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幸田露伴の随筆「古革籠⑧」

古革籠⑧

 酒は賢者の賢を増加させることは無いが、愚人の愚を増加させるには充分なものがある。言葉が多くなり、感情が昂ぶり、事が生じ、罪が生じ、事件が生じる。独酌はまだ可(よ)いが、対酌は次第に宜しくなくなり、三人が車座で飲むようになると何事かが起きようとする。群衆が喧呼して飲むようになると、思わぬ変事が生じることがある。酒酗(さかがり)と云って不可解な事が生じることがあるので結局は飲まないのに越したことは無い。と云うのは酒を嫌う者の言葉で、飲まない人は飲まない方が善い。しかし、飲む人が飲んでどこが悪い。だが衆は礼に留まるべきである、飲んで善い結果になることは無い、飲まなくても可いのである。悪酒は頭を痛める、これも飲まなくて可い。悲しみや苦しみがある時に飲むのは宜しくない。酒によって悲しみや苦しみを忘れるのは卑怯に近く、また飲酒を習慣とするようでは、やがては身を損なうことになる。病(やまい)がある時は飲んではいけない。酒は多く病を重くする。思えば酒が必要な場面や時は甚だ少ない。細かに飲酒の有様を考えて、禁止されなくても自然に飲酒しないことも多い。しかしながら今の国家は酒税に頼ることも多い。これは政治を為す者が愚かな為にソウなるのである。
 政治を為す者は、国民に多く飲むことを期待してはいけない。国民が飲むべき時や場面で飲んで、気分よく喜び楽しむことを期待するだけである。政治が悪いと国民は必ず多く飲む。憂いや苦しみの有る人が却って多く飲むようなことだ。酒税を廃止できないとしても、酒税に拠って国費を賄おうとするのは望ましいことではない。税率の低いことを望むのでは無いが、酒税の収入はその少額なことを国家の慶事とすべきである。酒税の収入が少ないのは、即ち国民が真の意味において楽しんで日を送っている証拠であるからである。政治が過酷であれば国民は賭博を好む、足利時代の乱世のようである。政治が国民を楽しくさせることが出来ないと国民は必ず飲酒を好む。政治が富貴の者に手厚く貧しい者に手薄であれば、国民は必ず乱を思う。酒はつまらないものではあるが、世の大勢と密接に関係するものである。たとえば酒が個人の運命と密接に関係するようなことである。昔から政治を為す者で、漢の蕭何(しょうか)は法をただ三章に簡単にした、寛大であると云える。しかしながら蕭何の法律は、三人以上で理由も無しに群れて酒を飲む者は罰金四両としている。当時の四両は甚だ軽くない。蕭何は国民が飲むべきで無い場面や時に飲むことを望まなかったと推知できる。昔から政治を為す者で、身心を働かせ知恵を尽すこと諸葛孔明を超える者も少なくは無い。しかしながら孔明が蜀を治めると、道に酔人は居なかったと云う。貧窮の蜀にあって孔明の頭に酒税ことが無かったことを知るが善い。支那(中国)の歴代の中で最も盛んであったのは唐と元の時代である。唐の太宗は英邁絶倫の明主である。そしてその国家において、酒に親しむことのないようにしたのは史書で明らかである。元もまた禁酒を進めた証拠がある。酒を贅沢品として之を禁じようと酒税を重くするようなことは、政治を為す者として愚策である。政治を為す者は、国民が酒の力を借りずに、喜んで生活を楽しむことが出来るようにすべきである。飲むべき場面と時に飲んで、気分よく喜び楽しむことを期すべきである。酒税を多く集めて国費の一部にするようなことは愚の愚である。
 為政者から論じれば、国民が飲酒しないことは利点でもある。国民が飲酒をしなければ、不測の変事を生じること少なく、小事の起こること無く、行政も日々簡易になろう。思っても見よ、酒が犯罪を助長して刑務所の費用を多くすることがどれ程であるかを。しかし世には既に酒と云うものが在って、それによって憂いを忘れ気を暢(の)ばすことができるので、憂いのある者は飲み、憤りのある者は飲み、不平のある者は飲み、鬱屈者は飲み、被圧迫者は飲み、貧しい者は飲み、働き疲れた者は飲み、現実の世界を逃げ出して酔郷の天地に逍遥しようとする者が多くなるのを、止める事は出来ない。コレ皆飲むべきで無い場面や時に飲んで、強いて自らを開放しようとするもので、その心情もまた悲しいでは無いか。このようにして年を経れば、国民の体質と心情は共に糜爛(びらん)して、感情は中正を失い、意思は強靭(きょうじん)を欠き、国を挙げて空虚となり、国家の生命を維持することの真気は次第に希薄になろうとする。政治を為す者は酒税を失うことも辞さない意気を以って、国民が飲むべきで無い場面や時に飲んで、強いて自らを緩めることにならないようにする必要がある。では、之をするための道(方法)は何かと云えば、「国民に真に生を楽しませることである。充実した生活を為させることである」。では、国民に真に生を楽しませる道は何かと云えば、「施政の方針を資本を尊ばず労働を尊び、物を貴ばず人を貴くし、権力を尊ばず道理を尊び、術を尊ばず義を尊び、便宜を重いとしないで人情を重いとし、法律を後にして、教育を先にするにある。若しも資本が尊く、物重く、権力尊く、術尊ばれ、便宜重いとして、法律を先にして、労働賤しく、人賤しく、道理通らず、義尊ばず、人情を重んじず、教育を後にするならば、国民は必ず、「酒でも無まずにいられるか」と叫んで、やたら酒を飲み、荒んだ生活を送るようになるであろう。
(大正五年一月)

注解
・蕭何:中国・秦末前漢初期の政治家。劉邦(漢の高祖)の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。
・諸葛孔明:中国・三国時代の蜀漢の武将(軍師)で政治家。
・唐の太宗:中国・唐の第二代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐を創建する。

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