友達と一緒に行っても見せて呉れない、そこで図を画いて長々しい文を書き、「予、今筆想して図を成す。髣髴(ほうふつ)として目に在り、これより吾が室の秀気、常にまた泯(ほろ)びざるべし」などと、去った女房の写真見る宵・・と云うような愚痴をこぼし、「紹彭公は忍人也」ひどい人だと恨んでいるところは実に面白い。それから又、もう一ツのいわゆる海嶽庵研山も南唐の李後主以来の銘石で、これも林氏の図があるが、三十六峰環列している中に墨の磨れるところがある稀品だ。元章が丹陽に帰って宅地を欲していた時に、蘇仲容が甘露寺の傍に晋唐時代からの名士の跡の地を持っていて、仲容はその海嶽庵研山を欲しがった。そこで王彦昭侍郎兄弟が口を利いて、例の元章の好きな交易が成り立った。元章の名高い海嶽庵は即ちそこから出たのである。一片の石からそんな地を得たのだから、石の素晴らしさをしるべしだが、元章は素敵な石を合わせて二個共交易で人に譲ってしまったので、後の石好きの連中からは医師に対して不実な奴だと攻撃されている。しかし元章は狂も甚だしいが、「今の人、一物を収めれば生命と共にしようとする、また大いに笑うべし」と云う例の一派の交易哲学を信条としているのだから仕方が無い。その狂気の甚だしいものでは、ある時徽宗皇帝の御前で一大屏に書をさせられた時に、天子が一大端渓硯を指してそれを用いさせられた。実に佳い立派な硯で元章はゾクゾクするほど欲しい。そこで、字を書いてしまうと、その大硯を目八分にささげながら、「畏れながらこの硯は臣の使用を経た以上、再び御用いなさるのは勿体ないことで御座います。」と中々巧くヤッテのけた。天子も大笑いで無論ケチな心は持っていないところだから、「ウム、汝に賜るぞ」ときた。シメタ、と思ったらもう、狂喜舞踏して御礼を申し上げ、抱きかかえて走り出たが、余墨が沢山有ったからボタボタと朝服に垂れて襟も袂も墨だらけのなったけれども、そんなことは全く気にもしないで、大ニコニコの眼つき眉つきに、包むに包み切れない悦びを漲らせた。徽宗もまた笑って、「ナルホド狂だ」と云われたと云うのも有名な話である。
 元章にフグの偽物を食わせた楊次公は、どういう訳だか知らないが、時に或いは次翁とされていることがあるが、次公が正しいのである。名は傑と云って、これは中々偉い人で、当時の朝廷の礼楽の議については皆討論に預かったとあり、范鎮と音楽を論じて之を負かした人である。もちろん元章よりも先輩で、官位も高かったのであるが、この人がまた別に面白い話を元章の石好きの関して遺している。元章が一時漣水の守となった。漣水は奇石を産出することで今日でも名高い霊璧県に接している所だから、元章が頻りに珍奇な石を手に入れては喜んである。一々名を付けたりなどして、撫でたり擦ったり愛玩の痴を尽して、役所の仕事などほったらかしであった。そこへ次公が監察官でやって来た。地方官の元章は心易い仲とは云え、本来なら監察官に見廻られたのだから、小さくなって居なければならないハズである。次公は役目なのでズッと役所に入って来ると、威儀を正して厳然と言った。「朝廷が千里の郡邑を公に預けているのである。公は何で石などを玩んで日を終えることが出来よう、公は役務を怠り郡のことを等閑(なおざり)にしているということであるが、そのようなことで済むと思われるか、弾劾状が出されたら後悔しても追い付くまい」と厳しく迫った。ところが相手が悪い、天子の面前でも狂態を発揮する元章だ。ツカツカと進むと自分の左の袂から小さな石を一ツ取り出した。石は峰も有り巒(やま)も有り、洞も有り窟も有り、色は清く潤いが有って、極めて愛すべきものであった。元章はそれを、アチラへ向けたりコチラへ向けたり、ひっくり返ししたりして次公に見せたりしながら、「とは仰せあるが、このような石を何で愛せずにおられましょうか」と云った。次公は黙っていて受け付けなかった。そこで元章はその石を袖に入れて、また更に一石を出した。今度のは、高く聳え重なり秀でて、仙山神郷の趣きがあって、一段と優れたもので、元章は自分ではもう悦に入りながら、「このような石ですもの、愛せずにはおられません」と云ったが、それでも次公は渋い顔をした。すると米老(元章)はそれを収めて、最後の一撃に素敵なものを出したが、それはもう造物主が精神を尽して造ったかと思われるような、何とも云えない面白いものであった。なので、元章はもう得意満面で、「このような石をどうして愛さないでいられよう」と、眼も鼻も何もかにもが熔けそうになっている。と、次公が突然として、「独り公の愛するだけでなく、我もまた愛する。」と云うかと思うと、米老の手からその石をひったくって、サッサと車に登って、フイと帰ってしまった。元章がポカンとなって、開いた口が閉じられなかった状態(さま)は想像するに余りある。
 元章は狂と云われただけ随分と奇怪な性癖の所有者だが、それでいて非常な清潔好きで、自分の帽子を従者の手に預けるのさえ、汚されることを恐れて敢て仕なかったと云われている。長い柄を付けた銀の升のようなものを作って、これを水升として、召使に柄を執って水を手に注がせるようにした。手を洗う時はそうして水をかけさせて、しかも手拭きで拭うのは薄汚いと思うのであろう。両手をピタピタと拍手して自然に乾かすのを常としたと云う話で、この人に友仁と云う子があったのは不思議なくらいである。儀式用の靴に他人の手が触れると云うので、しばしば手を洗ったので、靴は壊れてしまった。太常博士だった時は、太廟に奉祀するのに、定まった祭服を着なければならない。その祭服をヤタラに洗わせたから絵模様の藻火が消えてしまった。それで御役御免になって終ったほどである。婿を選ぶのに健康の段払、字は去塵と云う者のことを聞いて、現に払で、また去塵だと云う、これこそ吾が婿だ、と云って娘を嫁に遣ったと云うのだが、マサカの何だか嘘っぽい話だ。しかし、払、字は去塵と云うのに惚れて婿にしたと云われるほどの人だから、自分の硯などはどれほど自分で清潔にしたか分からない。黄実師と云う人が清淮楼から見ていると、暑い時の事で、米老がサルマタ一ツで一生懸命に淮口で硯を洗っている。そこで急遽ちょっとした贈り物を持たせた使者を遣って、「早く、早く、キャツが硯を洗い終らぬうちに行け、」と云って、面白がったということである。こんなに清潔なので、友の周仁熟はよくそれを知っていた。ある日元章が大した硯を得たと云って誇った時に、周は「ホラを吹くな」と云った。そこで元章が取り出そうとしたから、周は水を求めて手を洗い、敬(つつし)み観ようとした。元章は喜んで硯を出して見せる。ナルホド好い硯だった。周は頻りに褒めた後に、「まことに尤物だ、しかし溌墨はどうだろう」と云って、元章が水を持って来させない間にプッと硯面に唾をしてから墨を磨ったから、元章は色を変えて怒り且つ恨んだが、仕てしまったことだから仕方が無い。「硯はもういらない、君に献じる」と云った。「マアそう云わなくとも」と周は云ったが、米老は聞き入れない。で、硯は周のものになって終った。徽宗皇帝から硯を奪った事も有った代りに、友達に硯を遣られた事も有って、誰もが知っている因果応報的な逸話を遺した。
 このような潔癖な人は支那人には稀有である。そこで元章は回教徒だったろうと云う説もある。回教徒は清潔を好むからである。しかし元章が回教徒だったかどうかは疑わしい。東坡が元章に宛てた手紙の中の言葉に、元章の「宝月観賦」を褒めて、「小生、何れの処においてか宝月観の賦を得て、ビックリし之を誦す。老夫寝て之を聴く、未だ半ばに至らずしてスックと起き上がり、二十年付き合っていて元章を知り尽くさないでいたことを恨む。この賦などは正に古人を凌ぐ、今世は問題ではない。世界はどうして常にこのようなのであろうか」云々と云うのがある(東坡集五十五)。これは、蘇東坡が雅量の有る人で、山谷に対しても誰に対しても、少しでもその佳作を耳目にすると大いに称賛して、その見落とすことを恐れたようであるから、このように云ったので、また無論元章の才能や技量を愛していたからでもある。元章を知り尽くさないでいたことを恨むとは、何と云う謙虚な、人を愛することの厚い、懐かしい、好い言葉だろう。であるのに元章が之に答えた手紙はまた例の大言自高のひねくれたものであって、そこにも元章の性質が見えて可笑しいが、「更に知り尽くさない処がある。楊許の業を修めて、帝宸碧落の游を為す。その時遇っていれば知ることができた」と云うのである。楊許の業とは思うに楊義と許玉斧の業であって、楊と許はどちらも仙人とされているものである。「近頃は仙人の業を修業して、天へ上って遊んだりしているのだが、そこまでは御存知あるまい、御目に掛れば御分かりになろう」と云うのである。東坡先生もこの手紙を見た時は、「また元章がエラがって」と大笑いされたことだろう。大言戯語であろうが、回教徒ならば楊や許の業を修めるとは云いそうもないことである。また元章の晩年は禅を学んで、死ぬ一月前頃には朋友に別書を作り、書画玩好を処分し、香楠木の棺を造らせて、その中に入って居て、死ぬ七日前から葷(くん・匂いの強いもの)を食らわず、浄(きよ)い衣を着て、沐浴し、香を焚いて寂坐し、最後に遍く群僚を請待し、払子を揮って、「衆香国中より来たり、衆香国中に去る」とか云って、払子を投げうって合掌して逝った。ということである。これも芝居がかっていて怪しい話だが、何にせよ、そう云うことが伝えられている。回教徒らしいというには、何か特別な証拠でもない限りは想われないのである。
 元章の画に就いては、最初元章は画くことが出来なかったが、住居を替える度に、必ず風光明媚な処を選んで住んで、目にする風景を日々に描いて模倣し、ついに会得したのだと伝えられている。これは自然を手本として学んだということで、甚だ我々の納得を得るようなことだが、これも疑わしい伝説だ。元章が古書を多く所蔵していたことは明らかである。書においてあらゆる古筆を学んでいる元章が、画においては少しも古人に学ぶことがなかったということは疑わしい。英雄人を欺く類で、元章が自らそう云うことを云ったことがあるかも知れないが、全然古(いにしえ)を学ばなかったとは思えない。しかし書も画も文章詩賦も、古人とは違った米老の結構は、自ずから一ツの新様を出していることは争えない。しかし、偏寄な性格が発するところ、後人のこれを喜ばないものの有ることも争えない。書は王献之、褚遂良、柳公権の影響を受けているのに、柳公権の事を、悪札の祖で、「古法これより蕩然として亡(な)し」などと云っているのは酷い。黄山谷などは、元章に同情も有り友誼もある人だが、「快剣の陣を斫り、強弩の千里を射って当たるところ札を穿つようで、書家の筆勢もまた此処に窮まる、だが子路が未だ孔子に会わなかった時の気勢のようなものだ」と云っているし、王弇州は、「米元章は、王大令や褚遂良を学び、光り輝くが終に大雅の愧ず」と云っているし、元章に異論を為す者は少なくない。このように元章について語っても、何も自分なども米元章を蔡君謨より好きな訳でも何でもない。しかし元章は有宋一代の巨宗である。翰墨の事が全く亡びない限り、その快剣斫陣の風格は、永く芸壇に雄視するであろうことには何人も異論は有るまい。
(大正十五年七月)


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