あけましておめでとうございます!

今年もよろしくお願いします。

という遅すぎる新年のご挨拶とは、大変似つかわしくない内容且つ、すでに一度noteでも綴ったことかもしれない内容をまたふと吐き出したくなったので打ち込むことにします。

人って変われないよなって話。変われないというか、変わらないというか。いい意味でも悪い意味でも、その人がその人たる根幹は植った上で、表面上何かしらの変化があったかのように見せかけたり、気を張ってみたり、…等の言動は見えるのだろうが、やっぱ人って変わらないし変われないと思っちゃった。

私はそれがいいことだとは思えないけれども、かといって、変われない自分、変わらない自分、変われない他人、変わらない他人をまるっきり否定したい訳でもない。

でも、頭ごなしに否定しちゃう時ってあるんだよね。拒絶に近い何かというか。それは、その時のタイミングもあったのだろうし、自分の大切な何かを守るための言動だったのかもしれないし。…とかなんとか言い訳をしつつも、人のことを傷つけたよなぁ…と感じる時もあり、かといって、自分の起こした言動が悪なのか?と問われるとそうだとも言い切れなくて。

あたしはあたしたる正義を掲げて生きているつもりでも、それは誰かの絶対悪になりかねないし、振り翳さない方がいい正義だってあることは百も承知なのに、うまくいかないよね。

私はこうやってモヤモヤしたり息詰まっていると感じる時ほど活字に依存して、活字に自分の息を吹き込むことで、こうやって生きているのだな、とようやっと第三者の視点で物事を捉えられるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

話の流れがごっちゃごちゃなのはいつものご愛嬌で見逃しておいてほしいのですが、どうするべきなのだろうなぁとは思いながら生きています。

寂しさだとか、悲しさだとか、辛さだとか。そういう感情もある分にはあったけれども、感情って時間と共に風化せざるを得ない刹那的なものであると個人的には感じているので、感情論的な考えや言動はある程度の時間経過と共にぴたりと止んでくれるのに、かといって、こうしたい、こうすべき、という答えが明確になったわけではなく、ううん…という。

もう私は私、あなたはあなた、他所は他所うちはうち、のスタンスで生きることで、なんらかの気まぐれが起きた時に手を取り合える機会ができるかもしれないし、空から落ちてきた石を拾えるかもしれないなぁくらいの心地で生きた方が楽なのかもしれない。そういう方向に舵を取った生き方をした方がいいのかもしれない。という考え方に面舵一杯〜な今の私です。

考えることは疲れるけれども、考えることをやめて娯楽や快楽にひた走るだけの生活は何一つとして満たされたような心地にならないから結局はウジウジ考えちゃうのよね。このマスに戻ると。原点回帰ともいうのかもしれない。でもこの行為基言動を自分が自然と時間を割けるからこそ、あたしはあたしでいられるのだろうなぁとも思う。ほっとする。

傷ついたことも、誰かを傷つけたことも何もかもを無かったことにはできないから、自分の脳が受けたダメージを、私が生きた記憶としてそれらが刻まれているうちは、忘れずに背負って生きていこうとも思う。わざわざ書き記すまでのことではなかったかもしれないが。

変われないし変わらない、人に対してそう思うときほど、じぶんだってそうじゃんってブーメランが跳ね返っているのである。分かってんだよなぁ。わかってんだけどなぁ、って。多分私ではない誰かもそう思いながら生きているんだろうなぁって。

自他ともに言えることだとは思うが、変わるには、変えたいと思った言動一つ一つを習慣化させるしかない、と私はそう思う。

煮凝りみたいなものを柔らかくほぐせるようになれる日はくるのだろうか。その時の私って、今よりもしあわせなのかな。しあわせなんだろうな。人のことを傷つけない人になれているほうが断然いいものな。

少しのネガティヴと煮凝りと螺旋階段みたいな思考がぐるぐるしちゃうンゴ。人間だなもねぇ。 浅葱を

〜完〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?