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幸田露伴の小説「運命6・最期」

運命6 

 燕王は今は燕王では無い、厳(げん)として天子の位に在り、翌年を以て永楽元年と改めようとする。サテ建文皇帝はどうした。燕王の言(げん)に云う、「予は始め難に遇う、やむを得ず挙兵し禍(わざわい)を払い、神に誓って奸悪を除き国家を安定し、周公のように成ろうと望む。思いもよらず、若帝は予の心を誠とせず、自ら天命を絶つ」と。建文皇帝は果たして崩じたのか、否か。「明史」は記す、「帝の終わるところを知らず」と。或いは云う、「帝は地下道から出て逃れた」と。また記す、「滇(てん・雲南)や黔(けん・貴州)や巴蜀(はしょく・四川)の地方は互に伝える、僧となって往来した跡がある」と。これは同じようなことが夫々異なる言葉で二三伝わるのである。帝は果たして火中で死んだのか、それとも僧となって逃れたものか。「明史」巻百四十三の牛景先伝(ぎゅうげいせんでん)の後に、「忠賢奇秘録」及び「致身録」等の事を記して、「思うにこの録は、後から出たこじつけの記録で信じるに足りない」と云って、暗に建文帝の逃亡と諸臣がこれを庇護した事を、否定する口振りである。しかしながら巻三百四の鄭和伝(ていかでん)には、永禄帝は恵帝が海外へ逃れた事を疑い、これを追跡しようとし、且つ兵を異境に送って中国の富強を誇示しようとしたと記している。鄭和が初めて西洋に渡ったのは燕王の志が成った後の四年目、即ち永楽三年である。永楽三年になって猶も疑うとはどういうことか。また給事中の胡濙(こえい)と内侍の朱(しゅ)祥(しょう)とが、永楽年間に荒徼地方を数年に亘って遍歴したことが巻二百九十九に出ている。仙人の張三丰(ちょうさんぼう)を探し求めることが名目だと云うが、山や谷に仙人を探し求めることなど、果たして聡明勇決な永楽帝がしたであろうか。求めようとした者は仙人では無く、別にあったと知るべきである。思うにこの時に於いても元(げん)の残党は猶在り、漠北は無論のこと西方や南方の悉(ことごと)くが従っている訳ではない、野火焼けども尽きず、春風吹いてまた生ず、の勢いがある。且つ、天は一豪傑を鉄門関(てつもんかん)の辺りの碣石(けっせき)に生んで、カザンを殺させて後の大帝国を治めさせる。これがチムールである。西洋人の云うタメルランである。チムールはサマルカンドを拠点に、四方を攻略して勢威を振るうこと甚だ大で、明に対して貢(みつぎ)を入れていると云えども、太祖が末年に派遣した使者の傅安(ふあん)を留めて帰さず、之を連れて領内諸国を歴遊すること数万里に及ぶ、既にインドを掠め、デルヒを取り、ペルシャを襲い、トルコを征服し、心ひそかに支那を窺い、四百余州を席巻して元(げん)の偉業を再び行おうとする。永楽帝は燕王の時に漠北に征して能く胡(こ)の状勢を知っている。部下の諸将もまた胡の事情に通じている者が多い。王が南下するに際しては陣中に蛮騎を帯同した。およそこれ等の事に照らしても、永楽帝が辺境の状勢を能く覚られていたことが分かる。もし建文帝が辺境に出て屈強な辺境の敵に頼ろうとすれば、辺境の敵は中国を窺う手段を得て、建文帝再挙の義兵が国内に起こるであろう。昔、晋の重耳(ちょうじ)は、一度は逃れたが却って勢いを得た。そのような事もあろうかと思う、これが永楽帝の心配するところである。鄭和は船を浮かべて遠航し、胡濙は仙人を求めて遍歴する。その目的には密旨も含まれるようである。そして鄭和は国威を海外に示し、外国は異議を挟めない。能く射る者は雁の影を重ねさせて射る。能く謀る者は機会を重ねて謀る。一矢で二雁を獲られずと云えども一雁を失わず、一計で二功を収められずと云えども一功を得る。永楽帝の智が、どうして敢えて建文を求める名目で使者を出すことをしよう。まして鄭和は宦官で、胡濙に同行した朱祥も内侍である。秘密の意図のあることを察すべきである。

 鄭和は王景弘(おうけいけい)等と共に使者に出る。鄭和が出ると帝は袁柳荘の子の袁忠徹に占わせる。忠徹云う、「可であります」と。鄭和の率いるところの将卒は二万七千八百余人、舟は長さ四十四丈、広さ十八丈のものが六十二、蘇州の劉家河(りゅうがか)から海に浮かべて福建に行き、福建の五虎門(ごこもん)から帆を揚げて海に入る。閲歴して三年後の五年九月に還る。建文帝の件では得るところは無かった。しかしながら諸蛮国は使者の鄭和に随って天子に拝謁し、各々その国の名物を献上する。鄭和はまた三仏斉国(さんぶっせいこく)の酋長を虜(とりこ)にして献上する。帝は大いに喜ぶ。この後には、建文のことを忘れて、専ら国威を揚げるために再三に亘って鄭和を派遣する。鄭和が派遣されること前後七回、その間、或いはセイロンの王アレクナルと戦って之を虜にして献上し、或いはスマトラの前の前の偽王(ぎおう)の子スカンラと戦って、その妻子を併せて虜として献上し、大いに南西諸国に明の国威を掲げ、遠くペルシャ、アフリカ、アラビヤ、メッカ等に行った。「明史外国伝」において西南方面がやや詳しいのは、鄭和に随行した鞏珍(きょうちん)が著わした「西洋番国志」から採ったことに拠るかと云う。

 胡濙等もまた得るところ無く終わる。しかも張三丰を探し求めたことが天下に知れる。そこで張三丰が居たところの武当の大和山(たいかざん)に道観を造営し、使役する人三十万、費やす資財百万、工部侍郎の郭搥や隆平侯の張信等が工事に当ったと云う。張三丰は嘗て武当の諸巌壑(しょがんがく)に遊び、「この山、いつか大いに興らん」と云ったが、実際にそうなって此処に実現したのである。

 建文帝はどうしたか、伝えて云う、「金川門の守りを失うと、帝は自殺されようとする。翰林編修の程済(ていせい)は云う、「抜け出される他(ほか)ありません」と。少監の王鉞(おうえつ)は跪(ひざまず)き進み出て云う、「昔、太祖が御崩御される時に遺言されて、大難に際しては此れを開くべしと宣(のたま)われましたので、謹んで奉先殿(ほうせんでん)の左にそれを収め奉りました」と。群臣等は口々に、「早く出すべきです」と云う。宦官が素早く一ツの紅い箱を担いで来た。見れば四囲を鉄で固定し、二ツの錠もまた鉄製で、開くことが出来ない。帝はこれを見ると大いに嘆かれて、今はこれまでと宮中に火を放たれる。皇后は火中に身を投げて死なれる。この時程済はやっとのこと箱を砕いて、箱の中の物を取り出す。出てきたものは何であろう。仏門の人でなければ必要としない、宮中などにはあるハズもない度牒(どちょう)と云う物が三張(さんちょう)あった。度牒は人が家を出て僧になる時に官が認可した許可証であって、これが無ければ僧も正規な僧とは云えない。三張の度牒の一ツには応文(おうぶん)の名が記され、一ツには応能(おうのう)の名があり、一ツには応賢(おうけん)の名があり、袈裟・僧帽・鞋(くつ)・剃刀が一ツ一ツそれぞれ共に揃っていて、銀十錠が添えてあった。箱の中に朱書があって、これを読むと、「応文は鬼門(きもん)から出て、他は水関(すいかん)御溝(ぎょこう)から行き、薄暮に神楽観(しんがくかん)の西房で会え」とある。群臣等は戦(おのの)いて顔を見合わせるばかり、しばらくは物を云う者も居ない。ややあって天子は、「運命である」と仰せられる。

 帝の諱(いみな)の允炆(いんぶん)は、応文の法号に対応しているように思える。且つ明の基(もと)を開いた太祖は元(もと)は僧である。後にこそ天下の主に成られたが、元(げん)の順宗の至正四年の十七才であられた時には疫病が大いに流行して、御父上・御母上・兄上・幼い弟君まで皆亡くなられたが、家が貧しく棺(ひつぎ)の用意さえすることが出来なくて、藁葬(こうそう)と云う悲しくも悲しい事を執り行おうと、次兄と二人で自ら遺骸を担いで山麓に着かれたが縄が切れてどうする事も出来ず、次兄が走り返って縄を取って来たと云う話さえ遺っている。その次兄もまた死んで仕舞ったので、独り頼るところも無く、遂に皇覚寺(こうかくじ)に入って僧となり、食を得るために合肥(ごうひ)に行き、そこから光固(こうこ)・汝頴(じょえい)の諸州へと托鉢修業をし、三年の間を草鞋・竹笠の姿で辛い雲水の身を過ごされたと云う。帝は太祖の皇孫としてお生まれになって金殿玉楼で御成長なされたが、これも因縁か、今や袈裟・念珠の人に成ろうとする。不思議と云うにも余りある。そこで程済は御意に従って剃髪し参らす。万乗の君主の金冠を墜(お)とし、剃刀(ていとう)の冷光の下で翠(みどり)の髪を落とす、悲痛どう堪えられようか。呉王府教授の楊応能(ようおうのう)は、「臣の名は度牒の応能に対応します、願わくは剃髪して随いまつらん」と云う。監察御史の葉希賢(ようきけん)は、「臣の名は賢、応賢であること疑いありません」と云う。各々髪を剃り衣(い)を替えて度牒を開く。殿中に居る者およそ五六十人、痛哭して地に倒れ、共に誓って随いまつらんとする。帝は「人が多いと得失が生じないわけには行かない」と云って、皆を去らしたまわれる。御史の曽鳳韶は、願わくは死を以て陛下に報いまつらん」云って退出し、後に果して燕王の招きに応じずに自殺した。

 諸臣は大いに嘆いたが次第に去って、帝は鬼門に着かれる。従う者は九人。岸に着くと舟が在って人がいる。誰かと見ると神楽観の道士の王昇(おうしょう)であって、帝を見て叩頭(こうとう)して万歳を唱え、「アア、来られましたか、臣は昨夜の夢で太祖に命じられて此処に参りました」と云う。そこで舟に乗って太平門(たいへいもん)に着かれる。王昇が導いて観に着くとすでに薄暮時になっていた。また陸路で楊応能や葉希賢等十三人が合流する。合計二十二人、兵部侍郎の廖平(りょうへい)・刑部侍郎の金焦(きんしょう)・編修の趙天泰(ちょうてんたい)・検討の程享(ていきょう)・按察使の王良(おうりょう)・参政の蔡運(さいうん)・刑部郎中の梁田玉(りょうたぎょく)・中書舎人の梁良玉(りょうりょうぎょく)・梁中節(りょうちゅうせつ)・宋和(そうか)・郭節(かくせつ)・刑部司務の馮㴶(ひょうかく)・鎮撫の牛景先・王資(おうし)・劉仲(りゅうちゅう)・翰林待詔の鄭洽(ていごう)・欽天監正の王之臣(おうししん)・太監の周恕(しゅうじょ)・徐王府賓輔の史彬(しひん)と、楊応能・葉希賢・程済である。帝は、「今後はただの師弟であって、主臣の礼に関係しない」と宣(のたま)う。諸臣泣いて承諾する。廖平がここに於いて人々に云う、「諸君が従うことを願うのは尤もであるが、しかし随行者が多いのは功無くして害がある。家族が無く力が強く護衛に役立つ者で、多くても五人が限度である。他はそれぞれ遠くから応接を為せば良かろう」と。帝も、「そうである」と宣われる。王能と王賢の二人は比丘(びく・坊主)と称し、程済は道人(どうじん・道士)を称して、常に左右に随い、馮㴶は馬二子(ばじし)と称し、郭節は雪庵(せつあん)と称し、宋和は雲門僧と称し、趙天泰は衣葛翁(いかつおう)と称し、王之臣は輔鍋(ほか)を以て暮らすとして老輔鍋と称し、牛景先は東湖樵夫(とうこしょうふ)と称し、各々姓を隠し名を変えて陰(かげ)に日向(ひなた)に付き従おうとする。帝は滇南(てんなん)に行って西平侯を頼ろうとされる。史彬はこれを危ぶんで止め、「臣等の中の、家豊かで朝夕の暮らしに困らない者の許(もと)に杖を止められて、急がず遅れずに移動なさるのが宜しいでしょう」と云う。帝もこれを尤もとされて、廖平・王良・鄭洽・郭節・王資・史彬・梁良玉の七家を、代わる代わる主宅とすることに定めた。

 翌日舟に乗って史彬の家に行かれようとする。同乗する者八人、程・葉・楊・牛・馮・宋・史である。他は皆涙を拭って別れ参らす。帝は道を溧陽(りつよう)に取って、呉江の黄渓(こうけい)の史彬の家に着かれると、月の終りに諸臣がまた次第に集まり合って帝に御挨拶する。帝は皆に命じて各々を帰省させたまう。燕王は位に即くと、職をなげうって逃れ去った者の官職を削除する。呉江の里長の鞏徳(きょうとく)は蘇州府の命令を受けて、史彬の家に来て官職を剝奪する。そして云う、「君の家は建文帝をかくまっていると聞くが」と。史彬驚いて云う、「全くそのようなことは無い」と。次の日、帝は楊・葉・程の三人と共に呉江を出て、舟に乗り京口(けいこう)を通過して六合(ろくごう)を過ぎて、陸路を襄陽(じょうよう)の廖平の家に着かれると、その後を追う者が在ったため、遂に意を決して雲南に入られる。

 永楽元年、建文帝は雲南の永嘉寺に留まられる。二年、重慶から襄陽に行き、また東に向かって史彬の家に着かれる。留まること三日、杭州・天台・雁蕩(がんとう)を見て廻り、また雲南に帰えられる。三年、重慶の大竹善慶里(たいつくぜんけいり)に行かれる。この年もしくは前年の事であろうか、帝は金陵(後の南京)の諸臣が惨死した事を聞かれて、さめざめと泣いて云う、「我は罪を神より受たり、諸人は皆我のために為す也」と。

 建文帝は今や僧の応文である。心の中はイザ知らず、袈裟に枯木の身を包み、山水に白雲の跡を追い、或いは草鞋、或いは茶店に閑座し、漫遊されておられるが、燕王は今や皇帝である。万乗の尊き地位に在って、心休まる日は無い。永楽元年には韃靼(だったん)の兵が遼東を侵犯し永平を襲い、二年は韃靼とオイラト(西部蒙古)の不和によって辺境は平穏であったが、三年には韃靼が辺境にやって来た。特に此の年はチムールが大軍を起こして、道をベシバリに取って、甘粛(かんしゅく)から乱入しようとする動きがあった。甘粛は都から遠く離れているとは云えども、チムールの勇猛な事は太祖の時から知るところで、永楽帝の憂慮は察することができる。此の事は「明史」の外国伝に、「朝廷はチムールがベシバリを通り兵を率いて東に向かうと聞き、甘粛総兵官の宋晟(そうせい)に命じて警備させる。」と記されているに過ぎないが、しかしながら意外にも作戦は緻密であって、永楽八年以降しばしば漠北を親征されたほどの帝が、チムールが東に向かうと聞いてどうして平然としていられよう。太祖は洪武二十八年に、伝安等をチムールの許(もと)へ使者に出したが、伝安等は未だ帰って来ない。この知らせを聞いては心配しない訳には行かない。

 チムールは、父はタラガイで、元(げん)の至元二年に生れる。生まれつき足が悪かったので、チムールを憎む者はチムールレンクと呼ぶ、レンクとは足の悪い人を悪く云う意味のペルシャ語である。タメルランの名称もこれから出る。容貌雄偉、軍を率い、治政を善くする。太祖が明を開くのと前後して大いに勢いを得て、洪武五年以後征戦すること三十余年、威名はアフリカ・ヨーロッパに及ぶ。チムールはイスラム教を信じる。明は甘粛に居るイスラム教徒を追放する。イスラム教徒の多くはチムールの領土に帰る。チムールが甘粛から攻め寄せようとするのも理由があるのである。永楽元年から永楽三年に至るまでチモールの許に居たスペインの使者クラビホは記す。「タメルラン(チムール)は、支那帝の使者をスペイン帝の使者の下座に座らせて、吾が兒であり友であるスペイン帝の使者を賊であり無頼である支那帝の使者の下座に座らせることの無いようにせよ」と云ったと。また同時にタメルラン軍に仕えていたパワリア人のシルトベルゲルは記す、「支那帝の使者は進貢を求める、タメルランは怒って、吾は進貢しない、貢(みつぎ)を求めるのであれば帝自ら来いと云い、そして使いを出して兵を徴集し、百八十万の兵を集めて正に支那に向けて発進しようとした」とある。「西暦千三百九十八年にはタメルランは西部ペルシャを征服したが、その冬には明の太祖とエジプト王の死を知った」と云う。チムールが四方に注意を配っていた事が分かる。であれば、燕王が挙兵して終(つい)に帝位についた事は知っていた。建文二年からチムールはオスマン帝国を攻めたが、外地に在ること五年、永楽二年にサマルカンドに還った。スペイン帝の使者と支那帝の使者を引見したのは即ちこの年の事で、その翌年には直ちに馬首を東に向けて、争乱後の支那に乱入しようとしたのである。

 永楽帝はこの報せを知ると、宋晟(そうせい)に命じて警備させただけでなく、戦いの備えをした事が知れる。宋晟は好将軍である。平羌(へいきょう)将軍西寧侯である。嘗て或る御史が宋晟が勝手気ままをすると訴えたことがあったが、帝はこれを聴かずに云う、「人に任せて自由にやらせなければ功を挙げることは出来ない」と。また嘗て云う、「西北の境界はひとえに卿に委ねる」と。その武将としての才能を称えられたことこのようであった。チムールの来襲については、帝にはまた別に虞(おそれ)るところがあった。思うに燕が挙兵した時に韃靼の兵を借りたことは、「明史」に記されてはいないが、蔚州を囲んだ時のことに照らしても分かるのである。建文が未だ死なず、又その従臣の中に道衍や金忠のような策士が在って、西北の胡兵の力でも借りれば、天下の事は分からないのである。鄭和と胡濙が辺境へ出たのも意味の無い事では無いのである。建文の草庵での夢、永楽の金殿での夢、どちらが安らかで、どちらが安らかで無いか、これを聞いてみたいと思うのである。幸いにしてチムールは千四百五年、即ち永楽三年の二月十七日にオトラルで病死して、二雄相譲らず竜虎争闘するような惨禍を人々に被らすことは無かった。

 四年、建文帝の応文は西平侯の家に着いて止まること十日程、五月には出て庵を白龍山に結ぶ。五年の冬、建文帝は戦乱で死んだ諸人を祀(まつ)り、自ら文を作ってこれを哭される。朝廷が帝を秘密裏に探しているので帝も深く潜んで居て出ない。この年、伝安が都に帰る。伝安は胡地(こち)を歴遊すること数万里、城外に留まること二十年、著書に「西遊勝覧詩(せいゆうしょうらんし)」がある。後の愛好家の喜び読むところとなる。チムールの後継者のハリは雄志(ゆうし)が無く、使者を伝安に同行させて貢物を贈らせる。六年、白龍庵が火災に遭う。程済は寄付を募って再建する。七年、建文帝は善慶里に行き、襄陽に行き、雲南に還る。朝廷は密かに帝を雲南や貴州に探索する。

 八年春三月、工部尚書の厳震(げんしん)は安南に使者として赴く途中、雲南で建文帝に遇う。旧臣は今も衣(きんい)で旧帝は既に僧衣である。厳震はただただ恐縮して涙が止まらない。帝は、「我を如何にしようとするか」と問われる。厳震答えて、「君は御心(みこころ)の侭(まま)にあられください、臣は自ら処することがあります」と申す。人生の悲しさに堪えられなかったものか、その夜、宿で自ら縊れて死ぬ。夏、帝は白龍庵で病まれる。史彬・程享・郭節が偶々(たまたま)来る。三人は永らく留まって居たが、帝はこれを送られて、「今後再び来ること勿れ、我は安居している、心遣いするな」と仰せられる。帝は白龍庵を出られる。この年永楽帝は、去年丘福を漠北で失ったので北京(旧北平)を発って胡地に入り、ベンヤシリやアルタイ等と戦って勝ち、擒狐山(きんこざん)と清流泉の二箇所に銘を刻んで還られる。

 九年春、白龍庵は有志によって壊される。夏、建文帝は浪穹鶴慶山(ろうきゅうかけいざん)に行き大喜庵(だいきあん)を建てられる。十年、楊応能が死に、次いで葉希賢死ぬ。因って帝は一人の弟子を入れて応慧(おうえ)と名付けられる。十一年、甸(てん)に行って還り、十二年、易数(えきすう)を学ばれる。この年、永楽帝はまた辺境に出てオイラトを征伐される。皇太孫が九龍口(きゅうりゅうこう)において危難に遇う。十三年、建文帝は衡山(こうざん)に遊ばれる。十四年、建文帝は程済に命じて「従亡伝(じゅうぼうでん)」を記録させて自ら序文を作られる。十五年、史彬が白龍庵に行き、庵が見えないので驚いて帝を探し求め、終に大喜庵で遇い奉る。十一月帝は衡山に行かれる。官の追及を避けられたのである。十六年、貴州に行かれる。十七年、始めて仏書を観(み)られる。十八年、峨眉山(がびさん)に登る。十九年、越(えつ)に入り海南の諸景勝地に遊び十一月に還られる。この年アルタイが反抗する。二十年、永楽帝はアルタイに遠征する。二十一年、建文帝は章台山に登り、漢陽に遊び、大別山に留まられる。

 二十二年春、建文帝は東行されて、冬十月に史彬と旅店で遇う。この年アルタイが大同に侵攻する。去年はアルタイに親征したが、アルタイが逃げて戦わなかったので軍は空しく還る。今また境界を侵す。永楽帝はまた親征する。敵に遇わずに軍糧が尽きる。帰路楡木川(ゆぼくせん)に着いて急に病んで崩じる。これ思うに疑うべき点もあるのである。永楽帝は既に崩じて建文帝は今も猶在る。帝は史彬と宿で遇い、老いた実直な良臣の口から簒奪をした叔父の死を聞く。世の中の事は測ることが出来ないと云うが、剃髪(ていはつ)して宮廷を脱出し、落涙して舟に上った時には思いも寄らないこのような話を聞く今日があろうとは、深い怨みの仇敵が冥土へ入ったことを聞こうとは、アア奇である。応文禅師(おうぶんぜんじ)の建文帝がどのように感じられたかは知らないが、史彬と共に江南に下り、史彬の家に着いて、やがて天台山に登られた。

 仁宗の洪熙(こうき)元年正月、建文帝は観音大士を潮音洞(ちょうおんどう)に参拝して、五月に帰られる。この年仁宗も崩じて建文帝を探索することが次第に忘れられる。宣宗(せんそう)の宣徳元年秋八月、付き従って来た亡き諸臣を庵前に祀(まつ)られる。この年、漢王の高煦が反乱を起こす。高煦は永楽帝の子で仁宗の同母の弟であり、宣宗の叔父である。燕王の挙兵の時に高煦は父に従って力戦する。武力を誇り騎射を能くし、甚だ父に似ている。永楽帝の崩御するに当っては、丘福や王寧等の武臣の中には意(こころ)を高煦に置く者も在り、高煦もまた戦功を頼んで密かに期するところがあった。しかし永楽帝は長子を立てて高煦を漢王とする。高煦は甚だ不満である。仁宗が立つがその年に崩じて仁宗の子が天位に就くや、遂に反乱する。高煦が宣徳帝に対した行為は、永楽帝が建文帝に対した行為と同じである。父は反乱を起こして帝となる。高煦は父のしたところを学んで陰謀怠(おこた)り無い。しかしながら事を起こすや、宣徳帝は親征して之を降(くだ)す。そして高煦は漢王を廃されて庶人となる。後に鎖に繫がれて逍遥城に幽閉される。ある日、宣徳帝がこれを熟視しているのに気づき、高煦は急に立って、帝の不意を突いて足を伸ばし帝を蹴って地に倒す。帝は大いに怒って力士に命じて、大きな銅の壺を高煦に負わせる。高煦は多力なので壺の重さは三百斤あるが、身体を真っ赤にして壺を負って立つ。帝は炭を壺の上に山のように積み上げ、これを燃やす。高煦は生きながら焦熱地獄に堕ち、高煦の諸子も皆死罪となる。燕王は手本を示して反乱を起こし、自身は幸いに志を得たと云えども終(つい)に城外の楡木川で死に、愛する子の高煦は焦熱地獄に堕ちる。このような結果、このような報い、悲しくも悼ましく、驚き歎くものがある。

二年冬、建文帝は永慶寺に宿して詩を書いて云う、

杖錫(じょうしゃく) 来たり遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟(かんぎん)に傍(そ)う。
塵心(じんしん) 消尽(しょうじん)して 些子(さし)も無し、
受けず 人間の物色の侵(おか)すを。

 これより建文帝は優游自適、居ながらにして一人の僧侶である。九年、史彬が死に、程済は猶も従う。帝は詩をよくされる。嘗て賦された詩の一ツに、

牢落(ろうらく) 西南 四十秋、
簫々(しょうしょう)たる白髪 已(すで)に頭に盈(み)つ。
乾坤 恨みあり 家いづくにか在る、
江漢(こうかん) 情無し 水おのづから流れる。
長楽宮中(ちょうらくきゅうちゅう) 雲気(うんき)散じ、
朝元閣上(ちょうげんかくじょう) 雨声(うせい)収まる。
新浦(しんぽ) 細柳(さいりゅう) 年々緑に、
野老(のろう) 声を呑んで 哭して休まず。

 また嘗て貴州の金竺(きんじく)長官司の羅永庵(らえいあん)の壁に書き付けられた七律二章などは、皆誦(しょう)するによい。その二に云う、

楞厳を閲(けみ)し罷(や)んで 磬(けい)を敲(たた)くに懶(ものう)し、
笑って看る 黄屋(こうおく) 団(だん)瓢(ぴょう)を寄す。
南来 瘴嶺(しょうれい) 千層逈(はる)かに、
北望 天門 万里遥かなり。
款段(かんだん) 久しく忘れる 飛鳳(ひほう)の輦(れん)、
袈裟 新たに換(か)わる 兗龍(こんりゅう)の袍(ほう)。
百官 この日 知る何(いず)れの処ぞ、
唯有り 群鳥の 早晩に朝(ちょう)する。

 建文帝はこのようにして山青く雲白い処で無事の余生を送り、仙人陰士のように跡形もなく身を終えられるように見えたが、天意は測り知ることが出来ない。魚は深淵に潜めども思い付いて上に昇る日もあり、鳥は高空に飛べども天には宿るところが無い。帝は忽然としてまた宮に入られる。その事まことに思いもかけない事である。帝と同宿するところの僧が、帝の詩を見て遂に建文帝であることを察して、その詩を盗んで思恩の知州の岑瑛(しんえい)の所へ行って、「我は建文帝である」と云う。その心は察するに、今の朝廷は建文を苦しめること無く厚く之を奉じると思ったのであろう。岑瑛はこれを聞いて大いに驚き、同宿の僧の悉(ことごと)くを捕らえて都に送り、文(ぶん)を以て奏上する。帝も程済も都に行く運命にあったものか。御史が僧を問い質すと、僧は云う、「年九十余り、今はただ祖父の陵墓の傍らに葬られることを思うのみ」と。御史が「建文帝は洪武十年のお生まれで、正統五年を遡ること六十余年前であり、何で九十才に成ることが有ろうか」と、これを疑って次第に問い詰めて、その嘘であることを突き止めた。実は僧は鈞州(きんしゅう)の白沙里(はくさり)の楊応祥(ようおうしょう)と云う者であった。これに因って、奏上した僧を死に処し、従者十二人は配流(はいる)にして国境を守らせることにする。帝がその中に居た。ここにおいて已むを得ずしてその事実を告げられる。御史は更にまた驚いて此の事を密奏する。

 正統帝の御父(おんちち)の宣徳帝は、漢王高煦の反乱に遇われて幸いにも之を降(くだ)されたが、叔父の為に兵を動かした境遇はまことに建文帝と異なるところが無い。その宣徳帝を継がれた正統帝が、建文帝に対してどのような感を持たれたか、御史の密奏を聞かれて、建文帝に親しく仕えた宦官を召して真否を探らせる。呉亮(ごりょう)と云う者が在り建文帝に仕えて居た。そこで呉亮に応文が果して建文帝であるか否かを探らせる。呉亮が応文に遇うと、応文は直ちに、「お前は呉亮では無いか」と云われる。呉亮が猶も「そうではございません」と申すと、帝は古い事を語られて、「お前は呉亮では無いのか」と仰せられる。呉亮は胸が一杯になって答えることが出来ず、慟哭して地に伏せる。建文帝の左の御足(おみあし)に黒子(ほくろ)のあったことを思い出して、呉亮が近づいて御足を擦って見ると正しくその黒子が有ったので、懐旧の涙を止めることが出来ない。仰ぎ見ることも出来ずに退いてその旨を申し出た後に、自ら縊死する。ここにおいて、事実が明らかになったので建文帝を迎えて、西内(せいだい)に入れてたてまつる。程済はこの事を聞いて、「今日で臣の務めは終わった」と、雲南に帰って庵を焼き同志を解散させる。帝は宮中に在って老仏の名で呼ばれて、寿命を以て終わられたと云う。

 「女仙外史」に、忠臣等が名山幽谷に帝を探し求めることを記す。有るような無いような、実のような虚のような、縹緲(ひょうびょう)とした趣(おもむ)きある文を記す。永楽帝の楡木川の崩御を記して、鬼母(きぼ)の一剣を受けたとし、また野史を引用して、「永楽帝が楡木川に着くと、野獣が突進するのに遇い、之を打つ。攫(さら)われてただ半身を遺(のこ)すのみ、なきがらを棺(ひつぎ)に納め葬(ほうむ)り、そして棺職人を殺す、その跡を無くすためなり」と。野獣か、鬼母か、私はこれを知らない。西洋人は、帝は胡人に殺されたとする。であれば、則ち帝は丘福を咎めて、そして福とその死を同じくするのである。帝は勇武を自負して毎戦危険を冒す。楡木川の崩御については、思うに「明史」は之を忌み嫌って書かなかったのである。

 運命か、運命か、紅い函(はこ)の度牒・袈裟・剃刀、アア何と奇ではないか、道士の霊夢、御溝(ぎょこう)の片舟(へんしゅう)、アアまた何と奇ではないか、私は嘗て「明史」を読んで、その奇に驚いて、建文帝と共にいわゆる「運命なり」と云いたいと思う。その後また道衍の伝を読む。中に記す、道衍は永楽十六年に死すと。死に際して帝が云いたいことを問う。道衍云う、「臣は溥洽(ふごう)と云う者と永い付き合いがあります。願わくはコレを赦(ゆる)し給え」と。溥洽は建文帝の主録僧である。初め永楽帝が南京に入るや建文帝は僧となって逃れ去り、溥洽が事情を知っていると云う者があり、或いは溥洽の所に隠すと云う者がいて、そこで帝は別件で溥洽を捕らえて、そして給事中の胡濙等に命じて広く建文帝を探索させる。これを永年行ったが得られず。溥洽は捕らえられ繫がれること十数年、ここに至って帝は道衍の言によって、命じて之を出させる。道衍は頓首して謝し、やがて死ぬ。函中の朱書、道士の霊夢、王鉞の言、呉亮の死と、道衍の請いと、溥洽の沈黙と、アア、運命であるか、運命でないか、思うに道衍は知るところ有るか。そして楡木川の客死、高煦の焦死、運命であるか運命でないかは、無論道衍や袁珙の輩(やから)の知るところでは無く、ただこれ天の知るところであろう。
(大正八年四月)

注解
・鄭和:中国・明の宦官。永楽帝に重用されて南海への計七度の大航海をする。
・給事中:中央行政府(六部)の監察官。行政府監察官。
・内侍:帝の身の回りの用をたす宦官。
・宦官:中国の宮中で皇帝や後宮に仕えた去勢された男性官。
・張三丰:中国・南宋から明代にかけて生きた伝説的な道士で仙人。
・鉄門関:バルフとサマルカンドの間にある隘路。
・碣石:サマルカンド南部のキシュ近郊か?
・カザン:モンゴル系イル・ハン国の第七代ハン。
・チムール:チムール王朝の創始者。
・傅安:中国・明の外交家。
・胡濙:中国・明の政治家。礼部尚書。
・工部侍郎:前出。
・翰林編修:前出。
・少監:帝の身の回りの用をたす宦官部門の次官。
・呉王府教授:呉王府長史司の教授職。
・監察御史:前出。
・御史:前出。
・兵部侍郎:兵部の次官。兵部次官。
・刑部侍郎:刑部の次官。刑部次官。
・編修:翰林院で史書の編纂を担当する。翰林院編修職。
・検討:翰林院の検討職。翰林院検討職。
・按察使:地方行政を監督する按察司の長官。按察司長官。
・参政:地方行政を担当する布政司の次官。布政司次官。
・刑部郎中:刑部の地方担当官。刑部地方担当官。
・中書舎人:天子の詔を起草する担当官。
・刑部司務:刑部の司法官。刑部司法官。
・鎮撫:軍の監察機関である鎮撫司の長官?。
・翰林待詔:翰林院の待詔職。翰林院待詔職。
・欽天監正:天文監(天文台)の長官。天文監長官。
・太監:帝の身の回りの用をたす宦官部門の長官。
・徐王府賓輔:徐王府の賓輔職。徐王府賓輔。
・韃靼:明では滅亡後北方に逃れた元の遺民を韃靼と呼んだ。
・甘粛総兵官:甘粛省国境の防衛派遣軍の長官。甘粛国境防衛派遣軍長官。
・思恩の知州:思恩の州知事。思恩州知事
・工部尚書:工部の大臣。工部大臣。
・楡木川:現在の内蒙古自治区ドロン。
・主録僧:禅院の禅事を統括する僧。

自跋

 嘉定の銭大昕(せんだいきん)は、博(ひろ)く群書に通じ、達識で能文、もとより乾隆期の巨星であって、当時の人々はこれを仰ぎ見る。好く歴史を考え、著書に「二十二史攷異」や「元史芸文志」等があり、人々はこれを称(たた)える。その記すところに「萬先生伝」一篇がある。萬(ばん)氏、名は斯同(しどう)、字は季野(きや)、鄭の人である。明の崇禎十六年に生れる。或いは云う、十二年に生れると。清の康煕四十一年に死す。明や清の時代は偉材が輩出する。安渓の李厚庵(りこうあん)の認める者は最も少ない。云う、「我が平生の見るところでは数氏に過ぎない。顧寧人(こねいじん)・萬斯同・閻百詩(えんひゃくし)、これ等はまことにもって、その著書は書庫に備えられるべき人である」と。その学問の精緻該博なことを知るべきである。萬斯同の著わすところ、「読礼通考」二百六十巻、「明史稿」五百巻、「歴代史表」六十四巻等がある。康煕十八年、勅命によって「明史」の編集が始まると、大学士の徐元文(じょげんぶん)は萬斯同を薦めて史局に入れようとする。斯同は強く辞退する。そこで引き下がり、その家を執務所にして民間人のままで編集に当たらせる。編纂官たちが原稿を持ってやって来て、これ等を全て斯同に渡して検閲を求める。斯同は之に補足をしたり校正を加えたりして能くその実務を尽くす。徐元文が罷めると、これを継ぐ大学士の張玉書(ちょうぎょくしょ)・陳廷敬(ちんていけい)や尚書の王鴻緒(おうこうしょ)等は、皆斯同の継続を願って礼を尽くす。斯同は諸史に詳通し博覧絶倫、明代の故事に最も精熟し、明十五王朝(洪武帝~天啓帝)の実録を殆んど暗誦し、その他の邸報(ていほう)・野史・家乗(かじょう)・遍観(へんかん)など熟知しないものは無い。或る人が或る事を挙げて之を問うと、その曲折終始を詳述して、聴いていると滝が川に注ぐようであったと云う。斯同を伝えるものは銭大昕(せんたいきん)の「萬先生伝」の他に、全祖(ぜんそ)望(ぼう)の「萬貞文先生伝」があり、また黄百家(こうひゃっか)の「萬季野先生斯同墓誌命」がある。銭大昕は斯同の弟子である。そこで銭大昕は「萬先生伝」を著わす。

 「萬先生伝」に記して云う、建文朝には実録が無い。野史に国を譲って逃亡したとする遜国出亡(そんこくしゅつぼう)の説が有って、後人の多くがこれを信じる。先生は直ちにこれを否定して云う、「紫禁城に水関は無い。出られるハズが無い。鬼門もまたその地が無い。永楽帝は実録の中で建文は宮中で自焚したと云う。永楽帝は宮中に煙の起こるのを見ると、急いで中使を派遣して救わせようとしたが、着いて見ると既に遅く、中使はその屍(しかばね)を火の中から出し、還って帝に后の屍と云って報告したと云う。いわゆる中使とは永楽帝の宦官である。どうして敢えて后の屍と云って帝を欺くことがあろう。そして宮中を粛清した日に建文に思いを寄せる者の悉(ことごと)くを毒殺したと云う。考えて見れば仮に自焚の実証が無いのであれば、大捜索令が発せられないハズが無い。且つ建文が即位してからの二三年は、親藩を削奪して一度も寛大な扱いをすることが無い、そこで燕王が挙兵して朝廷を攻めることになって、追い詰められて自焚する。即ち逃亡しても勢いは窮まっていて力は尽きるだけである。これを遜国と云えるだろうか」と云う。これに因って建文帝の記録はついに定着する。

 銭大昕の記すところはこのようである。これが即ち萬斯同が建文帝の逃亡は無かったとするところである。萬斯同の言葉を信じるべきか、否か。黄百家が撰した墓誌や全祖望の著す伝、及び銭大昕の記す文を考え合わせると、萬斯同の人と学問を信じるべきであると思う。その人の学問を信頼してその言葉を信じれば、建文帝の逃亡の無かったことが信じられるようである。紫禁城に水関が無く鬼門も無いのであれば、道士が舟を出して建文帝を逃れさせた事も全てこれ架空の話となる。アア、私は実に萬先生を信じたいと思う、これを信じないわけにはいかない。しかしながら萬先生に先だって既に早くも水関や鬼門や建文逃亡の話が有り、そのため萬先生はこれを斥けて、その事は無かったとするのである。であれば、その事が無かったにしても、函の中に僧衣があり、水上に道士を見ると云う言(げん)が確かにあり、そしてまたその言を作った人が有ったのである。およそ虚談妄説(きょだんもうせつ)の有るハズの無い事が、或いはその事があったのではと人に思わせるには、必ずそこに詭計(きけい)に巧みな人が居て、造言流言の術を使って世の俗衆に好んで之を信じさせることから始まる。支那(中国)の歴史を読むと、運命の移り変る時には多くの神異があって、それが天意であるように思わせることが有る。漢の劉邦(りゅうほう)が未だ起たない時に、龍の子であるとの風評は早くも伝わり、貴相の誉れもしばしば広まる。大蛇が斬られて老嫗(ろうおう)が泣き、彩雲(さいうん)が現れて呂婦人(ろふじん)は駆け付け、まことに草野(そうや)に一英雄の居ることを思わせる。思うにこれ等は呂公(りょこう)や蕭何(しょうか)の輩のしたことであろう。これは天命に託(かこつ)けて人を誘導するものである。空(くう)を括(くく)って虚を結び、永楽が帝になり建文が世を遁れるのも皆天命であると人々に思わせる。燕府の参謀に詭計の巧みな者が居て之を為さないことがあろうか。ソレ人間の是非において天命の与奪は如何ともし難い。永楽の興起(こうき)と建文の窮死(きゅうし)、これを天命とすれば、永楽に罪は無く、建文は徳に乏しいようである。でなければ、どんなに永楽が智勇あり偉器であっても、謀叛を図り乱を起し、道理に反した行動をとり、天子を死に追いやる倫理に反する不義非道の罪があっては、一世に君臨することは出来ないのである。ここに於いて建文が国を遜(ゆず)り仏道に入ったと云う遜国帰道(そんこくきどう)の話が、予(あらかじ)め仕組まれていたかのように、永楽の即位に当って、正にそうであるような神異秘奇の話があり、そうした後で民は安心し国は治まり、大明(だいみん)の勢威が内外に耀くことを得たのである。アア、天命か、人謀か、劫運か、世情か。私は建文・永楽の時に於いて、驚くべき一大小説が燕王朝内の無名子によって作られたことを記して人々に贈り、題して「運命」と云う。史ではない、史ではない、これはただ当時の小説を伝えるだけで、その史実については萬斯同が云う通りであろう。張廷玉等が勅命により編纂した「明史」のようなものを呼んで正史と云うが、「明史」の建文紀には、「宮中に火が起こり、帝の終わるところを知らず」と記し、またその末路を記して曖昧な言(げん)が多い。これでは清の太史からして、明の小説家の僕(しもべ)ではないか。私は嘗て云う、「虚言を束ね来たって歴史あり」と。因って、この侭(まま)にして置く。
(昭和十三年七月)


注解


・銭大昕:中国・清の考証学者。字は暁徴。号は辛楣、晩年は竹汀居士・潜研老人と名乗った。

・萬斯同:中国・清の学者。字は季野。石園先生と称される。

・顧寧人:中国・明末清初の儒学者。名は炎武、寧人は字。号は亭林。

・閻百詩:中国・清初の考証学者。名は若璩、百詩は字。号は潜邱。

・大学士:内閣大学士の略称。皇帝の下で国政に与かった内閣機関の長。丞相。

・邸報:宮廷の動静、皇帝の諭旨、大臣の上奏文を日ごとにまとめて掲載した小冊子。

・野史:民間歴史書。

・家乗:家伝。

・遍観:既読の書籍?。

・中使:皇帝の走り使いをする宦官。

・劉邦:中国・前漢の初代皇帝。高祖。「史記・高祖本紀」。

・呂公:高祖の后。

・蕭何:中国・前漢の丞相。






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