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【優しいゴミ箱】めいっぱい詰め込む

 火曜日は燃えるゴミの日だ。
 明日の朝、ゴミ袋にまとめたゴミを集積所に出す。家のあちこちに配置されている小ぶりなゴミ箱からゴミを集め、キッチンにある一番大きなゴミ箱にセットされた袋にまとめる。
 ゴミ箱から袋を取り外す。だいたい八分目というところだ。まだ余裕がある。私はがっかりする。そして落ち着かなくなる。もっと限界までいっぱいにしなければ。焦燥感に駆られ、私はあちこちをうろつく。集め終わったはずのゴミ箱をまた覗きこみ、キッチンの戸棚を開け、小物を収納する箱のフタを開けてみる。そうだ、シュレッダーにかけて捨てようと思っていた書類があった。
 早速シュレッダーにかけられた書類を追加され、ゴミ袋は丸々と太って、そして開口部からはゴミがはみ出しそうになる。
 それを見て私は安堵する。
 一方の手でゴミ袋の開口部をしっかりと握り、もう一方の手でゆっくりとゴミをつぶしながら押し込んでいく。そして、開口部を縛る余裕が生まれると、袋の口を千切れない程度に引き延ばしつつ何とか縛る。
 私は満足のため息をつきながら、その、ぬいぐるみのように丸々と肥えたゴミ袋をしばし眺める。その袋が容量の限界に近ければ近いほど、達成感は高まり満足感は増す。

 火曜日は燃えるゴミの日だ。
 昨日の夜、ゴミ袋にまとめたゴミを持って集積所に向かう。
 私の持っているゴミ袋は丸々と太って持ち重りがするほどだが、一方で、中身が半分も入っていない、やせ細っていかにも軽そうなゴミ袋もいくつか見られる。
 このゴミ集積所は、私が住む集合住宅専用だ。ほとんど同じ間取りで、たぶん同じ人数で生活しているはずなのに、実に様々な姿のゴミ袋が置かれている。
 レジ袋の中の商品のパッケージの中身を抜き取って、その口を縛ってそのまま出したような物、家庭用ゴミ袋の最大サイズのものにゴミが半分も入っておらず、元気なくくったりとうな垂れている物。そして、私の持っている物のように、目いっぱい詰め込まれてはち切れそうな物。
 そういえば、何年もこの集積所にゴミを出し続けているのに、こんなにまじまじとゴミ袋を眺めたことはなかった。自治体指定の同じゴミ袋だけれど、その姿にもずいぶん個性が出るものだと、妙に感心する。そして、ふとこんな思いが浮かんでいることに気が付いた。

 もっと入るのにもったいない。
 あの袋はまだ頑張れる。

 そして、更に気が付いた。
 私はこれまで何年もこの場所にゴミ袋を出し続けてきたが、いつも中身がいっぱいに詰まっていた。中身が半分程度のものなど、出した記憶がない。

 私はある光景を思い出していた。
 小学校の頃だったと思う。
 私の母は、物を大事にした。彼女は何でも無駄なく効率的に使った。また、それが上手だった。
 古新聞の束を両手で持ち、トントンッと小気味よく床に打ち付け揃える。そして、向きを反転させて重ねていく。それは均等な高さで美しい層を作り、天面は安定した水平になる。古新聞の山はおとなしく彼女が渡した紐に巻かれる。更に彼女はその山に肘をあてて新聞の間に残る空気を静かに押し出しつつ紐を締め付ける。それは無理がなく心地よい密着なので、新聞は反発せず、まるで一塊のように一体感をもつ。なので、天面で十字を描いた紐の両端を持ちつつひっくり返してその面をそこにするのも塊を転がすように容易に見える。そして、さっきまで底面だった面に真横に渡された紐に、側面を通った紐を絡ませて、天面と側面の交点で結ぶ。その結び目は指でちょうどつまめる程度の小ささで無駄がない。持ち上げるために、中央の十字付近の紐に指を入れようとすると何とか入る程度に締まっており、その締まり具合のおかげで、新聞紙が一塊になって持ち上げやすく軽くさえ感じる。
 私はその一連の無駄のない動作を美しいと感じた。その新聞があるべき位置に整然と整えられ、一塊になっていく様子が好ましかった。まるでもともと一つの物体だったかのように、紐が必要十分に引っ張られ古新聞と一体になる様子も心地よかった。
 「もったいない」と彼女は言い、新聞がしっかりとまとまるように十分に縛り上げ、最小限の小ささで結び紐を無駄にしなかった。「まだ入る」と言って衣類を合理的に並べ空気を押し出して無理なく無駄なく風呂敷にまとめた。
 無駄なく手早く効率よく。それは彼女の行動指針であったが、彼女自身が楽をするためのものではなかった。限界まで頑張り、世の中の役に立つためだった。役に立つことで社会で生きていけると、居場所が確保できると、彼女は信じて実行してきた。彼女が必死で習得してきたそれらの知恵を子どもに身に着けさせ、社会で生きていけるように育てるのが、親の務めで私の幸せにつながるのだと、彼女は思っていたのだろう。

 火曜日は燃えるゴミの日だ。
 明日の朝、ゴミ袋にまとめたゴミを集積所に出す。家のあちこちに配置されている小ぶりなゴミ箱からゴミを集め、キッチンにある一番大きなゴミ箱にセットされた袋にまとめる。
 ゴミ箱から袋を取り外す。だいたい八分目というところだ。まだ余裕がある。私はがっかりする。そして落ち着かなくなる。ゴミ袋は自立するものの、その開口部付近は力なくうな垂れている。

 次のゴミの日までの数日待とうか。
 いつもの私ならそうしていただろう。
 しかしその日、ふと思いついて、私はその口を結んでみた。
 少し、もったいないような気がしたが、同時になんだかホッとした。肩から力が抜けるような気がした。

 もったいないって、いったい何がどれほどもったいないのだろう。

 物を大切にすることに反対するつもりはない。大切な文化だ。だからと言って、必ず守らなければならない、守らないのは罪だとはいえないのではないか。
 物を限界まで使い切る、それは良いことだとは思うが、そこまで使い切らなかった場合に、責められるものではないのではないか。

 もったいないって、何がだろう。

 袋を使わずに捨てたわけではない。確かにまだ入るかもしれないが、八分目までは使っている。十分使ったと言えるのではないだろうか。このまま次の燃えるゴミの日までここに置いて、通るたびに邪魔だなと感じるのが心地の良いことだろうか。その不快感に耐えることは、私が本当に望んでいることだろうか。これほど、罪悪感を感じる必要があることだろうか。

 これまで、何でも限界まで我慢して頑張ってきた自分が重なった。それは、いいことだと思っていた。おかげで、成績はよかった。先生にも気に入られた。でも、いつも張りつめていた。気持ちに余裕がなかった。先生に注意されても平気で、授業中でものびのびと好き勝手に発言する同級生に心底腹を立てた。子どもの頃から私は肩こりで、参観会には胃腸の調子を壊した。そして、社会人になってそれは悪化した。私はひどい肩凝りと頭痛、原因不明の胃腸の不調に悩まされた。母も、仕事で無理をしては胃腸を壊していた。

 我慢し目いっぱい頑張ることは、彼女を助けてきたし、私もそのおかげで周囲の信頼を得たし成績もそれなりによかった。大学に進学し安定した会社員生活を送ることができている。でも、それはもう十分なのではないだろうか。

 もう、彼らは役目を果たしたのではないだろうか。
 今の私には、もう必要ないのではないだろうか。
 彼らは、母や私の幸せのための手段だったはずだ。私たちがそれにあまりに馴染み同化してしまっていたのかもしれない。そのことで息苦しさを感じているなら、私たちは目的を思い出して、彼らと距離をおくことがお互いのためなのではないだろうか。
 もう、彼らには休んでもらっていいのではないだろうか。 
 たとえば、これまで守ってくれたことに心からありがとうと言って、そっとゴミ箱に収めるように。

 そして私は、まだ、余裕がある状態でゴミ袋の口を縛ってみたのだった。
 なにやらそこはかとなく罪悪感も感じた。また、なんとはない悲しさが付きまとったが、同時に安堵もした。もう、頑張らなくてもいいい。ホッとした自分の気持ちを優先していい。そんな気がした。肩から力が抜けた。冷たかった手にあたたかく血が通う気がした。呼吸が楽になった。

 翌朝、持ち上げたゴミ袋は思いのほか軽やかで、私の足取りも軽くなるようだった。

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