幸田露伴の小説「五重塔31~35」
その三十一
時は一月の末、のっそり十兵衛の苦労の経営が実を結び、感応寺の生雲塔はいよいよ物の見事に出来上り、徐々に足場を取り除けば次第次第に現れる一階一階また一階、その五重の高くそびえる状(さま)は、「金剛力士が魔軍を睨(にら)んで十六丈の姿を現わし、地軸も動(ゆる)がす足踏みして巌(いわ)に突っ立つように、あっぱれ立派に建ったものかな、アラ快い細工ぶりかな、希有(けう)じゃ未曾有(みぞう)じゃ再(また)とあるまい、」と為右衛門から門番までが、最初はのっそりを軽んじていたことも忘れて讃嘆すれば、円道はじめ一山(いちざん)の僧徒もおどりあがって喜び、これでこそ感応寺の五重塔だ、あら嬉しや、我等が頼む上人は当世に肩を比べる人も無く、仏教各派の高僧達がそれぞれ勝れ玉える中においても抜群に類を絶して、たとえて云えば獅子王や孔雀王で、我等が頼むこの寺の塔も抜群に類を絶して、奈良や京都はいざ知らず上野・浅草・芝山内、江戸でこの塔に勝るもの無し、特に俗世に埋もれて光も放たずに終るはずの男を拾い上げられて、心の宝珠(たま)の輝きを世に出された上人の美徳、困苦に負けず知遇に酬いて遂に仕遂げた十兵衛の頼もしさ、面白くもまた美(うる)わしい奇妙な因縁、天が成したか人が成したか、それとも諸天善神が蔭から操(あやつ)り玉われたのか、建屋を巧みに造る達膩伽尊者(たにかそんじゃ)の噂はあるが、釈尊在世の御時(おんとき)にもこのような快い事が有ったとは未だ聞かないし、漢土(から)においても聞いていない、落成式のその時には我れが偈(げ)を作ろう文を作ろう、我れが歌をよみ詩を作って頌(しょう)しよう讃(さん)しよう詠(えい)じよう記(しる)そうと、各々互いに語り合ったのは慾だけではない人間の情のやさしくもまた殊勝なのに引替えて、予測できないのは空模様、円道と為右衛門の判断で盛大に落成式を執行することに日もほぼ決まり、その日は貴賤男女の見物を許し貧者には余剰の金を施し、十兵衛その他を労(ねぎら)い表彰する一方で伎楽を奏して、世に珍しい塔供養を実行しようと準備をしている最中、夜半の鐘の音がくもっていつもと違って耳にキタナク聞えたのがそもそもの始め、次第にあやしい風が吹き出して、眠っている子供も我知らず夜具をはねのけるほど生暖かくなるにつれて、雨戸のガタつく響きが烈しさを増し、闇にもまれる松柏の梢に天魔の叫びものすごく、人の心の平和を奪え、平和を奪え、浮き世に栄華を誇る奴等の胆を破れ、睡りを乱せ、愚か者の胸に血の波を打たせろ、ニセ者の顔の紅い色を奪え、斧を持つ者は斧を揮え、矛を持つ者は矛を揮え、汝等(なんじら)の鋭い剣は餓えている、汝等の剣に食を与えろ、人の膏血(あぶら)は好い食だ、汝等の剣に喰わせろ、飽くまで人の膏血を与えろと、号令きびしく発するやいなや、猛風が一挙にドッと起って、斧を持つ夜叉(やしゃ)も矛を持つ夜叉も餓えて剣を持つ夜叉も、皆一斉に暴れ出した。
注解
・金剛力士:仏法の守護神。仁王。
・魔軍:仏法を侵す魔の軍勢。
・十六丈:百六十尺。約四十八メートル。
・達膩伽尊者:仏弟子の一人、草屋を三度建てたといわれている。
・漢土:中国本土。
・伎楽:仏教音楽。
・天魔の叫び:暴風雨の叫喚。
その三十二
長夜(ちょうや)の夢を覚まされた江戸中の老若男女は、悪風が襲って来たとおどろき騒ぎ、「雨戸の落としをしっかり挿せ、心張(しんば)り棒をつよく張れ」と、家々に狼狽(うろた)えるのを憐れとも思わない夜叉王の怒号は、声音(こわね)も猛々しく天に飛び交う、「汝等人間に遠慮するな、汝等人間に気付かせろ、人間は我等を軽んじている、永らく我等を卑しんでいる、我等に捧げるハズの犠牲を忘れている、這わないで立って歩く犬、驕奢(おごり)の塒巣(ねぐら)をつくる鳥、尻尾のない猿、物を云う蛇、少しも誠実(まこと)のない狐の子、汚穢(けがれ)の分からない女豚、彼等人間に永く侮られて何時まで忍べよう、我等を永く侮らせて彼等人間を何時まで誇らすことが出来よう、忍ぶだけは忍んだ、誇らすだけは誇らせた、六十四年は既に過ぎた、我等を縛った機運の鉄鎖、我等を囚えた慈忍の岩窟は我が神力(しんりき)でちぎり棄てた、崩れさせた、汝等暴(あば)れろ今こそ暴れろ、何十年もの恨みの毒気を彼等に返せ、一時に返せ、彼等の驕慢の臭気を鉄囲山(てっちせん)の外につかんで捨てろ、彼等の頭を地に付かせろ、無慈悲の斧の切れ味の好さを彼等の胸で試せ、彼等を惨酷な矛や瞋恚(しんい)の剣の刃糞(はくそ)にしろ、彼等の喉に氷を与えて寒苦に怖れおののかせろ、彼等の胆に針を与えて秘密の痛みに堪えられなくしろ、彼等の目前で彼等が生んだ多数のぜいたくな品々を殺して、奢侈の心を取り返しのつかない深い歎きの河に埋めよ、彼等は蚕児(かいこ)の家を奪った、汝等は彼等の家を奪え、彼等は蚕児の知恵を笑った、汝等は彼等の知恵を褒めよ、すべて彼等が巧みと思う知恵を褒めよ、大と思う意(こころ)を褒めよ、美しと自ら思う情を褒めよ、正しいとする理を褒めよ、剛(つよ)いとする力を褒めよ、全ては我等の矛のエサであれば、剣のエサであれば、斧のエサであれば、褒めた後で刃物にエサを与え、よいエサをつくった彼等を笑え、嬲(なぶ)れるだけ彼等をなぶれ、急いで殺すななぶり殺せ、生かしながらに一枚一枚皮を剥ぎとれ、肉を剥ぎとれ、彼等の心臓を鞠(まり)にして蹴れ、枳殻(からたち)で背中をムチ打て、喘ぎの呼吸、涙の水、動悸の血の音、悲鳴の声、それ等をすべて人間から取れ、残忍のほかに快楽なし、酷烈でなければ汝等よ疾(はや)く死ね、暴れろ進め、無法の中で放逸・無慚・無理無体に暴れ立て、暴れ立てて進め進め、神とも戦え、仏をも叩け、道理を破ってやぶり棄てれば天下は我等のものなるぞ」と、叱咤(しった)するたびに土石を飛ばして二時から四時・六時・八時になっても少しもやまずに励ませば、数万の手下は勇み立ち、水を渡っては波を蹴かえし、陸を走っては砂を蹴かえし、天地を塵埃(ちり)で黄ばませて日の光をも殆んど掩い、斧を揮って道楽者が念入りに手入れした松を冷笑してポキッと折り、矛を舞わせて板屋根に穴を明け、ユサユサユサと怪力で堅固な家を動かし、橋を揺がす。手ぬるい手ぬるい酷さが足りない我に続けと、憤怒の牙をかみ鳴らし夜叉王が躍りあがって苛立ち、虚空に充ち満ちた手下どもが雄叫び鋭く喚き叫んでしゃにむに暴威を揮えば、神社や寺院に立つ樹々も、富家の庭に立つ樹々も、声振り絞って泣き悲しみ、見る見るうちに大地の樹々は恐怖に一本一本恐れ立ち、柳は倒れ竹は割れるその時に、黒雲が空に流れて樫の実よりも大きな雨がバラリバラリと降り出せば、得たりとますます暴れる夜叉は垣をひき捨て塀を蹴倒し、門を壊して屋根をもめくり、軒端の瓦を踏み砕き、ただ一トもみに屑屋根を飛ばし、二タもみ揉んでは二階を捻(ね)じり取り、三たび揉んでは某寺までも物の見事につぶし崩して、ドウドウドッと鬨(とき)を上げるその度(たび)ごとに心を冷し胸を騒がす人々の、アレを気遣いコレを心配する笑止の様(さま)を見ては喜び、住む所さえ無くされて悲む者を見ては喜び、いよいよ図にのり狼藉の有る限りをつくせば、八百八町百万の人は皆生きた心地もなく顔色もさらにない。
中でも特に驚いたのは円道と為右衛門、折角出来上った五重塔は揉みにもまれて、九輪は揺らいで頂(いただき)の宝珠は空に不明な字を画(えが)き、岩をも転がすような風は突き掛け、楯をも貫くように雨が打ち付けてくる度に撓(たわ)むその姿、木の軋る音、復(もど)る姿、また撓む姿、軋る音、今にも倒壊しようとする様子に、「アレアレ危ない何とかならないか、倒壊されては大変だ、止める手段(てだて)は無いか、雨さえ加わって来たうえに周りには樹木が無い、未曾有(みぞう)の風に基礎が狭くて丈の高いこの塔が堪えることは覚束ない、本堂でさえこれ程に動くのに塔はどうであろうか、風を止める呪文は効かないか、このような恐ろしい大暴風雨に、見舞に来るハズの源太は見えないか、まだ新しい出入であっても真っ先に来なくてはならない十兵衛は見えないか、怠慢である、他人(ひと)がこれほど心配するのに自分が成した塔を気にかけないのか、アレアレ危ない、また撓(たわ)んだハ、誰か十兵衛を呼びに行け」と云うが、空には瓦が飛び板が飛び、地上には砂利が舞う中を、行こうと云う者も無く、ようやく褒美の金を与えて掃除人の七蔵爺を使いに出す。
注解
・六十四年は既に過ぎた:不明。
・機運の鉄鎖:時機の到来を阻む鉄鎖。
・慈忍の岩窟:慈愛心と忍耐心籠る岩窟。
・鉄囲山:世界の中心にある須弥山をめぐる九山八海の最も外側にある鉄の山。
・玩物の念:物を玩ぶこころ。
その三十三
耄碌頭巾(もうろくずきん)に首を包んで、その上に雨を凌(しの)ぐための竹の皮笠をひきかぶり、鳶子合羽(とびこかっぱ)に胴締めをして手ごろの杖を持ち、恐る恐る烈風強雨の中を駈け出した七蔵爺がようやく十兵衛の家に着けば、コレはまた酷い事に屋根の半分は既に早くも風に奪(と)られて、見るも気の毒な親子三人の有様、隅の方にかたまり合って天井から落ちる雫の飛沫を古筵(ふるござ)でわずかに避けている始末に、サテサテのっそりは気の利かない男とあきれ果てて、「コレ棟梁殿、この嵐にソウしていては済むまい、瓦が飛ぶ樹が折れる外はまるで戦争のような騒ぎ、お前の建てられたアノ塔はどうなったと思われる、丈は高いし、周囲には物は無いし、基礎は狭いし、どの方角からも吹く風を正面(まとも)に受けて、揺れるハ揺れるハ、旗竿みたいに撓んではキチキチと材がきしる音のものすごさ、今にも倒れるか壊れるかと、円道様も為右衛門様も胆を冷し縮まして、気が気ではなく心配しておられるのに、本来ならば迎えなど受けなくても、この天変を知らん顔では済まないお前が、出て来ないとは余りに豪胆、お前のお蔭で危険な使いをいいつかり、忌々しいこの瘤を見てくれ、笠は吹き飛ばされる、ずぶ濡れにはなる、おまけに木片(こっぱ)が飛んできて額にぶつかりくさったぞ、いい面の皮とは俺のこと、サアサア一緒に来てくれ来てくれ、為右衛門様や円道様が連れて来いとの御命令だハ、エエッびっくりした、雨戸が飛んで行って仕舞ったのか、これだもの塔が堪るものか、話をする間にも既に倒れているか折れているか分からないグズグズしないで支度をしろ、早く早く」と急(せ)き立てれば、傍から女房も心配気に、「出て行かれるなら途中が危ない、ボロでもアノ火事頭巾を出しましょう、冠ってお出なされ、何が飛んで来るか知れたものではなし、外見よりは身が大切、幾らボロでも仕方がない、刺子半纏(さしこはんてん)を上に着てお出なされ」と戸棚をガタガタ開けにかかるのを、十兵衛は不満気な眼でじっと見ながら、「アア構わなくてもよい、出ては行かないハ、風が吹いたとて騒ぐには及ばない、七蔵殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れません、何のこれしきの暴風雨で倒れたり折れたりするような脆(もろ)いものではござりませんから、十兵衛が出掛けて参るにも及びません、円道様にも為右衛門様にもソウ云って下され、大丈夫、大丈夫でござります」と、落ち着き払って身動きもしないで答えれば、七蔵は少し膨れ面をして、「マアとにかく俺と一緒に来てくれ、来て見るがよい、アノ塔のユサユサキチキチと動く状(さま)を、ここに居て目で見ないで威張っておられるが、御開帳の幟(のぼり)のように頭を振っている状(さま)を見られたら、どれほど十兵衛殿が鷹揚な気性でも、気の毒ながら魂がフワリフワリとなられるであろう、蔭で強がりを云っても役にはたたない、サアサア一緒に来たり来たり、ソレまた吹くハ、アア恐ろしい、中々止みそうに無い風のようす、円道様も為右衛門様もサゾ肝を煎っておられることじゃろう、サッサと頭巾なり半纏なりを冠るなり着るなりして出掛けなされ」とやり返す。「大丈夫でござりまする、御安心なさってお帰り」と突っぱねる。「その安心がソウ手易くは出来ないワイ」とうるさく云う。「大丈夫でござりまする」と同じことを云う。挙句(あげく)には七蔵が焦(じ)れて、「何でも彼でも来いと云ったら来い、俺の言葉と思ったら違うぞ、円道様と為右衛門様の御命令じゃ」と、語気を荒げれば十兵衛も少しムッとして、「私は円道様や為右衛門様から五重塔を建てろと言い付かってはおりません、御上人様はさぞかし、風が吹いたからと云って十兵衛を呼べとは仰りますまい、そのような情けない事を云っては下さりますナ、もしも御上人様までが塔が危ない十兵衛を呼べと云われるようならば、十兵衛一期の大事、死ぬか生きるかの瀬戸際、天命を覚悟して駈けつけましょうが、御上人様が一言半句も十兵衛の細工をお疑いなさらない以上は、何の心配もない事、他(ほか)の人たちが何を云われようと、紙を材料の仕事はしないし手品も手抜きもしてない十兵衛は、天気のよい日と同様に雨の降る日も風の夜も安心しておりまする、暴風雨が怖くなければ地震も怖くござりませんと円道様に云って下され」と愛想もなく云い切れば、七蔵は仕方なく風雨の中を駈け出して感応寺に帰りつき円道と為右衛門にこの事を云えば、「サテもその場に臨んで知恵のない奴、何故その時に上人様が十兵衛来いとの仰せじゃとは云わない、アレアレあの揺れる状(さま)を見ろ、お前までがのっそりにかぶれて暢気すぎた了見じゃ、仕方ない、もう一度行って上人様のお言葉じゃとだまして、文句を云わせずに連れて来い」と円道にはげしく叱られ、忌々しさに呟きながら七蔵は再び寺の門を出た。
注解
・耄碌頭巾:老人などが寒さしのぎに用いた 焙烙型の丸頭巾。
・鳶子合羽:袖幅の広い見ごろのユッタリした外套。トンビとも云う。
・胴締め:胴を紐で締める。
・刺子半纏:江戸火消しなどが用いた刺子で作った半纏。
・御開帳の幟:寺院の御開帳 (厨子の扉を開いて本尊を現す)の日に立ち並ぶ幟。
その三十四
「サア十兵衛、今度は是非とも来い、四の五のは云わせない、上人様のお召しじゃぞ」と、七蔵爺がいきり立って門口から我鳴(がな)れば、十兵衛は聞くと同時に身を起して、「何んと、アノ上人様がお召しなさるとか、七蔵殿それは真実(まこと)でござりまするか、アア情けない、どれほど風が強いとも頼みきったる上人様までが、この十兵衛が一心かけて建てたものを脆くも壊れるかのように思し召されたか、口惜しい、世界にただひとり私を慈悲の眼で見て下さる神とも仏とも思っていた上人様までが、真底からは我が手腕(うで)を確かと思われないとは、つくづく頼もしくない世の中、モウ十兵衛の生き甲斐は無い、たまたま現世に並び無い尊い高僧に知られたことを、コレ一生の面目と悦んだのも真(まこと)に果敢ない少時(しばし)の夢、嵐の風がそよと吹けば丹誠こらしたアノ塔が倒れやしないかと疑われるとは、エエッ腹の立つ、泣きたいようナ、それほど俺は不甲斐ない奴か、恥を知らない奴に見えるのか、自分のした仕事が恥を受けてもオメオメ面(つら)押し拭いて生きているような男に俺は見えるのか、たとば彼の塔が倒れた時に生きていようか、生きたかろうか、エエッ口惜しい、腹が立つ、お浪、それほど俺はさもしいか、アア、アア、命はもはや要らない、我が身体(からだ)にも愛想が尽きた、この世の中から見放された十兵衛は、生きているだけ恥をかく、苦しみを受ける、エエッいっその事に塔も倒れろ嵐ももっと烈しくなれ、少しでも彼の塔に傷が出来ればよい、空吹く風も地を打つ雨も人間(ひと)よりも俺につれなくなければ、塔が壊されても倒されても、悦びこそすれ恨みはしない、板一枚を吹きめくられ、釘一本抜かれても、味気ない世に未練は持たない、物の見事に死んで見せ、十兵衛という馬鹿者は自分の仕事の手抜かりで恥を受けても、命惜しさに生き永らえているようなケチな奴では無かったか、このような心を持っておったかと、せめて後(のち)に弔われたい、一度はどうせ捨てる身の好い捨て時、好い捨てどころ、仏寺を汚すは恐れ多いが、俺が建てたものが壊れたら、その場は一歩も立ち去れない、諸仏菩薩もお許しあれ、生雲塔の頂上(てっぺん)から直ちに飛んで身を捨てよう、投げる五尺の皮袋はつぶれて醜くとも、汚いものは入っていない、あわれ男の一本気、清浄の血を流すのだから不憫と思い照覧あれ」と思ってか思わないでか、十兵衛自身も半分は知らない夢路をいつの間にか辿り、七蔵にさえ何処かで別れて此処は、オオ、それ、その塔である。
上(のぼ)りつめた第五層の戸を押し開けて、今しもぬっと十兵衛が半身を現わせば、小石を投げるような暴雨は眼も明けさせずに顔を打ち、一ツ残った耳までも千切るばかりに猛風は呼吸(いき)をもさせず吹きかける、思わず一ト足退(ひ)くが屈せずに、奮い立ち欄干をつかんでキッと睨めば、空は五月(さつき)の闇より黒く、ただゴウゴウと風の音だけが宇宙に充ちて騒がしく、さすがに堅固の塔ではあるが虚空に高く聳えていれば、ドウドウドッと風の来る度に揺らめき動き、荒浪に揉まれ揉まれた棚無し小舟がアワヤ転覆する風情、流石に覚悟を決めてはいるがまた今更に思われて、一期の大事、死生の岐路(ちまた)と八万四千の身の毛を逆立てて、歯を咬みしめ眼をみはり、イザその時はと手にして来た六分鑿の柄を思わず引掴(ひっつか)んで、天命を静かに待つのを知ってか知らずか、風雨を厭わず塔の周囲を幾度となくグルグル徘徊する怪しい男が一人いた。
注解
・棚無し小舟:棚(耐波性や積載量を増すために設けた外板)の無い小舟。
・八万四千:膨大な数(仏教用語)。
その三十五
「先日の暴風雨は我ら生れて以来第一の騒ぎであった」と、いつもは何事に遇っても二十年前三十年前にあった例を引き出して、古いことを大袈裟に云って新しいことを認めない老人でさえ、真底から我(が)を折って噂をしあえば、まして天変地異を面白づくで話の種子にするような軽薄な若い人は分別も無く、また無責任にも、「どこの火の見櫓が壊れた、あそこの二階が吹き飛ばされた」と、他人(ひと)の憂いや災難を茶飲み話にして、「ザマをみろ、馬鹿な慾から芝居の胴元をして奴(やつ)は痛い目に逢ったとみえる、それにしても笑わせるアノ小屋のつぶれ方はヨ、また日頃から小面(こづら)憎くい横町の生け花の師匠の二階が、建て増しの二階だったか気味(きび)が好い、それより江戸で一二と云われる大寺が脆くも倒れたのも理由のあること、実は檀徒から多分に寄附金を集めながら、役僧の不正、受負師の手品、そこにはソレの理由がある、察するに本堂のアノ太い柱も桶(おけ)で造ったもので有ったのだろう」などと様々に云い合う者たちも、感応寺の生雲塔が釘一本ゆるまず板一枚はがれなかったことには舌を巻いて讃嘆して、「イヤアノ塔を造った十兵衛というのは何と偉い者ではござらぬか、アノ塔が倒れたら生きてはいない覚悟であったそうな、すんでの事に鑿を咥えて十六間真逆(まっさか)さまに飛ぶところ、欄干をコウ踏んで、風雨を睨んでアレ程の大もみの中で泰然(じっ)と構えていたと云うが、その一念でも壊れまい、風の神も大方血眼(ちまなこ)で睨まれては遠慮が出たのであろうか、甚五郎以来の名人じゃ真の棟梁じゃ、浅草の塔も芝の塔も損傷したのに一寸一分歪みもしない退(ず)りもしないとは能く造った事ヨ。イヤそれについては話がある、その十兵衛という男の親分がまた滅法(めっぽう)偉い者で、モシ少しでも壊れたら仲間の恥辱(はじ)、知り合いの面汚し、お前それでも生きているのかと、二度と鉄槌(かなづち)も手斧(ちょうな)も握ることが出来ないほど叱りつけ、武士で云えば切腹同様の目に遇わせようと、ぐるぐるぐる大雨を浴びながら塔の周囲を巡っていたそうだ」、「イヤイヤそれは間違いだ、親分ではない商売敵じゃそうだ」と、我れ知り顔に語り合う。
暴風雨のために準備が狂った落成式もいよいよ済んだ日に、上人はワザワザ源太を呼び出されて十兵衛と共に塔に上られ、考え有って小僧に持たせた御筆に墨汁を含ませて、「儂がこの塔に銘を記(しる)そう、十兵衛も見よ源太も見よ」とおっしゃって、江都の住人十兵衛之を造り川越源太郎之を成す、年月日、と筆太に記し終えられ、満面に笑みをたたえて振り返り玉えば、両人共に言葉なくただ平伏して拝み入ったが、それ以後宝塔は長(とこ)しえに空に聳えて、西から見れば飛檐(ひえん)は時に素月(そげつ)を吐き、東から望めば勾欄(こうらん)は夕に紅日を呑んで、百有余年の今になるまで話は生きて遺っている。
(明治二十四年十一月)
注解
・飛檐:鳥が空高く翼を広げたような庇。
・素月を吐き:明るく冴え渡った月が出る。
・勾欄:高欄、欄干。
・夕に紅日を呑んで:高欄の赤い夕日が沈みこむ。