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おふみのひみつ~『畔倉重四郎』より~


壱 共有

 いつも空虚でうすら寒い日々。その生活に疑問を感じることもないくらいの常で「まあ、こんなものなのだろう」そう思いながら生きていた。
 体の弱い弟に温かいお菜が多いことも、近所の子らよりも早めに奉公に出されることを知ったときも、驚きや恨みはなく、ただ「こんなものだろう」という何とも言えない、冷ややかな気持ちが波紋のように広がっていったのを覚えている。考える間もなく承諾すると、さすがに母は「すまねえなあ。ふみに苦労かけて…すまねえな」と涙声で呟きながら私の手を握ったが、力は弱々しい。ほとんど綿の入っていない着物でも風邪ひとつ引かない丈夫な私と冷たい風に半時吹かれただけで寝込んでしまう弟とでは、大事に守るべきなのはどちらかなのか、子どもでもわかる。

 元禄15年(1702年)。私、ふみは8つで親元から離れた。

 最初に奉公に上がったところは小さな油屋だったが3年過ぎたあたりから、旦那様に意味なく触られるようになった。奉公人同士の噂話で聞いたことのある「妾奉公」という言葉が浮かんだものの、まだそんな年ではないし、そこまではしない。もし、力ずくで…となったら、思いきり騒いでやろうと決めていたが決定的なことはなく、すれ違った際や拭き掃除をしているとき、何気ない風で腕や腰のあたりを撫でられるだけ。同室の志の姉さんに相談してみたほうがいいだろうか。でも、これしきのことで、温かいご飯と風の吹き込まない住まいをなくしたら。「こんなものだ」そう思って、奉公に精を出すしかない。
 私が嫌がる素振りを見せなかったからなのか、旦那様の行為は段々と回数が増えて露骨になっていったように思う。せめてもの自衛として、なるべくひとりにならないように気を配り、時間があれば口うるさい女中頭のお玉さんの側に行って、手伝うことはないかついて回った。
「おや、急にやる気を出してどうしたんだい? 何か魂胆があるんじゃないだろうね?」
 お玉さんはそう訝しんだが、笑顔で「いい加減、お役に立たなきゃいけないと思いまして」と答えると、つっけんどんながら丁寧に仕込んでくれた。それでも旦那様に捕まってしまうことはあり、どうしたらいいものか途方に暮れていた。
 そんなある夜、隣の布団に入った志の姉さんが「おふみ、何かあったの?」と聞いてきたのだ。闇に溶けてしまいそうなほど小さいけれど、優しい声色に抗うことはできず、すべて溢れ出た。気づくと、体を起こして顔を覆いながら嗚咽が止まらなくなっていた。
 ひきつけのような激しい波がわずかにおさまると、姉さんが背中をとん、とんと優しく叩いていることに気づき、その鼓動に合わせるように体中を駆け巡っていたものが静かになっていく。
「……す、すいま、せん…あの」
「いいのよ。全部、出しちゃいなさい」
 涙につまりながら、自分が感じたことをすべて洗いざらい吐き出した。今後どうするのかはあんな風に優しく気遣ってくれ、まるで赤子をあやすように泣き止ませてくれた姉さんの言うことに従おう。もし、姉さんが「旦那様はやましいことなんてしてない。それはおふみを思ってのことなんだ」と言うのなら、そう信じよう。
「明後日の祭りに奉公人も行っていいと許しが出ていることは、知ってるわね?」
 すべてを聞き終えた姉さんは怒るでも慰めるでもなく、そんな頓珍漢なことを言い始めた。
「…はい。最近、景気がいいからたまには…と。おかみさんが気遣ってくださったとお玉さんからうかがいました」
「そのときに、逃げなさい」
「…え、でも…そんなこと」
「いいから。おかみさんも…旦那様の悪い癖にはほとほと困っておいででね。私から行けと言われたと、ここを訪ねるといいわ。別の奉公先を紹介してくれる」
「でも、お店やみなさんにご迷惑が…」
「ここに長くいる者はもう慣れっこよ。それに、おふみは器用ではないけれどきついことを言われてもめげない逞しさがあるし、気立てもいい。どこに行ってもやっていけるわ。まだ何も起こっていない、今、逃げたほうがいい。あんただけじゃなく、おかみさんのためにも」
 姉さんが私に握らせた小さな紙には寺の名前が書いてあった。寺社は別世界なんだと教えてくれたのは、志の姉さんだっただろうか。
「もっと早く気づいてやれなくて、ごめんね」
 薄い笑みを浮かべて私の頭を撫でる姉さんにしがみつくと、止まったはずの涙が溢れでた。今まで感じたことのない、胸の奥の温かさ。内側から温めてくれる小さな炎が灯ったようだった。どうしてこんなに手筈が整っているのか聞いてみたが、答えてはくれなかった。小さく首を左右に振り、「知らないほうがいい。ここのことは忘れて、新しい奉公先でしっかり勤めなさい」と言うだけ。

 明後日、志の姉さんに連れ出されるようにしてお店を後にした。
 一日かけて歩きまわり寺に辿りつくと、住職は何の事情も聞かず、ひと晩の休息と奉公先を紹介してくれた。奉公先が見つからなければ、お手伝いでも何でもして住まわせてもらわなければと覚悟していたのが、すんなり進んで拍子抜けしてしまう。私があまりに呆けた顔をしていたからか、奉公先はたまたま人を探しているところがあったと明かし、「運がいい子だ」とにこやかに笑った。

 その奉公先が相州神奈川脇本陣にある旅籠(はたご)屋「大黒屋」だった。
 下働きからの出直しとなったけれど、すでに掃除や賄いなど身の回りの雑事経験があったことと、お玉さんに仕込んでもらったことが功を奏した。とはいえ油屋とは桁違いの広さで、雑事の量も多い。骨身を惜しまず働かなければ、到底、回らない。同室で同い年のそよちゃんと布団に入った後、他愛ない話をしても途中で眠ってしまうことがほとんどだった。
「ふみちゃんは本当に寝つきがいいのね。うちの妹みたい」
 翌朝、目覚めるとそよちゃんに笑いながらそう言われるまでがお決まり。きっと新しい環境に慣れるのに心身ともに疲れていたのだろう。でも、嫌ではなく、むしろ余計なことを考える間がないくらい働き、気づいたら眠りに落ちる日々にどこか心地よさすら感じていた。
 ひと月も過ぎると、寝る前におしゃべりできるくらいには慣れてきた。旅籠屋にやってくるお客様は幅広く、どんな人が来たかという話をするのが楽しみになった。中にはお駄賃として豆菓子をくれる人もいるので、みんな裏方よりもお客様に接することをやりたがる。一応、お客様に何かいただいた場合は女中頭のおけいさんに渡す決まりになっているけれど、豆菓子程度であれば告げずとも叱られることはない。
「そういえば、おきんさんが夕飯後にお客様の部屋に行っていたけれど、どうしたのかしら」
 ある夜、ふと疑問に思ったことを口に出してみると、そよちゃんは小さく頷いて、逆に聞いてきた。
「おきんさん、いつもよりちょっといい着物じゃなかった?」
「んー、そう言われると、そうだったかも。花があしらわれて華やいで見えた。どうして?」
「おきんさんは遊女なのよ」
「ゆうじょ?」
 ふふっと女っぽい笑みを浮かべたそよちゃんが耳打ちする。そういうお役目があることは何となく知ってはいたが、自分とは無縁のものと思い込んでいた。
「ふみちゃんったら、そんなたまげること?」
「だって…じゃあ、ここにいる人、みんな?」
「んー違うと思うわ。うちは上客に限ってるみたいだし」
 知らず、ほぅっと息が漏れた。おきんさんは女衆の中でもべっぴんさんだ。だから、選ばれたに違いない。低い鼻にそばかすもある私には、やはり無縁に違いない。
「もし、遊女にって言われたらどうする?」
 いたずらを仕掛けるような目をしたそよちゃんが顔を覗き込んでくる。その何ともいえない妖しさに息を飲んでしまう。
「言われるのはそよちゃんよ。べっぴんさんだもの」
「何言ってんの。嫌よー」
 きゃらきゃらと笑う様は嫌がっているようには見えない。そよちゃんの笑いにつられ、私も「そうだよね」と笑った。
 大黒屋での日々は大変でもあり楽しくもあった。奉公人の数が多いからか、旦那様と直接関わることはほぼなく、そよちゃんや同じ下働きでひとつ上の文吉さんら、先輩方、女中頭と共に日々を終えることで手一杯。このまま続くものだと思っていた。

 大黒屋に来て4年が過ぎ15才になろうとしていたとき、旦那様が急死した。
 切り盛り自体は番頭の九助さんや女中頭らがいるので何とかなるが、大黒柱を失った衝撃は大きい。跡取りとなる子がいなかったため九助さんとおかみさんとで舵を取るも客足は減り始めているのが、私にもわかった。言いようのない不安が半紙に薄墨が染みこむように広がっていく。
 翌年、私とそよちゃんは遊女も兼ねることになった。そよちゃんは告げられると顔面蒼白で身動きできずにいたが、九助さんの「うちはいい客筋だから大丈夫」という納得できるようなできないような言葉に小さく頷いた。
「おふみは、どうだい?」
「…はい。お引き受けします」
 その頃には大黒屋でも遊女が増えており、「こんなものだ」という諦めとも違う、妙に合点がいく思いだった。その夜、そよちゃんは一言も口をきくことなく眠りについた。
 私とそよちゃんの最初の夜伽の客は、うちを常宿にしているおなじみさんだった。おそらく九助さんなりの気遣いだったのだろう。緊張や怖さがないといったら嘘になるけれど、幼い頃から体に広がり続けた「こんなものだ」という思いが強く、滞りなく終えた。ひとつ感心したのは、人の体はなんと温かいのだろうということだった。
 部屋に戻ると、闇の中でそよちゃんが布団の上に座り込んだまま、じっとしているのがぼんやり見えた。
「そよちゃん? どうしたの?」
「……私、絶対、このままじゃいないわ」
「え? どういうこと?」
「何でもない。寝ましょ」
 寝る間際のおしゃべりはなくなり、そよちゃんはよりいい客を捕まえるために変わった。裏方のことは放り出し、番頭さんや男衆に上客を自分に回すよう言い含め、自ら迎えに行くこともある。女中頭のおけいさんはいい顔をしなかったが、どこ吹く風。すみませーんと謝りながら改めることはない。その甲斐あって、そよちゃんを指名する客も現れだしていた。
 私はというと、これまでとあまり変わらない日々。ひとつ役目が加わったという程度の認識しかなく、むしろ、いつも通り掃除をしたり賄いや給仕の手伝いをすることで落ちついていたのだと思う。
 春の終わり頃、おかみさんと九助さん、おきんさん、おかねさんが、旦那様の遺言「身延山に骨を埋めてほしい」という願いを叶えるべく旅立った。身延山は富士、大山参りと並んで参詣が盛んなところ。もっと早く叶えたかったのだろうが、主亡き後、商いが落ちつくまではどうにもならなかったに違いない。
 余裕をもって考えても半月ほどで戻ってくると思っていたものの、中々帰ってこず、便りもない。風の噂では富士川の辺りでは悪天候が続いているらしい。無理に動くのは危険であるため、仕方ない。待つしかない。そう言いながら、一刻も早く無事に戻られることを祈っていた。
 結局、おかみさんたちが帰ってきたのはひと月以上経ってからだった。無事な姿に、みんな安堵し、久しぶりに宿の空気が明るくなった。が、おかみさんの様子がどこかおかしい。空を見て何か考え事をしていているかと思えば、店前に顔を出してきょろきょろしている。まるで、誰かが来るのを待っているようだった。
「お知り合いの方でもおいでになるんですか?」
 店前の路にいるおかみさんに思わず声をかけると、何故だか頬を染めて少女のように微笑み、「何でもないの。邪魔しちゃ悪いわね」と言い戻って行く。おかみさんは否定されたけれど、やっぱりどなたか親しい方がいらっしゃる予定があるんだろうと思いつつ、なぜ、それを隠そうとするのか不思議でもあった。
 何となく府に落ちないまま台所で水を飲んでいると、おきんさんが顔を出した。
「あら、おふみ。お客さんにいただいた豆菓子あるわよ」
「おきんさんったら、もう私は子どもじゃありません」
「ふふふ、それもそうね」
 おきんさんがおかみさんと一緒に身延山へ行ったことを思い出し、何か変わったことはなかったか聞いてみる。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「いえ…最近、おかみさんの様子がいつもと違う気がして。上の空というか、先ほども店の前で通りを見ておいでだったので、どなたかいらっしゃるのかと思ったんですが、何でもないと言われて」
「そう。まあ、そのうちわかることだけど。実は富士川の宿で財布が見当たらなくなってね。たまたま居合わせた身なりのいい方が金子(きんす)を貸してくださったのよ」
「え?」
「それも20両(約200万円)」
「えっ! 見知らぬ人が20両ですか…あ、お知り合いだったとか?」
「ううん。九助さんがここの屋号や場所を書いていたから、知り合いではないと思うわ。で、その方が貸した金子を受け取りにいらっしゃる約束なの。おかみさんといい仲になったようだったから……あ、余計なことをしゃべってしまったわね。このことは」
「はい。もちろんです。何も言いません」
「おふみなら安心だわ」
 おきんさんと笑い合いながらも、やっぱりあの表情は金子を借りた人ではなく、恋しい人を待ち焦がれているものなのだろう。気にはなったが、私が詮索しても仕方ないと思い直し、自分のすべきことに精をだすよう努めた。
 ふた月後、おかみさんが何を待っていたのか明らかになった。
 昼過ぎ、門の前に葉が落ちていたため箒で掃いていると、声をかけられた。
「こちら、大黒屋さんで間違いないでしょうか?」
 低くやわらかな声に、気の早いお客さんかと思い顔を上げると、色白で役者のような端正な顔立ちの二十代後半と見られる男がひとりで立っている。
「え…あ、はい。大黒屋でございます。あの…」
「よかった。九助殿にこの紙を渡して、重四郎が来たと伝えていただけますか?」
 美しい所作で懐から折りたたんだ紙を取り出すと、にこりと笑う。ああ、おかみさんが頬を染めるほど待ち望んでいたのはこの方だ。何の根拠もなく、そう確信していた。
「はい。中へどうぞ」
「いえ。ここで待つことにします」
 番頭である九助さんを通さずには中に入ろうとしない、誠実というか堅実な態度に感心してしまった。すぐに戻ることを伝え、玄関へと急ぐ。ちらりと振り返ると、昼の日差しと相まってその方のいる場所だけ光って見えた。
 それからは早かった。九助さんに紙を渡し、重四郎という人が来ていることを告げると、大急ぎで迎えに行った。どこからか見ていたのであろうおかみさんも下に駆け降り、目をうるませて感激している。その日、宴会でもてなし泊まっていただくことになった。無事、金子も返したことだし、これで終わり。そうなると思っていた。
 翌日、朝飯の片付けをしているとき、おかみさんから話があるので集まるよう女中頭のおけいさんに呼ばれる。何があったのか聞いても、おけいさんもわからず首をかしげたままだ。奉公人だけじゃなく、九助さんや板前のげんさんなど全員が広間に集まると、おかみさんと重四郎さんがすっと前に立った。若くたおやかなおかみさんと重四郎さんが並んでいる姿は絵師が描いたように美しい。
「忙しい時分にすまないね。みんなに、大黒屋の二代目を紹介しておかなきゃいけないと思ってね」
「畔倉(あぜくら)重四郎、改め二代目大黒屋重兵衛を継ぐ運びとなりました。みんなには迷惑をかけることもあると思うが、先代に恥じぬよう努めるので力を貸してほしい。よろしく頼む」
 重四郎、いや、二代目重兵衛となった旦那様は私たちに向かって、深々と頭を下げた。突然のことに驚き、ざわついていた空気は一変し沈黙に包まれる。先代はいかにも「主」という風情で頼もしい半面、近寄りがたい存在でもあった。だからこそ、余計に主が奉公人たちに頭を下げるという光景が信じられなかった。

 ひと晩で大黒屋の主になったこの畔倉重四郎こそ、私の運命を変えた男だ。

 重四郎が二代目になることには、多くの奉公人が批判的だった。何度か九助さんがおかみさんに「目を覚ましたほうがいいですよ」とやめさせようとしているのを耳にしたし、いなくなる者も出た。その中にそよちゃんもいた。しかし、おきんさんによると、そよちゃんは二代目の件とは関係なく、なじみの客から「あんたなら遊郭で稼げる」と誘われて、辞め時を待っていたので渡りに舟だったのだろうとのこと。

 旦那様がみんなに一目置かれるようになるまで、さほど時はかからなかった。読み書き、算術ができるうえ、交渉もうまく、客や役人から理不尽なことを言われてもにこやかに、しかし、一歩も引くことなく対峙する様は見事としか言いようがない。何より、誰よりも早く起きてこれまでの台帳に目を通すなど驕らない姿勢が信頼されていったのだと思う。
 そんなとき、もらい風邪で熱が出てしまい、思うように動かない日があった。ふらつきながらも起き上がることはできるため、寝ているわけにはいかない。まわりも「大丈夫?」とは言うものの、それくらいで休むわけないという空気だ。私自身、どうしてもしんどくなったら、昼時に少し横にならせてもらえればいいと思っていた。が、異変に気づいた旦那様は私の額に手を当てて熱があることを確認すると、躊躇なく告げる。
「おふみ、今日は休め」
 その場にはおけいさんをはじめとする古参の奉公人、手代となった文吉さんらがおり、疑問の声があがる。
「いえ、大丈夫です。そこまでの」
「だめだ。今日は客前に出ることはもちろん、裏で働くことも禁じる。即刻、布団に戻り治すことに専念するんだ」
 周囲からは「何でおふみだけ」「あれしきで休むなんて」という不満の声が広がり始める。起き上がれないほどの高熱や大怪我ならまだしも、たかが風邪の不調で休んでいては宿が回らなくなる。平気だ、休めと揉めていると、誰かが伝えに行ったのだろう、九助さんが駆け込んできた。
「旦那様、おふみに休みを許したというのは本当ですか?」
 細目をさらに吊り上げ、旦那様を問いただす様は、大黒屋を回しているのは自分だという矜持が表れていた。
「ああ。だが、ちっと違う。許したのではなく、休めと命じたんだ。問題か?」
「当然です。おふみは確かに風邪を引いてるかもしれませんが、寝込むほどではありません。お優しいのは結構ですが、その程度でいちいち休ませていてはみなに休み癖がつきます。仕事にも支障が」
「おふみのために言ってるのではない」
「は?」
「大黒屋にとって、最も大事なのは誰だと思う?」
 旦那様の問いに誰も答えない。九助さんもどう答えるのが正解か思案しているようだった。それは主である旦那様です、と答えさせたいのか。その主が命じたことには文句をつけるな。そういう意味か。九助さんの苦々しい表情からは、そんな言葉が溢れている。
「お客様だ。異論はあるか?」
「は?……え、ええ。それはその通りです。ですが、それと」
「おふみが指先を怪我したってなら、そんなもん唾つけておけば平気だと言うが、風邪は移るもんだ。しかも、おふみは客と最も接する役目を担っている。もし、客がうちを出た後で具合が悪くなったら、あそこで病を移されたとでも言いふらすかもしれん」
「はぁ…それは…ですが」
「それに、例え移さなかったとしても、顔色が悪くふらついている女がいる宿と、いつも血色がよくきびきび動いている女がいる宿とでは、どっちがいい? 聞くまでもない。ここは遊郭じゃねえんだ。客は旅で疲れている。その疲れを癒す側が疲れてちゃあ、ゆっくりもできんだろ」
「……一理、ありますが。では、客前には出さず」
「だめだ。おふみは裏に回ったからといって休むような玉じゃない。むしろ動きまわるに違いない。それで他の奉公人に移ったらどうする? そうやってみんなで移し合って、具合の悪そうな者たちばかりいる宿に泊まりたいと思うか? 大黒屋は木賃宿(きちんやど)ではなく、旅籠屋であろう。客は癒されると思うから、安くない金子を払って泊まるのだ」
 疑問の声も不満の声も消え失せ、九助さんもただ旦那様を見つめている。
「無論、おふみだけではない。今までどうだったのかは知らんが、これからは体調がすぐれない、特に風邪などの流行り病の疑いがあるときは休め。いや、厠以外で部屋から出ることを禁じる。九助」
「……はい」
「大黒屋での仕事の回し方や必要なつき合いについてはお前さんのほうが詳しい。それは今後も教えてもらいたい。だが、定住せず旅から旅への生活を送っていた俺には、たまの贅沢で旅籠屋に泊まり、ああ、ようやく温かい飯と風呂、女に癒される…それを何より楽しみにする気持ちが身に染みてわかる。それなのに肝心の相手が顔色も悪く覇気がないんじゃ、癒されるどころかこっちが悪いことしてるような気になるもんだ。それは避けたい。みんなも、おふみだけ…と思うと腹も立つだろう。だが、自分が具合悪いときに気兼ねなく休んで体を治すことに専念できると思えば、むしろ安心じゃないか? おふみ」
「…は、はい」
「もし、誰かが同じように熱を出したら」
「その人の分も働きます!」
 旦那様が言い終える前に答えていた。そのくらい、うれしかったのだ。私の断言に旦那様や奉公人たちから笑いが起きる。
「おふみ、今日はゆっくり休みなさい。その代わり、私が熱出したときは頼むからね」
 最初に諾の表明をしたのは、おきんさんだった。大黒屋で人気の遊女でもあるおきんさんが認めたことで、まわりも「そうだな。これで休めると思えばいいか」「まあ、客や俺らに移されたらたまらんし」と話し始め、最後には九助さんが「早く寝ろ」と不機嫌そうに告げた。
 その日、布団に入ってから涙が止まらなかった。
 旦那様はすごい。何てお優しいのだろうか。九助さんと言い合いになってまで休ませてくれたことではない。無理して働くことがお客様や自分たちに不利益になることを説いた後で、「休んだほうがいい」ではなく「部屋から出ることを禁じる」という命令にしてくださったこと。もし、「しんどいだろうから」と私の身を案じた言葉だったのなら、最後まで「平気だ」と言い続けていたかもしれない。それを私のことではなく、大黒屋全体のこととして捉え、主として決めてくださったからこそ、ためらいなく休みを受け入れ、また、誰かが伏せているときは真っ先に働こうと心に決めることができた。
 単に甘い旦那なだけだろう。そう言われるかもしれないが違う。旦那様は手を抜いている者やズルをしている者を何故だか素早く見分け、叱責した。酔って暴れる客のあしらい方も見事だった。武術の心得があるとしか思えない身のこなしを目の当たりにしているため、怒鳴らず淡々と叱るだけでも効果覿面だ。
 さらに周辺の旅籠屋や土産屋などとも連携がとりやすいよう路を整備したり、連絡網を作り宿にあぶれた客を回すことも行っていった。一年も経つと、町を守る要ともいえる五人組に打診されるほど信頼を得たのだが、顔色ひとつ変えず「先代あってこその大黒屋。そのようなお役目をいただくのはおそれ多い」と丁重に断り、さらに株をあげる。いつしか「神奈川脇本陣の生き神様」と呼ばれるようになっていた。
 私もどうにか旦那様のお役に立ちたい。旦那様の望む宿にしたい。その一念で、まずは繕いものから始めることにした。遊女たちの夜伽用の着物を集めて、ほつれている箇所をただ縫うだけなので見違えるほどきれいになることはないが、少なくとも「手入れを欠かさない」印象になるに違いない。みんな夜伽以外にも炊事や掃除、洗濯などの雑事も抱え忙しいため、喜ばれた。
「自分のだけじゃなく、みんなのを繕うなんておふみも人がいいわね」
 昼時、暇を見つけて裁縫をしていると、おきんさんに話しかけられた。
「おきんさんの終わってますよ。少しでもお役に立ちたくて…それに、例え華美ではなくともきちんと手入れが行き届いていれば、印象がよくなると思って」
「もう、仕方ないわね」
 そう言うと、おきんさんは手早く縫い始めた。縫い目の美しさに見惚れていると、にこっと笑い「実は得意なのよ」と言って、どんどん仕上げていく。その日からみんなが起きる前や昼休み、寝る前、一緒に繕いものをすることになった。すると、早朝に女中頭のおけいさんが加わり、昼には下働きの者たち、手先が器用な文吉さんも休憩時に手伝ってくれた。
 女衆が着物や掃除に気を配ると、男衆は襖の立てつけや廊下、階段の補修を自らし始めた。そうした活気は宿全体に表れるのだろう。客が増え始める。それも「人に薦められて」と大黒屋をめざして来る客が増えていた。客が増えていることが周囲に伝わると仕入れの品がよくなっていく。旦那様の人柄と金払いのよさもあって、まわりから疎まれることもなくまさに順風満帆。誰もが旦那様についていけば間違いない。そう思っていた。

 二代目大黒屋重兵衛になってから3年目の秋。朝からどんよりとした雲が覆い、早くも冬の気配を感じるような肌寒さを感じる日、それは起こった。
 夕飯給仕も終わり、片付けと夜伽の客を残すばかりとなった夜五つ半(21時)、初会の客であるお侍さんに頼まれた酒を用意するべく部屋を出たところで、旦那様に呼ばれ、下に降りて行った。
「何でございましょう?」
「ああ、おふみ。今夜の客は初会の侍だったな?」
「はい。今、お酒を頼まれましたので」
「その客は怪我をしていなかったか?」
「左手と左の足に包帯を巻いておいででした」
「そうか。つい今しがたなじみの客が来たから、おふみにはそっちをお願いしたいのだが」
「え? でも」
「やはりなじみ客を大事にしたくてな。おふみにお願いできたら、安心なんだが」
「旦那様……はい、わかりました」
「ありがとうよ。客はこの奥の間にいらっしゃるから。じゃあ、俺は2階の侍に事情を話してくる。当分の間、誰も2階には来ないよう伝えてくれるか?」
「かしこまりました。みんなに伝えます」
 おけいさんと九助さんに旦那様の言伝を伝えると、おなじみさんが待っている部屋に向かう。夜伽にはもう慣れていたが、その日はなぜかうれしかった。旦那様が大事にしたいお客様を任されたこと、あの手負いのお侍さんと揉めたときのことを考えて、みんなを2階に近づかせないこと。胸の奥が温かく、誇らしい気持ちで一杯だった。
 夜伽を終え部屋に戻るとき、おけいさんとおきんさんが小声で話しているのに遭遇した。
「どうされたんですか?」
「ああ、おふみ。終わったのかい? ご苦労さん。いえね、今日、役人がやって来て、藤沢の千本杉で何やら人斬りが出たから、この辺一帯を九つ(24時)くらいに見分すると言ったらしいんだよ」
 おけいさんはしかめ面をしながら言う。
「まだ捕まってないということよね。怖いわね」
「そんなことが……でも、大丈夫ですよ。大黒屋には、地元の生き神様と言われた旦那様がいらっしゃるんですから、そんな人斬りなんて近寄れっこないです」
 不安気なおきんさんを元気づけたい気持ちもあり、そう言うと、2人は顔を見合わせて笑う。
「え? 何ですか? そんなにおかしなこと言いました?」
「ううん。おふみは、旦那様旦那様ね」
「え?」
「まあ、気持ちはわからないでもないけど。端正なお顔立ちにすらりとしたいで立ち、それに合わぬ豪胆さもお持ちですからね」
「き気持ちって。何のことですか? 旦那様とおかみさんは、まさに美男美女でこれ以上ないくらいお似合いで」
「ふふふ。そう慌てなくてもいいわよ。おふみに横恋慕するつもりがないのはわかってるから。ただ…そうね、たまには文吉のことも思い出してあげたらどうかしら」
「文吉さん? え? どうして、文吉さんの名が?」
 予想外のことを言われきょとんとしていると、2人はまた顔を見合わせて笑っている。私の反応を楽しんでいるのだ。
「も、もう! おけいさんもおきんさんもひどい! からかっているんですね!」
「あーははははは、そうじゃないよ、そうじゃないけど」
「うふふふふ、おふみはまだまだね」
「…もう、知りません!」
 そのまま部屋に戻る気になれず、外に出た。
 2人にからかわれて火照った顔に夜の冷たい空気が心地いい。
 旦那様は素晴らしく、信頼も尊敬もしていることは確かだが、そんな、横恋慕だなんて考えたこともない。そう思うと、なぜかおかみさんと仲睦まじく並んでいる姿が思い浮かぶ。理想の夫婦として憧れているだけだ。
 今夜は月明かりもない。闇に包まれてはいるが、目が慣れてくればぼんやりと見える。井戸の冷たい水で顔を洗えばスッキリするかもしれない。歩き慣れた場所とはいえ、転ばぬようゆっくり歩を進めていると、井戸付近がほのかに明るい。誰かが枝に提灯をかけているのだ。こんな時間にどうしたんだろうと思い、近づいて行った。
「あの…」
「誰だっ」
 思いもよらない声の低さと鋭さ。冷たい刃のように体を射貫き、束の間、息すらできずにいた。提灯の明かりに照らされ闇に浮き出ていたのは、血走った目をつり上げ、口を歪ませた怖ろしい形相の旦那様だった。
「だ…旦那、様? こんなところで、どう、されたんですか」
「……あ、ああ、おふみか。驚かせてすまない。実は藤沢のほうで飛脚を襲った男がこの辺に潜んでいるのではないかと役人から聞いて」
「え…ええ……こ九つ、に見分をするとか…」
「もう知れてるか。用心のため見回りをしていたら、足を滑らせて着物を汚してしまったんだ。女房のおときに見つかったら、大黒屋の旦那がみっともないと小言を言われかねんし、余計な心配をかけるから、こっそり洗ってただけだ。情けないところを見られてしまったな」
「そ…う、なんですね」
 視線を落とすと、旦那様の着物は確かに汚れていた。泥のようにも見えたが、明かりに照らされた一部は赤黒い。泥ならば茶色や黒っぽいはずだ。
「おふみは、どうしてここに?」
 私の視線に気づいた旦那様は枝にかけていた提灯を持ち上げ、位置を変える。明かりが動いた刹那、にこやかな旦那様の顔が照らされる。能面のようなゾッとする微笑み。目に感情が宿っていないのだ。
「あ……いえ……ちょっと、空気に当たろうとしただけで……もう、戻ります」
 急に駆け出すのは不自然すぎる。最初はゆっくり歩き、少しずつ足を速めていった。あの汚れは泥なんかじゃない。あれは、おそらく血だ。転んだときにどこか怪我をしたのだろうか。それならば、そう言うはず。第一、裏井戸なんかでこそこそ洗う必要はない。隠さねばならない痕なのか。
 部屋に戻ると、心臓が早鐘のように打ち指先がガタガタと震え始める。その震えは腕、肩と広がり、自分で抱きとめるほかなかった。
 九つ過ぎに役人が来て、ひとりずつ見分を行ったが何事もなく終わった。周辺の宿や店も同様で、結局、男はおろか手がかりになるようなものは何も見つからなかったという。
 翌日の夕飯時、旦那様から藤沢千本杉で起こった飛脚殺しはまだ見つかっていないから、いつも以上に気を付けるように。何か異変があれば、即、教えてほしいとの話があった。みんなが旦那様のほうを向いている中、あの夜、提灯の明かりに照らされた血走った怖ろしい目と能面のような笑みが浮かび、うつむいたまま顔を上げることはできなかった。
 誰か、おきんさんにでも相談したほうがいいのだろうか。でも、見間違いかもしれない。仮に誰かの血だったとしても、旦那様が訳もなく人と争うとは思えない。何かよんどころない事情があるに違いない。
「おふみ」
「……旦那様」
 考えても詮ないことをぐるぐる考えていると、肩を叩かれた。思わず下を向いてしまう。
「明日、なじみの客が来るんだ。おふみに頼めるか?」
「私…でいいんですか?」
「もちろんだ。おふみに頼みたい」
 旦那様は私の顔を覗き込むと、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべた。
「…はい」
 旦那様の目は血走ってはいないが、どこか違う。主と奉公人よりも近いが、仲間ではない。秘密を共有した者。そんな言葉が浮かんだけれど、小さく首を振った。あの夜、見たことは勘違いだったのだ。月もない闇の中、いくら提灯の明かりがあるとはいえ、すべてはぼんやりとしかわからない。着物の汚れを見たのは寸の間。本当に、わずかな疑いもなく血の痕だったと言えるのか? そう問われれば、否と答えるほかない。もう忘れよう。

 数日後、川べりで飛脚殺しをしたと思われる男の死骸が発見された。盗んだはずの金子を持っていないことから、仲間割れをしたのだろうという噂だ。その男は左手と左足に怪我をしていたという。


弐 露呈

 日常を取り戻した大黒屋は客足が途絶えることもなく、毎日があわただしく過ぎていく。
 最初こそ旦那様のちょっとした表情や言動が気になっていたが、日々の雑事に流されていると、あの夜、見たことは夢だったように思えてきた。そうだ。悪夢を見ただけだ。獏に食わせて忘れるのが一番。

 10月半ば、おきんさんがなじみ客の呉服屋の次男松二郎さんと祝言をあげることになった。遊女もしている自分を嫁にしてくれるとは思っていなかったので、もう年増になったことだし田舎に帰るつもりだと話していたら、相手から「もう少し待ってくれないだろうか」と言われたのだという。すっかり習慣になった繕いものをしながら聞き、驚きのあまり針で指を刺してしまうという失態を演じる。
「ちょっと、大丈夫? 血は」
「うーー大丈夫、です。おきんさん…おめでとうございます。でも寂しくなります」
「ふふふ。次男だから、呉服屋を継ぐわけじゃないの。向こうのご両親と相談して、ちょっと離れたところで小さな小間物屋をやることになったから、いつでも会えるのよ」
「おきんさん! 本当ですね? 二言はないですよ」
 小間物屋で扱うものは義家の呉服屋が取引しているところを紹介してもらい、古い着物の端切れも売るつもりだと、とても楽しそうに話すおきんさんは今まで見たことないくらい美しく輝いていた。
「そうだ。よかったら、私の着物、いる?」
「えっ! いいんですか?」
「もちろんよ。もう必要ないもの」
 翌日、旦那様からおきんさんは近々嫁に行くこと、祝言までの間は裏方と給仕のみを行うことを告げ、朝からめでたい空気に包まれた。

 おきんさんがいなくなった後は、さらに忙しくなり目まぐるしい日々となった。ひと月ほど過ぎ、ようやく落ちついてきた頃、ちょっとした騒ぎが起こる。
 銘々膳に湯づけと香の物を並べた遅い夕飯をおけいさん達と食べているところに、九助さんと文吉さんが「いや、すごいお方だ」と言いながら通りかかった。
「ちょっと、何がすごいんだい?」
 さっさと食べ終わり、白湯を飲んでいるおけいさんが2人に声をかければ、言いたくて仕方ないという面持ちの九助さんが報告し始める。
「今日、夕七つ(16時)くらいに、がたいのいい男たちが店先に押しかけてきてな。借りた金子を返さない野郎を丸裸にしてぶち殺そうとしたら逃げ出したので追いかけてる、ここに逃げ込んだのを見た者がいる、渡してくれって騒ぎ始めたんだ」
「え、そんなことがあったのかい! それで?」
「旦那が応対したんだが、あっぱれだった」
 九助さんによると、旦那様は貸した額が2分(約5万円)とわかると、1両(約10万円)を渡して男たちを帰したという。
「その逃げた男は、旦那の知り合いだったとか?」
「いやいや、男たちも驚いていたよ。旦那には関わりのない、博打打ちの風上にも置けない野郎のことなのに、どうしてって。そしたら旦那が、命を救えるなら安いものだ。お前たちもその男を殺したところで貸した金子が戻ってくるわけではなかろう。店先で騒がれるのも困る。これで勘弁してくれって説いてな。そりゃあ見事なもんだった。おまけに、その逃げた男を見つけると、もうこんなことはするな、真面目に働けと説教してから着物をあげたというんだから、本当に神様みたいなお方だ」
「……生き神様、ですもんね」
 ぼそっと呟いたのをおけいさんは聞き逃さず、にやにや笑いを浮かべる。
「本当に。こんなにいい旦那様、どこを探してもいません」
 私に続いて文吉さんが意気込んで言う。文吉さんは算術も得意らしく、最近では台帳を任されているらしい。
「前は、繕いものも手伝ってくれましたね」
「おふみちゃんより、うまいと思いますよ」
「違いない!」
 あはははは!と豪快なおけいさんの笑いで、夜のおしゃべりは幕を閉じた。
 その夜、布団に入るが中々寝付けない。先ほど聞いた話を思い出し、やっぱり旦那様はお優しい方だ。見知らぬ相手の命を助けるために、ぽんと1両払う人が他にいるだろうか。あの悪夢のことをおきんさんやおけいさんに相談しなくてよかった。信じてもらえないばかりか、大笑いされて恥をかくところだった。単なる夢だったのだ。そうに違いない。
「獏食え獏食え獏食え…」
 睡魔がやってくるまで、そう呟くのがすっかり癖になっていた。

 そんな騒ぎがあった数日後、旦那様の腹違いの兄だという人が訪ねてきた。
 旦那様とはずっと別れて暮らしていたが、女房に先立たれ、住まいも店も失った。もう死ぬしかないと思ったが、その前に腹違いとはいえ血を分けた弟の顔が見たくなり大黒屋にたどり着いた…と涙ながらに語ったという。私は人づてに聞いただけなので詳しくはわからないが、お茶を出したおけいさんによると、旦那様とはまったく似ておらずどんぐり眼のいかにも田舎者風情、よくいえば純朴そうな風貌だったらしい。おかみさんもいたく同情していたとのことだ。その人は三五郎といい、数日、泊まると出て行った。
 旦那様のことだから、てっきり大黒屋に住まわせて共に働くのかと思っていたため、意外だった。私が首を突っ込むことではないとわかってはいたが、どうにも気になり、文吉さんに聞いてみるも知らないの一言。
「何か気になることでも?」
「あ、いえ……てっきり、その三五郎さんもここで暮らすことになるかと思っていたから。お優しい旦那様なら、そうするかもしれないって思っただけです」
「なるほど。でも…腹違いとはいえ、弟の世話になり続けるというのは、気づまりなものだと思います。旦那様は、そうなることを避けたのかもしれません」
「そうですね。深いお考えのうえのことですよね。おかしなことを聞いてごめんなさい」
「とんでもない。おふみちゃんも、三五郎さんのことを気に掛けるなんて優しいです」
「そんなんじゃないんです……あ、引き止めてしまって、すみません。じゃあ」
 自分が優しさから気に掛けているのかは正直わからなかった。それでも、文吉さんの言ったことは至極まっとうで、旦那様もそう考えてのことだろうと思うようにした。

 私の小さな疑問は、しばらくして解消する。
 ある日の昼過ぎ、旦那様に呼ばれて部屋に向かうと、おかみさんとともに待っていたのだ。
「ああ、おふみ。うちの人がちょっと話があるから、そこに座っておくれよ」
「…はい。失礼します。あの……何か、しくじりでも?」
「いやいや、そうじゃないんだ。実は、おふみに縁談があってな」
「え?」
「ここに泊まったこともあるが、俺の腹違いの兄、三五郎と夫婦にならないか?」
 思ってもみない話に言葉が出てこない。口を半開きにして、旦那様とおかみさんの顔をじっと見返していた。
「おふみ? ちょっと、息してる?」
「……はっ、あ…いえ、あの…びっくり、してしまって」
「そりゃそうだな。話を聞いてほしいんだが…」
 旦那様は、兄上である三五郎さんが幼少期から不遇の目に遭っていたこと、ようやく女房を持ち義理の親がやっている店を共に盛り立て、さあ、これからというとき、事故で女房を亡くしてしまう。子どもがいなかったため、途方に暮れる間もなく店から追い出されたのだと明かした。生活を立て直せるよう、大家と話をつけて近くに住まいを借り小間物売りをやってみているが、どうにも力が入らない。女房ばかりか住まいも商いも一度に失い混乱していたのが、ひと息つけるようになったことで悲しみに襲われているのだろうと言う。
「ここに住んでもらうことも考えたが、それでは一時、楽になっても、人生を立て直すことにはつながらないと思ってな」
「…はい」
「おふみのように気働きのできる、朗らかな女房が側にいてくれたら、時間はかかっても、きっと新しく歩き出せると思う。身勝手なお願いかもしれん。だが、これまで離れて暮らしていたとはいえ、血を分けた兄だ。何とか立ち直って、前を向いて進んでほしい。そのためにおふみの力が必要だ。もちろん何かあったら相談に乗る。なあ、おとき?」
「はい。おふみはここで育ったんですよ。裏表のない、気持ちのいい子ですからね。きっと三五郎さんも昔のことなんて忘れます。いつでも頼っていいのよ」
 三五郎さんへの同情と自分がいることで少しでも心が安らぐならという気持ち、旦那様とおかみさんに頼りにされたことで思いは入り乱れた。
「……お受けします」
 そう答えると、私の家に文を出さなきゃいけない、祝言はいつくらいがいいかと話し始める旦那様とおかみさんに、まだ仕事があるので…と残し部屋を出た。
 急ぎの仕事などない。すぐに戻る気持ちになれなかったため、ぶらついていると井戸の近くに来ていた。あの日以来、ひとりで来るのは初めてだった。避けている意識はなかったが、やはり足が遠のいていたのだろう。新しい奉公人が入り、水汲みなどをすることが減ったのも事実だけれど、以前はちょっとひとりになりたいとき、ここで手や顔を洗って息抜きをしていたように思う。
「おふみちゃん?」
 じっと井戸を見つめていると、後ろから声がした。
「……文吉さん」
「水汲み?」
「ううん。ちょっと……私、嫁に行くことになりました」
「え? ずいぶん急ですね……どなたのところに?」
「実は、さっき旦那様からお話があったばかりで。だから、まだ内緒にしてくださいね。あの、三五郎さんです」
「あ、旦那様の兄上の……おふみちゃん、見初められたんですね」
「いえ、そうではありません。三五郎さんが新しく生き直すためには、側で支えてくれる人が必要で…私…と」
「ああ、なるほど。しかし、おふみちゃんは、いいんですか?」
「びっくりはしましたけれど。私なんかを必要としてくれるのならば…と思いました。旦那様もおかみさんも、いつでも相談に来ていいとおっしゃってくださいましたし」
「どうか、幸せになってください」
「……ありがとうございます。あの…前、飛脚殺しの男の死骸が見つかったことがありましたよね」
「え? ええ。川べりで見つかったとか」
「その川というのは……ここから、遠く離れたところなのでしょうか?」
「え?」
「あ、いえ。何でもないんです」
「……気にかかることがあるのなら、話してみてはどうですか? 話すだけでもすっきりしますよ」
「え、ええ……あの、夢…そう、私が見た悪夢なんですけど」
 旦那様ということは隠し、月のない夜、ここで鬼の形相をした男が足や着物を洗っているところを目撃し、その着物は赤黒く汚れていたと話してしまった。
「それだけなんです。笑っちゃいますよね。でも、その鬼が怖ろしくて……不気味で…何となく心に残ってしまって」
「ふむ。月明かりがないのに、顔が見えたんですね」
「ああ、枝に提灯がかかっていた……んじゃないかと…所詮、夢ですので」
「そうですね。辻褄が合わないのが夢ですから。確かに不気味な夢です。でも、吐き出したので、もう大丈夫です。鬼なんか気に留めず、幸せになることだけを考えてください」
「文吉さん……ありがとうございます」
 ここから離れて、新しい生活を始めるのは私にとってもいいことなのかもしれない。夢だと思い、気に留めないよう胸の奥の奥に閉じ込めても、ふとしたときに存在を主張し始める。

 年明け、私は三五郎さんの部屋で暮らすこととなった。三五郎さんとの縁談に対する親からの答えは「万事、お任せいたします」と簡潔なものだった。無論、旦那様が三五郎さんの人となりや生業について記したのだろうが、私の身を案じたり、経緯を気に掛けるものは一切なく、あの、空虚な思いが蘇った。
 初日は互いに余所々しく、これからやっていけるのかと不安にもなったが、数日も共に寝起きをすれば慣れてくるから不思議だ。明け六つ(6時)に起きて、三五郎さんは六つ半(7時)頃には小間物を積んだ荷を背負い、家を出る。それから私は家事全般をやり、時間を見つけては、三五郎さんが売り歩く爪楊枝や手鏡の整理などを行う。やがて、日が暮れた暮れ六つ(18時)過ぎ、方々を歩き回った三五郎さんが戻ってくる。やらねばならないことは細々とあるが、忙しくしているほうが時が経つのも、生活に馴染むのも早いような気がしてよかった。
 しかし、そんな暮らしは長く続かなかった。10日も過ぎたあたりから三五郎さんの帰りが遅くなり、朝まで戻らない日もあった。それも酒の臭いをさせて不機嫌な様子。朝、小間物を背負っていたはずなのに、手ぶらで戻ってきた日もあり、もしや、誰かに襲われたのかと問い詰めると、そうではないと笑う。
「あんなもん、売ってもろくに稼げやしねえ。もう、ちまちま売り歩くのはうんざりなんだよ」
「三五郎さん? どうしたっていうの?」
「へっ、どうしたもこうしたもねえよ。性に合わねえんだ。おい、酒だ酒」
「もう今日はだめですよ。それ以上飲むと体にさわります」
「なーに言ってやがる。酒がねえほうが、体にさわるってもんだ! ここか?」
 酒瓶をあさり飲み続けるのを見ているほかなく、怒りよりも、私はどうしたらいいんだろうかと呆然としていた。
 翌朝、商いに出るのを嫌がる三五郎さんも宥めすかし、いつもよりも荷を軽くした後、送り出した。夕べのことを少しは気にしているのか、三五郎さんも悪態をつきながらも暴れることなく家を出る。
 洗い物や洗濯などひと通り済ませ、おきんさん夫婦がやっている小間物屋に向かうことにした。突然、行ったにも関わらず、店裏でお茶を入れてくれた。
「訪ねてくれて、うれしいわ。おふみも嫁入りしたんだってね。おめでとう」
「おきんさん……」
 懐かしい声に喉の奥が痛くなり、目の前が潤んでいくのを止められなかった。
「え、ちょっと、どうしたの? 何かあったの?」
 優しく背中をさすられると、ますます溢れてしまう。
「ごめ、んなさい…何でも…」
「いいから、泣ききっちゃいなさい」
 ひとしきり泣いた後、ふと我に返る。いきなり押しかけてきて、何も話さず泣き出すなんてまるで子どもだ。所帯を持ったというのに情けない。
「あの…すみません。いきなり泣いたりして…私」
「落ちついた? お茶入れ変えたわよ」
 顔を上げると、おきんさんの後ろで困惑した顔をして覗いている旦那の松次郎さんと目が合った。
「あ、お邪魔してしまい、本当に」
「ん? あら、いつからそこにいたんですか?」
「ああ、うん。いや、泣いてるような声が聞こえたもんだから、つい。店は心配ないから、おきんはついていてあげなさい」
 そう言って目を細めて笑うと、お店に戻って行く。ふんわりとした、陽だまりのような温かい笑みだった。
「お優しいですね」
「ふふ。そうでしょ。私には勿体ない人…って、私のことはいいのよ。それで? どうしたっていうの?」
 大泣きした後で「何でもない」は通用しないだろう。三五郎さんに嫁入りしたいきさつから昨日のことまで洗いざらい話すと、おきんさんも難しい顔になる。
「そう。大黒屋の旦那には?」
「まだ話してません。相談するほどのことなのか、わからなくて……。前に精を出していたお店も失ってしまったから、また同じことになるのが嫌なのでしょうか」
「そういう気持ちもあるかもしれない。でも、それじゃあ困るでしょう? 商いが面白いと思えれば、変わる気もするんだけど」
「面白い…ですか。売る物を整理したり、磨いたりってことは、私もやってるんですが。もっと何かしたほうがいいんでしょうか。とはいっても、今、高値のものを仕入れるのは難しいですし」
「そういうときは、手間をかけるのが商いの基本だよ」
 2人でうなっていると、松次郎さんの声がかかる。
「え?」
「そうね。小間物なら買うのはほとんど女でしょ? だったら、おふみが、こういうものあるといいなあっていうのが何なのか考えてみたら?」
「あるといいなあ…ですか」
「そう。ちょっとしたことでいいのよ。あ、そうだ」
 おきんさんは棚の中から何か見つけると、私の前に置いた。それは朱色や紫、若草色と様々な端切れだった。
「一応、絹なのよ。どれも小さすぎて売り物にはならない端切れなの。あげるわ」
「ええっ、で、でも、そんな高値のものを…」
「うちの人の実家からわけてもらったものだから、余計な気を使わなくて大丈夫。色合いもきれいだけど、手触りがなんとも言えずいいわよね。スルっとして、撫でたくなってしまうような」
「はい……おきんさん、私、手間をかけること考えてみます」
「おふみなら、大丈夫」
 自分のやるべきことがわずかに見えると、気持ちも軽くなる。途中で豆腐を買い、家に戻った。
 おきんさんにいただいた端切れを触りながら、自分ならどういう小間物がほしいだろうか。贅沢はできない身だ。それでも美しい着物や紅を見れば楽しい気持ちになる。端切れとして売り物にならないというが、十二分に美しく、幾度となく触りたくなる。これを身に着けることができれば、少し触れたり、目にするだけでいつもの暮らしに彩りが加わるに違いない。
「そうだ!」
 ひとりごちて、しまい込んでいた裁縫道具を取り出した。爪楊枝入れに端切れを縫い付ければ、目立つことなく身に着けられる。様々な端切れがあるのだから、好みのものを選ぶ楽しみも得られるだろう。
 明け方まで寝ずに爪楊枝入れの工夫を施し終えたとき、酒を飲んでご機嫌な三五郎さんが帰ってきた。今、爪楊枝入れの話をしても耳に入らない。言われるまま、水を飲ませて布団を敷いて寝かせることにした。
 翌日の昼近く、さすがに決まりが悪いのか、三五郎さんは苦笑いしながら「飲みすぎたなあ」と言い、起きてきた。怒っても仕方ない。今は商いに目を向けてもらうことが先決だ。口から出そうになる文句をぐっと飲み込み、水を出した。
「おう、やっぱ飲んだ後はこれだなぁ。ははは」
「三五郎さん、ちょっと見てほしいものがあるんです」
 文机の上に昨夜こしらえた色とりどりの爪楊枝入れを並べると、我ながら壮観だった。というのは言い過ぎか。
「へ? こりゃ、どうしたんだ?」
「大黒屋でお世話になったおきんさんにいただいた端切れで、少し手を加えてみたの。これ、絹なのよ。同じ金子をはたくなら、きっと、こっちを選ぶに違いないわ」
「はあ、なるほどなあ。確かに女は喜びそうだ。色んなのがあるから、好きなのを選んでもらえばいいのか」
「そうね! さすが、三五郎さん」
「まあな。お、じゃあ、この鏡にもそういうのできるか? そしたら、明日から俺が売ってきてやるよ」
「もちろんですよ。今夜は八杯豆腐にしますね」
「お、いいねえ。英気を養って、明日は明け六つに出かけるかな」
 手鏡の裏には、おきんさんからいただいた夜伽用の着物をばらして、きれいな花や文様があるところを縫い付けることにした。
 翌朝、三五郎さんは本当に明け六つに出かけて行き、暮れ六つ前に戻ってきた。いつもより早いと思ったが、何と、すべて売り切ってしまったのだ。
「あれしきのことで違うもんだなあ」
「すごいですよ」
 上機嫌でおいしそうに飲んでいる姿を見ていると、私までうれしくなる。だが、それも長くは続かない。3日もすると、また飲み歩いて帰ってこない。商いを放りだして、博打をするようになった。
「お前さん…私、また新しい爪楊枝入れを」
「あんなものぜんぶ売ったって、いくらにもならないじゃねえか。博打は当たればでかい。やりがいがあるってもんだ」
「何言ってるんですか。もう金子もないし…どうやって生活するっていうんです?」
「そうか。だったら、おふみ、大黒屋の旦那んとこ行って、10両(約100万)借りてこい」
 当たり前のことのように言われて、意味がわからなかった。
「は? 何でです?」
「いいから。俺に借りてこいと言われたと告げりゃあ、貸してくれる」
「そんな馬鹿なこと。いくら血を分けた兄弟だって言ったって、そんな10両をぽんと貸すわけないですよ」
「貸す。そうだ、もし旦那が貸さなかったら、金輪際、博打はやめてもいい」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、そのことは旦那に言うなよ。言えば、貸さないに決まってる」
「……わかりました」
 翌日、久しぶりの大黒屋に向かい、言われたとおり旦那様にお願いをすると、黙って頷いた後、10両を貸してくれたのだ。どういうことなのかわからないまま家に戻れば、三五郎さんがしたり顔で「ほうら、言ったとおりだろ」と笑う。
 だが、そんな大金も博打ですぐに使い果たしてしまう。今度こそどうにもならない。私が働きにでるしかない。でも、それでは三五郎さんのためにならない…思案し、何とか商いに行くよう話をするが無駄だった。
「金子がないなら、大黒屋に行ってこい」
「何を言ってるんですか? ついこの前、10両借りたばかりなんですよ。まだ一銭だって返しちゃいないのに…貸してくれるわけが」
「貸す。必ず貸す。だから、行ってこい。そうだ、今度は20両にしよう」
「20両? いい加減におしよ! 旦那様は、お前さんに立ち直ってほしくて」
「旦那様だあ? お前の旦那は俺だろうが!」
「あ……癖で、つい…すみません。でも、いくら旦那が優しいからって」
「は? 優しい? ふん。じゃあ、お優しいんだ。20両くらい気前よく出す」
「……断られても知りませんよ」
 再び大黒屋に行くと、三五郎さんの言うとおり20両貸してくれる。さすがに「そんなに困っているのか? 何があったんだ?」と色々聞かれることを覚悟していたが、「そうか」の一言だけ。もしかしたら、自分は大黒屋の主になり、兄である三五郎が小間物売りと、まったく違う人生になったことを気に病んでいるのだろうか。
 20両も数日すれば跡形もなく消えている。博打だけじゃなく、せめて商いもしてくれていたのならば、私も旦那に言い訳できる。
「おふみー、二代目大黒屋重兵衛に、30両(約300万)借りてこい」
「……もう、無理ですよ。そんな大金、いくらなんだって…。お前さんが必死に商いをやって、それでも足りないってことなら、私も旦那のところでもどこでも行きますけどね。こんなこと続くわけがないじゃないですか」
「続く。あいつは貸す」
「三五郎さん……旦那に何か恨みでもあるんですか?」
「おふみが知ってるあいつは、表の顔だ。俺とあいつとはなあ、色々あったんだよ」
「色々?」
「貸さなきゃならねえ訳があるんだよ。いいから、行ってこい」 
 すでに旦那に借りた金子は30両、さらに30両なんて出すはずがない。今度こそ、「女房であるおふみがしっかりしないとだめだ」と叱られるだろう。でも、それでいい。そうしたら、三五郎さんが言っている「貸さなきゃならない訳」について聞こう。
「……そうか。わかった」
 旦那はやはり何も聞かず、話さず承諾するのみだった。だが、その目がスッと冷たくなるのがわかった。刃のような目。
「おふみ…ほら」
 いつか見た、あのゾッとする笑みを浮かべた旦那から金子を受け取ると、逃げるようにして家へ戻った。飲んで寝ていたらしい三五郎さんが目を覚ます。
「おう、どうした? だんなはぁ、30りょー」
「30両、出してくれたわよ。何も聞かずに。おかしいじゃない。どうしてなの? 借り続けるお前さんがおかしいのはもちろんだけど、旦那もどうして」
「ひっひっひ、だーからー、かさなきゃならねーわけが、あーるんだーー」
 一体、いつから飲んでいたのか、呂律が回っていないばかりか起き上がることもできず、肘をついて横になったままうにゃうにゃ言っている。
「ちょっと、飲みすぎよ。しっかりして。訳って? 一体、何が」
「へーんだ、おめえのしらねえことがあるってことよ。あいつとおれはさんざんわるいことやってきてな。あいつはなーもう、なんにんもころしてんだ」
「え? 何?」
「まずは、にっこう、かいどーさってなかじゅくのこくやへーべーだろ。んで、すぎ…とや、とみえもんにおっかぶせたんだからよ、てーしたもんだ」
「ちょっと! 本当なの? どうして、旦那が、どうしてそんなことを」
「ふん、おなみとのなかをじゃま、されてうらんでたんだ、ひっひっひ、あいつはなーおれなんだよ…まだあるぞーそれからなあ、かまくらや、きんべえだろぉぉ、あとはぁぁ」
 その後も言うだけ言うと、高いびきで寝てしまった。とんでもないことを聞いてしまい、思わず口を手で押さえていた。馬鹿々しい。酔っ払いの戯言を真に受けるなんて…と思う一方で、あの鬼の形相が瞼に浮かぶ。全身を震わせながら、一睡もできぬまま夜が明けた。
 翌朝、三五郎さんは「うう飲みすぎたあ」とうなりながら、一日、ごろごろしていた。夕べ、話したことを覚えているのか気になったが、確かめることも躊躇ってしまう。
「おお、そうだ。昨日、大黒屋の旦那んとこ行ったんだろ? どうだった?」
「え、ええ……30両、貸してくれたわ」
「そうだろ?」
 勝ち誇った顔をして、またごろりと横になるところを見ると、夕べのことはすっかり忘れているようだ。もし、覚えていてるのならば30両渡せと言えば済む話だ。
 昼八つ半(15時)すぎ、大黒屋経由で私宛に文が届いた。近くにいる親類が病に倒れたので見舞ってほしいという内容だった。親しいわけではないので迷ったが、頭を冷やす意味でも違う空気を吸うのはいいかもしれない。
 夕飯後、親類のことを告げると、考えるでもなく「おう、金子もあるし行ってこい。泊まってきていいぞ」とのこと。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、明日、見舞いに行ってきます。その前に、お話があります」
「あ? 何だよ改まって」
「三五郎さん。私たちは恋仲になって添うたわけではありません。でも、私にとっては、ここが、三五郎さんとの暮らしが初めての居場所です」
「何を」
「実家には体の弱い弟がいて、私の居場所はありませんでした。大黒屋はとてもお世話になりましたが、自分だけの居場所かと問われれば違います。だから、例え贅沢はできなくとも、三五郎さんと、雨風をしのげる住まいがあって、食べるものに困らない暮らしを送るだけで幸せです」
「おふみ…」
「三五郎さんは、それでは不服ですか? 旦那とのいきさつは忘れて商いに精を出し、稼ぎがよかった日は、お菜を一品増やす。そういう私との暮らしを居場所と思えませんか? 旦那は旦那。三五郎さんは三五郎さんです」
「……ちがうんだ」
「え?」
「あいつはあいつだけど、俺でもあるんだ。ちっ、酒がまずくなる」
 小さく吐き捨てると、出て行ってしまった。
 もう帰って来ないかもしれない。でも、私の思いは伝えたつもりだ。夫婦になった以上、片方だけではだめなのだ。相手が、三五郎さんが望まない生活ならば、いずれ破綻する。
 最初は同情と旦那にお願いされて始まった暮らしだが、一緒にいれば情も沸く。酒を飲み悪態をついても、私に手をあげようとしたことはない。三五郎さんのどこか投げやりな姿勢は、「どうせこんなものだ」と受け入れることで済まそうとしていた昔の自分を思い起こさせた。この人も居場所が見つからず、どうしようもなく空虚なのかもしれない。そう気づいたとき、何とかしたい。2人で幸せに暮らす手立てを考えたいと思ったのだ。
 早朝、出かける寸前に三五郎さんが帰ってきた。
「三五郎さん…もう、帰ってこないかと」
「出かけんだろ。その前に…」
「何ですか?」
「俺は俺、旦那は旦那とは、すぐには思えねえ。だから、近いうち…必ず、旦那とケリつける」
「何する気?」
「話すだけだ。だが、それがうまくいかなかったときには……どっか違うところで暮らそうかと思う。まだ、どことは決まってないが。そんとき、おふみ……一緒に」
「行きますよ。そんなケリだのなんだの言ってないで、見舞いから戻ったら」
「だめだ。これだけはやらないと、俺として生きられねえ」
「……わかりました。でも、私が一緒にいることを、忘れないでくださいね」
「ああ。もう出かけろ。見舞いついでに、ゆっくりしてこい」
 私を送り出す三五郎さんの顔は穏やかで、行くのはやめると言いたかった。だが、旦那とケリをつけるというのならば、ひとりで考える間も必要だろう。

 穏やかな三五郎さん。それが、最期に見た三五郎さんだった。

 翌日、夕七つ半(17時)に戻ると、もぬけの殻。いないということは商いに出ているのかと思ったが、荷は置いたままだ。また博打にでも行ったのかもしれない。だが、さらに翌日になっても帰ってこない。大の男が1日や2日、帰ってこないからといって騒いでも、取り合ってはくれないだろう。三五郎さんが行きそうな居酒屋で聞いてみても、来ていないという。
 4日が過ぎた日、大黒屋に行き三五郎さんがいなくなったことを告げた。旦那もおかみさんも心配してくれるものの、行方については見当もつかないという。
「あの……三五郎さん、こちらにお邪魔しませんでしたか?」
「うちに? いや、俺は知らないが。おとき、どうだ?」
「私も知りませんけど、念のため九助に聞いてみるわね」
 九助さんも答えは同じだった。大黒屋に来てないし、文などの預かり物もない。旦那とケリをつけに来たのかと思ったが、違うのか。あのときの顔は嘘をついているとは思えない。
「どうして……あの人に何か…」
「おふみ、そう思いつめるな。どこぞの賭場か女のところにでも行ってるのかもしれん。なぁに、しばし待っていれば戻ってくる」
「でも……こんな風に、幾日も帰ってこないなんて」
「ひとりで三五郎さんを待つのはしんどいでしょう。うちに戻ってきたらどう? 大家さんにその旨話しておけば、三五郎さんが戻ったときには、おふみがうちにいるとわかるわ。お前さん、いいよね?」
「ああ。それがいい」
 優しげな声でそう言う旦那を見て、背筋に冷気が走る。あの能面の笑みが張りついた顔。
「そうなさいな」
 ここで頑なに断っては不自然に思われる。旦那の近くにいれば、何かわかるかもしれない。怖さを押し殺し、自分に言い聞かせて承諾した。


参 対決

 大黒屋に戻り、しばらくした頃、新しく所帯を持つことになった。

 三五郎さんの行方は依然と知れず、どこかで見かけたという噂すら聞かない。もう、どうすることもできないだろう。そんな諦めに似た思いで過ごしていたある日、7、8人のお供を連れた2つの駕籠が大黒屋に来た。駕籠から現れたのは、時の老中安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)様と幕府に関する用務をつかさどる公用人・佐伯藤左衛門様、そして、目が不自由な鍼療治の医師・城富(じょうとみ)さんだった。
 2人の侍は40代半ば、いかにも屈強で気圧される空気に溢れているが、城富さんは20代半ば、細身で色白、優しい顔立ちの美青年であるため、よく言えば癒される、悪く言えば大人しく頼りにならなそうな雰囲気だった。だが宴会の席にて、浄瑠璃、義太夫を語り始めると一変する。三味線の音色と憂いを含んでいるが聞き心地のいい声で、まるで歌うように語られる世界にその場の誰もが引き込まれた。その夜、佐伯様の勧めもあり、一夜を共にすることとなった。
 翌朝、顔を真っ赤にして「あたしはもういい年なのにこういうことが初めてで、そんなダメな男で…だけどおふみさんが、初めてでよかった本当によかった」とうれしそうに呟く富さんを見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられ、温かいものがこみ上げてくる。
「富さん……こんなこと、遊女が言っても意味ないかもしれませんが、私も富さんでよかった。何だか…初めて会ったような気がしなくて、懐かしいような気持ちがしていたんです」
「おふみさん…あたしは、そんなことを言われても、本当なのか世辞なのかもわからない……目が見えなくても、おふみさんは心がきれいな人だということは、わかる。でも、こういうことはまったくわからなくて」
「私は元来、嘘が苦手なんです。富さんには本当の、誠の心からしか、言いません」
 誰かに思いを寄せる、好きになるというのはこういうことかと思った。比べるものではないけれど、三五郎さんとは何とかして居場所にしようと必死だったが、富さんは側にいるだけで心が落ちつき、ここにずっといたいと自然に思えた。
 磁石が引き合うように惹かれ合い、富さんが何度となく通ってくると、安藤様と大黒屋の旦那の計らいで祝言をあげることとなった。ちらりと三五郎さんの顔が浮かんだが、おかみさんの「三五郎さんのことは、何かあれば大黒屋に伝わるようにしているから、もう忘れなさい」という言葉に背中を押された。

 富さんとの江戸での暮らしは慣れないことも多かったものの、心地よかった。目が不自由な富さんの杖となり支えることは大変じゃないと言えば嘘になるが、常に優しく「おふみ、ありがとう」と感謝を伝えてくれるため、自分が役に立っている喜びのほうが大きい。富さんの鍼師匠であり養子縁組をした城重夫婦とも世話を焼いたり、笑い合ったり、小言を言われたり。そんな日々が温かく、ああ、家族というものはこういうものかとしみじみ感じていた。
 人間とは勝手なもので生活も心も安定すると、忘れようと追いやっていたものがそろりと顔を出す。しばらくすると、井戸と鬼の夢を見るようになった。血走った目でぎょろりと睨み追いかけてくる鬼は、大黒屋の旦那の顔だ。目が覚めると心臓がドクドクドクと暴れている。隣に富さんが寝ていることを確認し、起こさないよう小声で「獏食え獏食え獏食え…」と呟くが、獏は中々悪夢を食べてはくれない。昼の穏やかで幸せな暮らしと夜の悪夢との落差に参っていた。
 その年の暮れ間近、富さんが大黒屋の旦那のところに行こうと言い始めた。
「どうしたんですか、急に」
「こうして晴れておふみと夫婦になれたのも、大黒屋の旦那が間に入ってくれたからじゃないか。暮れ間近であるし、1年のお礼も兼ねて、きちんと挨拶に行ったほうがいいと思ってね。おふみも大黒屋には久しく行ってないだろう?」
「そうですけど。でも、挨拶は行かなくても大丈夫だと思いますよ」
「え、どうして? こんな風に落ちついて暮らせるのは旦那のおかげでもあるじゃないか。義理がたいおふみが、どうして……もしかして、最近、うなされていることと何か関係あるんだろうか?」
「……富さん、気づいてたんですか」
「そりゃあ、夫婦だもの。何か訳があるのなら話しておくれ。ひとりで抱えていたら、何もわからないよ」
「………最初に会ったとき、富さんには誠のことしか言わないと話しました」
「ああ、そうだね」
「ですから…富さんには、すべて話そうと思います。私…私は……大黒屋の旦那のことが、怖いんです」
「怖い? それはまたどうして? 大黒屋でひどく叱られたことでもあるのかい? でも、それは、いくらお優しい方でも主人である以上はさ、小言のひとつやふたつ」
「いいえ、そうじゃありません。小言なんか平気です。前に、藤沢の千本杉で飛脚が襲われたことがあって、下手人(犯人)はお侍さんで、左手と左足に傷を負っていました。その男、私の客だったんです。いえ、客になるはずだったんですけどね、旦那に、なじみの客が来たからそっちを頼むと言われ、そうしました。数日して、その人、左手と左足に傷がある男の死骸が見つかったんです。盗んだはずの金子もなくなっていて…それで、おかしいんですよ。あの夜、確かに旦那がお侍さんに話をしに行くと言ったのに、いつの間にか、消えていて…。旦那が逃がしたんじゃないかって」
「おふみ、そりゃあそういうこともあると思うよ。客商売だもの。大黒屋のような大店で縄付きは出したくないと考えるのは、主人としては不思議じゃないよ」
「富さん…その夜…遅くに、井戸で…見てしまったんです」
「見たって、何を?」
「……旦那が、足や着物を洗ってたんですよ。それも目を吊り上げて、怖ろしい顔をして……私が声をかけると、旦那は…転んで汚してしまったから洗っていると答えました。でも、枝にね、提灯がかかっていたんで、その汚れが見えたんです…富さん、転んだ汚れなら泥ですよね。茶や黒じゃないですか? でも、違った。赤黒い……あれは血ですよ。血の痕を洗っていたんです」
「おふみ…それは、見間違いじゃ」
「違います。私は目はいいし、客商売をしていますからね、物覚えだって悪くはないです。それに…私が汚れを見たことに気づいた旦那は、さっと提灯を持ち上げて明かりの位置を変えたんですよ。ただの泥汚れなら、そんなことする必要あるんでしょうか。私…私も、このことは見間違いかもしれない、夢だったんだと言い聞かせて……でも、時が経つにつれ、やっぱりそうじゃないって…それに、夢ってことにして逃げ続けていいのか……」
 これまで閉じ込めていた不安や怖れ、疑問が一気に溢れだしていた。感情の嵐に巻き込まれ涙まで溢れそうになったが、寸でのところでこらえる。泣いている場合ではない。
「おふみ、わかったよ。でも、血だったとしても、その男のかどうかはわからないだろう? もしかしたら、何か行き違いがあって」
「それだけじゃなくて……前の亭主、三五郎さんから聞いたんです」
「旦那の腹違いの兄上っていうお方だね」
「ええ。博打や酒にのめり込んで、すってんてんになると大黒屋の旦那のとこで10両借りて来いって。それもなくなれば、今度は20両だ、30両だって…。そんなの貸してくれるはずないって何度言っても、必ず貸す、貸すわけがあるんだって。旦那も、何も聞かず出してくれました」
「20両、30両の金子を?」
「そうなんです。そんなのおかしいじゃないですか。それで、どうしてなのか聞いてみたら、そのとき、ひどく酔っぱらっていて。旦那と俺はさんざん悪いことをしてきたんだって。あいつはたくさん人を殺したって」
「えっ、それは本当かい?」
「酔っぱらってるときに、そんな意味のない嘘をつくとは思えません。一緒にしてきた悪事について話し始めたんですけど、呂律も回ってない状態で、すべては聞き取れませんでした」
「聞き取れたこともあったってことだね」
「ええ。最初に殺したのは、日光街道、幸手中宿の穀屋平兵衛で」
「え?」
「その罪を、杉戸屋富右衛門って人にかぶせたって」
「そ…あ、ぅぁああああああっ」
 突如、富さんはそう叫ぶと顔を覆った。
「富さん? どう…」
「に日光街道、幸手中宿の穀屋平兵衛を、殺したのは、大黒屋の旦那…だと、確かに言ったんだね?」
「え? ええ。はい」
「ううぅ…そ、それで、それを、杉戸屋富右衛門に、なすりつけたって?」
「はい。そう確かに言いました」
「あぁ……これは、どういう定めなんだろう。目の見えないあたしには無理だろうって、もう半ば諦めていたんだよ。でも、きっと、神様がおふみに、会わせてくださったんだ」
 富さんが激流の中にいるのがわかった。その流れに耐えるように、頭を抱えてじっとしている。
「……富さん? どうしたんです? 一体、何が」
「おふみ…ああ、おふみ…。杉戸屋、富右衛門は、あたしの親父なんだよ」
 言葉を失った私に、富さんは話を続ける。
 殺された平兵衛の脇に父上である富右衛門の煙草入れが落ちていたため、下手人だと疑われ拘束されたという。平兵衛が殺されたとされる日、富右衛門は旅に出ていたのだが、それを証明する人はおらず、悪いことに持っていた小刀に血の痕がついていたのだ。富右衛門は野犬に襲われたと主張したそうだが、真実だと示す手立てもない。
「だけどね、おふみ、絶対に親父はやってないんだよ。だって、平兵衛殿とは親しくしていて何の揉め事もなく、むしろ、お嬢さんのおなみさんの縁談をまとめたことで喜ばれてたくらいなんだ」
「おなみ?」
「どうしたんだい?」
「おなみ……どっかで……あ! あの人に、旦那がどうしてそんなことをするんだって聞いたとき、おなみとの仲を邪魔されてうらんでたって言ってたんですよ」
「ああ……おなみさんはぺっびんさんだと評判だったそうだからね。見初めたのかもしれない。あたしは、安藤様にこれは間違いだって、親父は何にもしてやしないと訴えたんだよ。それで安藤様も、確かに煙草入れを落としたまま気づかず逃げるのはおかしいし、殺す理由がないとおっしゃり、大岡越前守に話してくださったんだ。大岡様自ら裁くことになって、ああ、これはもう大丈夫。親父の潔白を示してくれるに違いない。そう思って、帰ってくるのを…待って、いたんだよ…そしたら……そしたら」
 体を震わせて涙を零す富さんの手を握ると、何かにすがるように強く強く握り返してきた。嗚咽混じりで語ったのは、父上は処刑され、顔の皮をはいだ首をさらされたという非情な現実であった。私も思わず固く目をつぶり、しばし、互いの手が命綱だといわんばかりに握り合った。
「……あ…あた、しはね、それで、大岡様に言いに行ったんだ。間違ってるって。無実の者を処刑したんだって。大岡様は、お前が真の下手人が誰だか知っているのならばまだしも、そうでないのならば、富右衛門で間違いないだろうと答えたんだよ。だから、あたしが真の下手人を、見つけてみせる。そうなった暁には、大岡様の、首をちょうだいすると約束したんだ……おふみ…あたしは、大岡様のところへ行ってくる」
「はい」
 奉行所に訴えるには家主などを伴なうのが通例となっているが、内容が内容だけに承諾は得られず、富さんはひとりで南町奉行所、大岡越前守忠相の役宅へと向かった。ついて行こうと思ったが、「どうなるかわからない。どうか家で待っていてほしい」と言われ、見送ることにした。
 いつもはしない場所の掃除やら整理をしても時間は進まない。大岡様と会えたのだろうか。大岡様と交わしたという約束を信じてもらえず、このまま捕まり、帰ってこなかったら……。そのときは、自分が富さんに妙なことを話したせいだ。だから、裁くのなら自分だと訴えに行こう。そんなことをぐるぐると考えていた。
 夕七つ(16時)過ぎ、「明日、朝五つ半(9時)、南町奉行所に来るように」という私宛の差し紙(奉行所からの召喚状)が届いた。ああ、富さんは大岡様と会い、真の下手人が誰なのか訴えることができたのだ。
 翌朝、南町奉行所に行き、お白洲と呼ばれる白い砂が敷かれている庭に富さんと座って大岡越前、そのお方に詮議されることとなった。
 シィーーッという警蹕(けいひつ)の声とともに現れた大岡様。麻裃の威風堂々とした姿で大名と言われても遜色ない高貴さが漂っている。しかし、物腰はあくまで穏やかであったため、意外なほど臆することなく話すことができた。
 私の話に耳を傾けていると、時折、見せる眼光の鋭さが決して優しいばかりではない大岡様の本質を物語っているようだった。穀屋平兵衛だけでなく、三五郎さんから聞いた鎌倉屋金兵衛、熊坊主、用心棒の3人、焼き場(火葬場)の管理人・弥十を殺害したと話すと、大岡様は小さくうなり声をあげる。
「なるほど。では、前の亭主、三五郎はどこにいる? おふみの話に矛盾があるとは思えないが、大黒屋二代目重兵衛こと畔倉重四郎が下手人だと言っている本人にも話を聞かねばなるまい」
「…はい。それが、行方知れずになってしまったのです。まわりの者は賭場や女のところに行ってるんだろうと言いましたが、そうは思えません。いなくなる直前、旦那とケリをつけてくると言ったんです。もし、それがうまくいかなかったときには、一緒に別のところに行こうと。私は、ようやくまともに生きることを考えてくれたのだと思って、一緒に行くことを承諾しました。そんな人が、すぐ賭場に行ったっきり帰ってこないなんて…」
「ふむ。三五郎は重四郎とケリをつけに行ったということか?」
「わかりません。旦那やおかみさんに聞きましたが、大黒屋には来ていないとのことでした。ですが……これは、私の推測に過ぎませんが…旦那に殺されたんじゃないかと」
「何故、そう思う?」
「……30両借りに行ったとき、旦那の目が……あの夜、井戸で見たときと同じ目をしていたんです。人のものではない、刃のような目。でも、何の証しもありません。ただ、旦那の過去を知っていて、何度も金を無心したあの人が、ある日、忽然といなくなった。それ以降、旦那にたかるようなことをしたり、過去について詮索するような者はひとりもいません」
「相分かった。本日はこれまで」
 元奉公人が主人を下手人だと訴え出るのだから、強く問いただされるのだろうと覚悟していたが、そのようなことはなく拍子抜けするほど淡々と終えた。

 数カ月が経ったある日の夕刻、畔倉重四郎が召し捕られた。
 後に人づてで聞いたところ、大黒屋内に14、5人、裏に30人、表まで合わせると総勢80人以上の廻り方同心(市中の警備、監察を担当する者)たちが取り囲み、「御用だ」「御用だ」の声とともに、御用提灯で街道が埋め尽くされたという。重四郎は同心から刀を奪うと斬りつけながら逃げ続け、屋根に追い込まれたところに油をかけられ落下し、捕縛された。
 その後、すぐさま大岡越前役宅に連れて来られ、裁きが行われることとなった。当然のことながら、富さんと私に再び差し紙が届き、まずは富さんと重四郎がお白洲に座り、私は呼ばれるまで待機するよう命じられた。壁一枚、隔てた場所であるため声は筒抜けだ。
 大岡様によって重四郎の知らなかった顔が少しずつ明らかになっていく。出自は武家、有馬家の浪人であったが若気の至りで悪さを繰り返したため、幸手中宿にいられなくなり流浪の身となったこと。大黒屋二代目重兵衛となってからは、いつもニコニコと穏やかで金払いもよく、かといって気弱ではなく一本芯が通っているなどいいことしか聞かない、まさに地元の生き神様といえる存在。だが、懇意にしている店の旦那衆にも知られていないが、賭場に頻繁に出入りし豪勢に遊んでいたという。
「大岡様、それも仕事のうちですよ。大黒屋は旅籠屋と言っていますけどね、遊女屋も兼ねています。大根や魚、鏡を売っている店とは違う揉め事も起こるもの。そういうとき、人とのつながりや情報が重要になるんです」
「なるほど。しかし、見事な隠し方であるな。そのほうの言う通りであるならば、そこまで隠すことではあるまい。まあよい。賭場で遊ぶことを裁くわけではない。大黒屋二代目重兵衛こと畔倉重四郎、今を遡ること7年前、日光街道幸手中宿の穀屋平兵衛を殺害し、その罪を杉戸屋富右衛門になすりつけしこと。相違ないか?」
「いいえ。身に覚えはなく、何故、そのようなことを言われるのか皆目見当もつきません」
「ほう。殺害していないと申すか。隣の男が誰かわかるか? 今は城富と名乗っている、杉戸屋富右衛門の倅だ。城富、頭を上げぃ。畔倉に申したいことはあるか」
「はい……あたしは目が見えません。ですが、親父は人を殺したりなんかしないってことはわかるんですよ。平兵衛殿とは仲違いをしたこともない。商いだってうまくいっていた。それなのにそんなことをする謂れがありません。どうか、どうか本当のことを言ってください」
「そう言われましても、していないものはしていないとしか答えようがありません。そなたの父上でないのならば、真の下手人はどこか別にいるのでしょう」
 重四郎は一切認めようとはせず、なおも「本当のことを話してほしい」と食い下がる富さんの声が次第に震えていくのがわかった。大岡様が何もしていないのであれば、なぜ、あんなに手向かったのか。身に覚えがあるからこそ同心から刀を奪い、斬りつけたのだろうと問えば、自分に非がないのに手向かいもせずにいることは、今は町人とはいえ、武士としてできない。そのことで裁かれるのならば潔く認めるが、やってもいないことは認められないと声色ひとつ変えずに答えるのだった。
「そうか。あくまでも、やっていないと申すのだな?」
「はい。第一、平兵衛殿とは父の代から懇意にしていただいている仲。父亡き後は、意見の食い違うことも多く、また、私の若気の至りで悪さをしていたことが重なり、幸手中宿を出ることになりました。しかし、恩義を忘れたことはありません」
「そうか。おふみという者は知っているであろう」
「大黒屋の元奉公人で、今は城富殿と夫婦になったと記憶しております」
「おふみは、前の亭主三五郎が、そのほうが穀屋平兵衛を殺害し杉戸屋右衛門になすりつけたと言っていたと証言しているが?」
「大岡様、あの女の言うことを信じてはいけません。あれは恩を仇で返すようなろくでもない女です。ないことないことを言って回る、そういう人間なんですよ」
「ほう。三五郎は、そのほうの腹違いの兄だと聞いたが相違ないか?」
「ええ」
「それはおかしい。調べによると、三五郎とは幼馴染ではあるが、血のつながりはないはず。再度、訊ねる。腹違いの兄だというのは真か否か?」
「……腹違いの兄のような、関係ということでございます」
「物は言いようだな。して、おふみが信頼に値しないというのは何故だ?」
 大岡様の問いに、重四郎は意気揚々と喋りだす。目をかけていたからこそ義兄弟ともいえる三五郎と夫婦にしたのに、働きもせず夫婦で賭場に入り浸り金の無心をするばかり。三五郎がいなくなり辛かろうと大黒屋に戻してみれば、大して間をおかず、老中お抱えの鍼医師で純粋な城富殿に目をつけたなど言いたい放題。踏み込んでいきたい気持ちを必死にこらえた。
「そうか。しかし、そのほうも三五郎のことで嘘をついていたわけだからな。そのまま鵜呑みにするわけにはいくまい。おふみにも話を聞く必要がある。おふみをこれへ!」
 大岡様の呼び声により、私は再度、お白洲に座ることになった。
「おふみ、何か申したいことはあるか?」
「はい。まず…私は賭場がどこにあるのかすら知りません。ですから、入り浸ることなんてできるわけがありません。もし、私が出入りしているのであれば、大岡様のお調べであがっているはずでございます」
「大岡様、女はどうとでも化けることができます」
 三五郎さんから聞いたことを告げても、出鱈目だ、酔っ払いの話を真に受ける馬鹿がどこにいると意に介さない。大黒屋に客として逃げ込んでいた藤沢の千本杉、飛脚殺しの下手人がいなくなり、死骸で発見された話をすれば、「それがどうした。自分とは何の関係もない」と言い放つ。
「おかしいじゃないですか。旦那が話をしてくる、誰も2階に近づけるなって言ったんですよ。旦那以外、あの客と接触していないんです」
「ああ、思い出した。部屋に行ったら、もぬけの殻だったんだ。捕まると思って逃げ出したんだろう」
「それだけじゃありません。私は、見たんです」
 同じ日の夜遅く、井戸で足や着物を洗う姿を見たこと、その汚れは泥ではなく赤黒い血の痕だったと話すも、鼻で笑うだけ。
「今の旦那である城富殿もいるからと思い、先ほどは口にしませんでしたが、こうまで言われては黙っていることはできません。おふみは私に惚れていたんですよ。でも、私には恋女房のおときがいて、そんな気さらさらありません。それが気に食わず悋気に狂ったのか、こんな嘘までつくとは、女とは怖ろしい生き物です」
「何を言ってるんですか! 断じて、そんな、旦那に惚れてなんか…ましてや、悋気なんて起こしたことありません」
「井戸で、おふみに何をしているのかと問われたとき、転んで汚したままだとおときに小言を言われかねず、心配もするだろうから洗っていると答えたんですがね。それが気に食わなかったんでしょう。だから、泥の汚れを血の痕だなんて訳のわからないことを口にするんですよ」
「違います! はっきり見たんです!」
「あの夜は月も出ていなかった。それなのに、はっきり見えたというのか?」
「そうです。だって、提灯がかかっていましたし。私は目がいいんです。物覚えだって悪くありません」
「じゃあ、どうしてそんとき、女中頭のおけいや番頭の九助に話さなかったんだ? もし、本当に見たのならば、夕べ、旦那が井戸で怪しいことをしていたと相談するはず。おふみは井戸で会ったとき、すでに飛脚殺しのことを知っていたんだから、なおのことだ」
「それは…だって、旦那は地元で神様と言われている方で、そんな、私が見たことを言ったとしても、信じてもらえるとは思えなかったし……そのときは、どういうことかよくわかっていなかったんですよ」
「それに月も出ていない夜中、いくら大黒屋の敷地内とはいえ、飛脚殺しの下手人が潜んでいるかもしれないのに、女ひとりで出歩くなんておかしい。おおかた後をつけていたんだろう。それで言い寄ろうとしたが、おときのことばかり話すから意趣返しのつもりで、そんな血の痕だなんて根も葉もないことを口走ったに違いない。今さら引っ込みがつかなくて、大岡様のお手を煩わせる事態になったんだ。手をついて謝ったらどうだ」
「違います! 旦那をつけてなどいませんし、確かに血の痕を見たんです!」
「じゃあ、どうして外に出ていたんだ? 仕事も終わり一刻も早く休みたいときに、満月が光っていたというならいざ知らず、真っ暗な中、外に出るなんておかしいだろ」
「……それは…」
 あの日のことを鮮明に思い出し、言葉が継がなくなった。本当のことを話せば、余計に誤解をされるかもしれない。そう思うと、どう説明すればいいかわからなくなってしまったのだ。
「何も言えないところを見ると、やはり、つけていたということか」
「違います。旦那をつけてなどいません」
「おふみ。確かに重四郎の言う通り、夜中に何故外にいたのか気になるところだ。正直に申してみよ」
 大岡様の言葉と、膝の上で強く握り締めていた手にそっと重ねてくれた富さんの手の温かさに意を決した。
「……はい。あの日、部屋に戻るとき、おけいさんとおきんさんが話しているところに遭遇したんです。2人で、飛脚殺しのことで役人が来て、九つに見分があるらしい、まだ捕まってないのは怖いと話していて。私は、元気づけたくて、大黒屋には地元の生き神様と言われている旦那がいるから、そんな人斬りは近づけない。大丈夫だと言ったら、2人は大笑いして……その、からかわれたんです。それですぐ部屋に戻る気にならず、外の空気を吸おうと」
「からかわれたとは?」
「………おふみは、旦那様のことばっかり、とか…そういうような」
「大岡様、お聞きになりましたか。おふみはやっぱり」
「でも、違うんです!」
「おけいもおきんも、大黒屋に長くいる海千山千の女。その2人が、私に気があると思ったっていうことですよ。そうでないなら、おふみは気がない相手にもそういう素振りができる、嘘がつける女ということです」
 いつの間にか、私が糾弾されていた。それも違うという証しの立てられないことだ。言えば言うほど、怪しまれるに違いない。それでも受け入れることはできない。
「断じて違います! そりゃ、旦那のことは、奉公人として…大黒屋の主として、すごく尊敬もして信頼をよせていました。それが好意だと言われれば、そうでしょう。でも、それは恋慕うものではありません。おかみさんに悋気を起こしたり、ましてや、意趣返しなんて…そんなこと考えたこともありません」
「どうだか。すぐに次の亭主を見つける女ですからね。お前が見たことを言えなかったのは、自分で嘘だとわかっていたからだろう。まあ、遊女のお前が言うことと、大黒屋主人の私が言うこと、どちらが信じるに値するかなんて、子どもでもわかることだ」
「だから…だから、言えなかったんですよ。私も、ずっと、見間違いかもしれない。旦那が…いつもニコニコと穏やかな旦那が、あんな怖ろしい顔をするなんて悪い夢だって、そう思おうとしました。でも、見たことを見なかったことには、やっぱりできません」
「自分がついている嘘が嘘だとわからなくなったか。大岡様、これは狂女ですよ。息を吐くように嘘をつくんでしょう。だから、嘘も本当だと思い込んじまう。ああ、城富殿もかわいそうに。こいつの嘘にだまされて甘い期待を抱かされた、ある意味じゃあ被害者だ。大岡様、裁くんなら、このおふみでしょう」
「武家の出にしてはペラペラとよく喋る。確かに世間じゃあ、おふみよりも、地元の神と呼ばれているそなたの言うことを信じるだろう。だがな、ここ、白洲では関係ない。遊女が本当のことを話すとはいえないように、大黒屋主人が本当のことを話すとも限らんからな。第一、おふみが遊女だから嘘をつくというのならば、同じく遊女であるおきんの話は鵜呑みにするのか? そのほうも、三五郎のことで嘘をついておったではないか」
「それは……嘘ではなく、言葉のあやです。おときや奉公人たちにいらぬ心配をかけぬよう、兄弟分をわかりやすく言い換えただけのことです」
「自分の嘘には寛容だな。仮におふみが昔、重四郎を慕っていたとしても、見たことすべてが嘘であることの証しにはならんぞ」
「しかし、冷静ではなかった証しにはなるでしょう。元より、やっていないものはやっていないと言う他ありません。それでは済まないのならば、相拷問(あいごうもん)を受ける覚悟です」
 重四郎の思わぬ言葉に体が凍りついた。相拷問。どちらが嘘をついているのか判断できないとき、共に拷問にかけて自供させるという恐ろしい取り調べだ。
「稀に見る悪党であるな。相拷問など、女のおふみが耐えられるわけがない。曲がりなりにも武士の子として鍛錬を積んだ、そなたが勝つことは目に見えているではないか。それでもそう告げれば、まるで潔白かのように思わせることができるからな」
「……そこまで、おっしゃるんであれば、この畔倉重四郎が殺したという証しを、確固たる証拠の品を見せていただきたい。確かな証拠があれば、自分がやったと認めましょう。さあ、証拠を。そんな嘘かどうかもわからぬ遊女の戯言ではなく、納得できるような証拠を!」
 そんなものなどないだろう。もう月日もかなり経っている。肝心の三五郎さんは消えたままで、証人として呼ぶこともできない。仮に呼んだとしても、重四郎はまた何だかんだと言いがかりをつけ、この者の話は信頼できないという風に持っていく。
 もはやこれまでかと思ったが、同心の白石殿が駆けこんできて事態は一変する。品川近くの寺に、三五郎の名が書かれた煙草入れを身につけた死骸が運び込まれていたことを突き止め、その証しの品の煙草入れを持ってきたのだ。さらに三五郎が消えた夜、鈴ケ森(現在の品川区南大井)で「さんご!」「じゅうし!」と怒鳴り合う男たちの声を聞いたという証言も得ていたため、三五郎殺害において重四郎は牢獄されることとなった。

 家に戻り平静を装ったけれど、富さんへの申し訳なさと自己嫌悪、後悔で打ちのめされていた。父上の潔白を証明する千載一遇の機会だったのに、肝心の穀屋平兵衛殺害を私のせいで認められなかったらどう詫びればいいのだろう。どうして、あんな風に感情的ではなく冷静に淡々と返答できなかったのか。井戸で見たことを、おけいさんやおきんさんに相談していれば違ったのかもしれない。少なくとも「おふみが見たと言っていた」と証言してもらうことはできたに違いない。夢だと逃げ続けたツケがまわってきたのだ。
 夕飯時、富さんが「おふみ、大変だったね。話してくれて、ありがとう」と声をかけてくれたが、「いいえ」としか答えられなかった。私が詫びれば、富さんは「おふみが詫びることはない」とねぎらってくれる。余計な気を遣わせたくなかった。
 もしも、私の話が信用されなかったことで重四郎を罪に問えず、父上の汚名をそそげなかった場合、どうすべきかをずっと考えていた。富さんと共に暮らすことはできない。さりとて黙っていなくなれば、富さんの心にもやもやを残してしまう。訳もわからずいなくなられることの辛さ、苦しみはよくわかっている。「遊女に戻りたいから、離縁してくれ」と書き置きをしていなくなるのが一番だ。ろくでもない女に引っかかったと忘れてくれればいい。そう決めた覚悟も、日々の穏やかな暮らしの中では揺らぐ。この幸せを手放したくない。しかし、それを手放すことが唯一で最大の償いになるようにも思える。

 ふた月ほど過ぎた頃、私宛におきんさんから文が届いた。何かあったのかと急いで読んでみると、重四郎が召し捕られた日のことと自分たちのところにまで同心の配下となる目明しらがやってきたと書かれていた。
 大黒屋に客として入り込んだ用意周到さと道を埋め尽くした御用提灯、周囲に響く「御用だ」の声。異様な光景に番頭の九助さんはもちろん、誰も身じろぎせず、ただ事の次第を見守っていたという。大黒屋は上へ下への大騒ぎとなり、おかみさんは寝込んでしまった。そんな中、客を装った目明しが店に来て、私や旦那、三五郎さんのことを聞いていったとのことだった。
 さらに、おふみが大黒屋の旦那に惚れているなどあり得ない。確かにからかった覚えはあるけれど、それは男女の情ではないとわかっていたからしたこと。父や兄を慕うようなもの、もっと言えば大黒屋を盛り立てたい、そのために何かしたいという純粋な思いしかなかった。だからこそ、みんな、おふみの繕いものを手伝い、男衆も自ら修繕をするようになった。三五郎さんとの暮らしも、おふみは何とかして小間物売りで生計を立てようと、私が渡した端切れで爪楊枝入れの工夫をしていた。賭博に溺れる者がそんな苦心などしない。おけいさんも、本気でおふみが旦那に惚れていたら、諦めろと誰にも知られぬところで諫めている。不器用ではあるけれど、骨惜しみせず働く子だと答えたと言っていたから心配いらないと綴られていた。
 目明しに色々と聞かれ商いの邪魔になったろうに、わざわざ文で伝えてくれたおきんさんの優しさに、気づくと涙が溢れていた。涙で字が滲まないよう袂で押さえながら読み進めると、文吉さんが目明したちに協力し井戸周辺を何やら探しているとあった。しかも、私が三五郎さんと夫婦になった後くらいから、奉公人たちに「井戸で怪我をしたことはないか、何か異変はなかったか」と聞いてまわっていたんだそうだ。おけいさんが、井戸を気にする理由を聞くと「鬼の影を見つける」と答えたが、どういう意味だろうと首をひねっている。そう書かれていた。
「……文吉さん…」
 三五郎さんとの縁談を聞いた日、文吉さんに悪夢として話したのを覚えている。もう悪夢は吐き出したのだから気に留めず幸せになれと言ってくれたことで、そうしようと思ったのだ。単なる夢として話したのに、文吉さんは「もしや…」と気にかけてくれていたのだろうか。みんなの思いがありがたくて、申し訳なくて、文を握りしめたまま畳に突っ伏してむせび泣いていた。
 どれくらい時が過ぎたのか、私の背中をさすり「おふみ? どうしたんだい?」という富さんの声で我に返った。
「え…富さん…」
「どこか痛いのなら、あたしが診て」
「いいえ。そうじゃないんです。私に……おきんさんから、文が来て…」
 文の内容を話している途中で、富さんが私の手を握り始めた。その手が細かく震えていて、キュッと強く握り返す。
「…あぁ……大岡様は、きちんと調べてくださっている……きっと大丈夫だ」
「そうですね」
「おふみ、あの日、勇気を出して、あたしに話してくれてありがとう。おふみが話してくれていなければ、きっと諦めていたよ」
「……いいえ……私は、富さんに、申し訳がなくて……私が…もっと、早く」
「何で謝るんだい?」
 もしも、私の話が信用されないばっかりに、穀屋平兵衛殿の殺害の罪を問えないことになったら出て行こうと考えていたと明かすと、富さんはそっと抱きとめてくれた。
「もし、そうなったらあたしは生涯をかけておふみを探すよ」
「富さん……でも…」
「ああやっておふみを責め立てるということは、重四郎は下手人で間違いないと確信したよ。だって、そうだろ? 本当に身に覚えがないのなら、おふみの話が信じられるかどうかではなく、自分の潔白さを何とか訴えようとする。あたしの親父が、自分には動機がない、旅に出ていたと訴え続けたように」
「あ…」
「大岡様もわかっておいでだよ。それに、もし、おふみがもっと早く、誰かに相談して騒ぎ立てていたら、無事じゃなかったかもしれない。大黒屋と離れた今、話してくれたからこそ、お白洲に引きずり出せたに違いない。だから、自分を責めたりしないでおくれ。あたしは…本当に本当に感謝しているんだよ」
 富さんに、もう後は大岡様にお任せするほかない。すべてが白日の下にさらされるその日を2人で待とうと言われ、ただ頷くしかできなかった。
「出て行くなんて、もう考えないね? 約束してくれるかい?」
「…は、はい。二度と…そんな、こと、考えたりしません…ず…っと、側にいます」
 実際、私たちにできることは待つ以外にはなかった。時折、療治の際に安藤様がかけてくださる「案ずるな、待っていればよい」の言葉だけが拠り所となった。富さんはいつもと変わらぬように鍼療治や浄瑠璃に出ているが、ため息をつくことが増え、心痛を思うと何もできないのがもどかしい。

 冷たく強い風が吹くようになった11月、近所では「ならいの風に気を付けないとね」と互いに言い合う日々を送っていた。この時期、西北に吹く強い風を「ならい」と呼び、大火事を起こしかねないため、みんないつも以上に火の扱いに注意している。

 そんなとき、長屋から起きた火事がならいの風にあおられ、重四郎が捕らえられている伝馬町の牢屋敷まで燃え広がったのだ。

 富さんと共に出ているときに、その騒ぎを耳にした。
「そんな……牢払い、されたら…逃げてしまう」
「富さん、伝馬町に行きましょう」
「そうだね。ここでじっとしているよりは」
 明暦の大火以降、牢屋敷が火事になった際には3日後に戻ることを約束させたうえで、囚人たちを解放する牢払いが習わしとなっていた。囚人たちの命を考えた慈悲あるしきたりではあるけれど、全員、戻ってくるとは限らない。特に重四郎は罪が認められれば死罪は避けられない身だ。一度、逃げたら最後、戻っては来ない。何て悪運の強い人なのだろう。
 伝馬町は半鐘が鳴り響き、野次馬と牢屋敷から解放された囚人でごった返し、まだ日が暮れる前だというのに店の多くは戸を締めているという奇妙な光景だった。
「あのぅ、あの、畔倉、畔倉重四郎はどこにいるか知りませんか?」
 富さんは周囲の人に聞き始め、私も火事から逃げてきた人を捕まえては同じことを聞いてまわった。
「畔倉? ああ、隅のご隠居のことか。あの方なら、とっくに出て行ったと思うぜ」
 解放された囚人のひとりがそう教えてくれた。どことなく愛嬌があり、囚人とは思えぬ風貌の男はへへっと笑うと走り去ってしまった。
「そんな…ここまで、来て……誰か、誰か畔倉を…畔倉重四郎を捕まえておくれ」
 今にも重四郎を探しに走り出そうとする富さんを必死に止める。こんな騒ぎの中、転んだりしたら、富さんが危ない。
「富さん、そこの店前にいてください。私が探しに行きます」
「え? だめだよ。そんなこと、おふみが危ないじゃないか」
「私なら相手も油断するでしょう。だから」
「ひとりじゃ危険すぎるよ」
「富さんは、父上のため事の次第を見守らなければいけません。そのため……あ」
 言い合いをしていると、目に飛び込んできたのは馬に跨り颯爽と駆けていく大岡様の姿だった。
「おふみ?」
「ええ…大岡様が…馬に乗られて…」
 大岡様は何かに気づいたのか側にいた者に目配せし「白石! 天水桶の陰だ」と鋭い声で告げた。白石と呼ばれた男が天水桶の近くに寄ると、腰の刀を奪おうとする者がいた。だが、それをひらりとかわし、十手で打ち据える。
「おふみ? どうしたっていうんだ? 早く行かなきゃ、畔倉が逃げちまうよ」
「富さん、大岡様が」
 今、捕らえられた者が誰なのか確かめるため目をこらすと、頭上から「城富、安心するがいい」と大岡様の声。
「大岡様、畔倉は…」
「畔倉重四郎は、たった今、捕らえた。我が役宅に連れて行くことにするから案ずるな」
「ああ、ありがとうございます。ありがとうございます」
 大岡様に深く頭を下げ、ほうっと大きく息をついた。富さんを支えるように寄り添うと、小さく「よかった…よかった」と呟いている。背中をそっとさすり「もう大丈夫です、きっと大丈夫」そう呟き返した。

 ほどなくして、三度目になる畔倉重四郎の裁きが行われることとなった。

 差し紙には富さんの名しか書かれていなかったが、家でじっと待つことなどできるはずもない。朝五つ半(9時)、奉行所まで付き添いここで終わるのを待っていると告げると、富さんは笑いながらうなずき、顔見知りになった門番に話しかけた。女房のおふみがここで自分が出てくるのを待っている、決してあやしい者ではないからよろしくお願いしますと頭を下げてくれたのだ。
「そうか。いよいよ決着つくのか! そんな体でよくがんばったなあ。しっかりな!」
「おお。おふみさんのことは任せとけ。おふみさん、座りたくなったらこっちに来て、腰かけたらいい」
 強面の門番2人は笑いながら、そう言うと、裏にある小さい床几台(長椅子)を指さす。3人でお白洲へと向かう富さんを見送った。
 ひとりで待っていたら不安と心配に押しつぶされただろう。門番の2人がそれとなく話しかけてくれたり、時折、座るよう勧めてくれたことで気が紛れた。
 昼九つ半(13時)、門が開き、富さんが戻ってきた。思わず駆け寄り手を取れば、強く握り返してくれる。
「富さん! 富さん…どう…」
「ああ、おふみ…おふみ…」
 涙を流していても、悲壮な感じはない。裁きはどうなったのだろうか。重四郎は。そう思いながら、ふと富さんの後ろに目をやると、穏やかな笑みを浮かべ目をうるませている四十代後半とおぼしき白髪混じりで身なりのいい男が立っていた。


 裁きの仔細については富さんから聞いたり、瓦版を見て知った。
 重四郎は最初のうちこそ認めようとしなかったが、大黒屋の井戸近くから古い血の痕がついた石が見つかったと告げると顔を歪ませたという。
「……そんなもの、奉公人の誰かが」
「手代の文吉とやらが奉公人たちひとりひとり、井戸で怪我をしたことはないか、何か変わったことはなかったか聞いてまわっていたそうだ。そんな者はひとりもいなかったとのこと。怪我をしたことなど隠す必要はないであろう。血の痕を隠したい者がいるとすれば、ただひとり」
 飛脚殺しの下手人の殺害を認めると諦めたのか、賭場を仕切っていた鎌倉屋金兵衛、用心棒の安田掃部、茂吉、藤兵衛、自分を匿った熊坊主、死骸の処理を頼んだ焼き場の管理人・弥十の殺害も次々に認めていく。しかも、自分の剣さばきがいかに冴えていて苦しまずに死んでいったか誇らしげに語ったという。また、重四郎が認めざるを得ないくらい大岡様の調べは徹底されており、どれだけの手間と人と時間をかけたのか計り知れない。
 唯一、頑として認めなかったのが、穀屋平兵衛の殺害だ。この件に関しては、さすがの大岡様も証拠の品や証言を得ることはできず、三五郎の「重四郎が殺した」という話のみ。
「三五郎は大黒屋の主となった俺が憎かったから、そんなありもしない嘘を言ったに違いない」
 うそぶく重四郎の答えを覆すだけの手札はなく、たまらず富さんが口を開いた。
「お願いだ、畔倉さん。本当のことを言っておくれ。平兵衛殿を殺害し、親父の杉戸屋富右衛門に罪をなすりつけた下手人を見つけ、罪を認めさせることができたなら、大岡様の首をちょうだいする約束なんだよ」
「……それは、本当ですかい?」
 重四郎の目がギラリと冷たく光る。
「いかにも。この首は、今ここについてはいるが、穀屋平兵衛を殺害した真の下手人を、この城富が見つけだし自白させた後は、城富に差し出すことになっている」
「あたしは…親父に罪をなすりつけた、畔倉さん、あんたが憎い。だが、同じように大岡様も憎い。無実だと訴えたのに……あのとき、こうしてきちんとお裁きをしてくれていたのなら、あんな風に死ぬことはなかった」
「……首、さらされたと言っていたな?」
「か顔の、皮をはがされ……親父をあんな目に遭わせたのは…畔倉さんと、大岡様なんだ。だから…だから、あたしは……大岡様の首もちょうだいしなければならない。畔倉さん、お願いだ。どうかどうか、本当のことを。あたしに、大岡様の首を…」
 私はそのときの富さんの声を聞いていないけれど、血を吐くような思いの痛切なものだったに違いない。手をついて重四郎に頼むと、しばし静寂の後、くくく…と小さな笑い声が聞こえたという。やがて、その声は大きくなり、あーはっはっはっはっと重四郎の高笑いがお白洲に響いた。
「大岡様、俺が穀屋平兵衛を殺害し、杉戸屋富右衛門に罪をかぶせたってことがわかったら、あなた様の首は飛び、この城富のものになる。それで間違いないですか?」
「相違ない。では、今一度、訊ねる。そのほう、日光街道幸手中宿、穀屋平兵衛を殺害し、その罪を杉戸屋富右衛門になすりつけたこと、認めるか?」
「ああ。その通りだ。三五郎がたまたま杉戸屋富右衛門の煙草入れを拾ってな、これは使えると思い買い取ったんだ。平兵衛を殺害した後、死骸の側にその煙草入れを置いておけば、杉戸屋が下手人と思われるに違いないと考えついた」
「…畔倉さん……どうして、どうしてあたしの父だったんだ? あたしにはそれがわからなくて」
「どうして? 杉戸屋富右衛門は、俺が書いたおなみへの文を平兵衛に渡して邪魔しやがった。おまけに、俺と離すためおなみをろくでもない野郎に嫁がせる手配まで…その意趣返しといえばそれまでだ。俺はどうせ死罪。地獄行きは免れないだろう。ならば大岡様を道連れにするのも悪くない。さあ、大岡様の首を!」
 重四郎が詰め寄ると、今度は大岡様の笑い声が響く。
「城富、ようやった。杉戸屋富右衛門、これへ!」
 現れたのは四十代後半の白髪混じりの男。無実の罪で処刑され首をさらされたはずの杉戸屋富右衛門だった。
「富右衛門、倅は、今は城富と名乗り、城重夫妻と養子縁組をしている」
「…え? 大岡様…何と? 杉戸屋…親父? 親父が?」
「あぁ…城富…城富!」
 富さんと父上である富右衛門殿は互いの体を確かめ合うように抱き合い、その感触や匂い、声から本人に間違いないとわかると、泣き崩れたのだという。
「大岡様……これは、一体、どういうことでございましょうか」
「許せ、城富。穀屋平兵衛殺害の件、他に下手人がいると考えられたが、何の証しも証人もおらず、時が必要だったのだ。同じ頃、死罪となった囚人を身代わりにいたした。いつか、真の下手人がわかったときのため、今まで富右衛門を匿っていた」
 富さんとの再会を喜ぶ富右衛門殿の目の隅に入ってきたのは、苦虫をかみつぶしたように歪めている重四郎の顔。謀られた悔しさと憤怒が赤い炎となって、重四郎を包んでいるようだった。
「さて…畔倉重四郎、何か申したいことはあるか?」
「俺は好きなように、太く短く生きてきた。いい女がいれば抱き、金がほしければ頭と体を使い、酒を飲み、博打も打つ。邪魔する者は排除する。
お前らはああしたい、こうしなければいけないと口先だけで何もしない。思うがまま生きている者をやっかみ、妬み、文句を垂れるしか能がない。誰かがくれるおこぼれを口を開けて待っている鯉や鮒だ! いや、妬まない分、鯉のほうがマシだ。
そうやって惚れた女に近づこうともせず、何かを得るため己を犠牲にすることもなく、何者にもならず、何も成しえず、ただ失うことに怯え、文句を並べ立てて細々と生きていくがいい! そして、ああしてりゃよかった、こうしてりゃよかったと憂いながら死ぬに違いない。俺の、畔倉重四郎の名は後世に語り継がれるが、お前らの名は残らない」
「さようであるか」
 大岡様の一言で幕は閉じた。重四郎は市中引き回しのうえ、はりつけ獄門、火あぶりが申し渡された。

 そう。富さんが門から出てきたとき、後ろで見守るように立っていた人こそ、杉戸屋富右衛門殿、父上だったのだ。

後日

 まさかの再会を果たし、富さんと私はすぐにでも父上の富右衛門殿と暮らす気でいたが、長い間、匿ってくださったお礼をしたいと言われ、引きさがるしかなかった。安藤様や城重夫妻からも、暖かくなったら共に暮らせるよう、ゆっくり準備をすればいいと諭されてしまった。富さんは残念がっていたけれど、焦る必要はなく、むしろ迎える準備をしっかりできるなんて幸せだと言うと、子どものように笑った。
 すべてが終わり、富さんの時は7年前から進み始めたのだろう。浄瑠璃の音色が前にも増して澄んで聞こえた。まだ、わずかな冷たさはあるが、すぐ傍に春の気配を感じる雪解け水のような清らかさ。家で稽古しているのを聞くだけで、うっとりしてしまう音色と声だったので、お呼びが増えたのも納得だ。
 そうした席の噂話で、文吉さんが馴染みの客であった薬種問屋の旦那とお嬢さんに気に入られ婿入りしたと富さんから聞いた。
「文吉さんって井戸で血の痕がついた石を探してくれたお方だよね? ああ、幸せになったのならよかった。本当によかった」
 富さんは自分のことのように喜び、私も心から安堵し、改めて感謝で胸が一杯になった。手先が器用で算術も得意なうえ、人から慕われる文吉さんは立派な旦那になるに違いない。あの日、祈ってくれたように私も祈った。
「どうか、幸せになってください」

 重四郎は本人の言葉通り、類を見ない大悪党として名を馳せ、多くの瓦版が飛ぶように売れ、井戸端や居酒屋など様々な場で人々の口に上った。血も涙もない鬼、重四郎の体には血ではなく蔦が張っているに違いない。そう罵る一方で、賭場などに出入りする男や居酒屋で酔いつぶれている者たちの中では、悪党ではあるが大黒屋の旦那として成りあがったのは見事、最期まで悪党を貫いてあっぱれだと心酔する声もあったという。

 私は不思議でたまらないことがあり、重四郎に関する瓦版が出ると読み、噂話もなるべく耳に入れるようにした。

 重四郎の父、畔倉重右衛門は武士と揉めていた穀屋平兵衛を助けたことが発端で浪人の身となるが、恩義を感じた平兵衛の計らいで剣術の師範につくことができた。真面目で人望もあった重右衛門は弟子も多く、平兵衛も何かにつけ配慮をしてくれたそうだ。だが、病で急死してしまう。重四郎は二代目師範となるが、若さゆえか賭博にのめり込んでいく。すでに母も亡く、諫める者はいない。本人の気性も災いし平兵衛からも厄介者扱いを受け、さらに悪の道へと突き進んでいった。
 重四郎の悪行は自ら言った「邪魔する者は排除する」ことに尽きた。おなみとの仲を邪魔する平兵衛を殺し、例え自分を匿い、手助けした者であっても、悪事を知られている以上は邪魔をしてくるに違いないと殺害している。今、邪魔する者だけでなく、まだわからないこの先の邪魔者を排除する徹底ぶりだ。
 何故、三五郎さんをすぐ排除しなかったのだろう。もし、最初に金を無心したときに殺害していれば……再会したとき。いや、違う。死骸処理に力を貸した焼き場の管理人・弥十を殺した後、重四郎と三五郎さんは別れたという。そのとき、三五郎さんも殺していれば事が露見することはなかったろう。そして、井戸で旦那と会った夜。血の痕を見た私を殺すことなど赤子の手をひねるよりもたやすかったはず。遊女が急にいなくなることなどよくある話だ。お白洲で堂々と嘘八百をまくし立てられる旦那なら、みんなが納得する理由を作り出せる。だが、しなかった。
 目を皿のようにして瓦版を読んでも、三五郎さんを生かしておいた訳は書かれていない。もしかしたら、重四郎本人も何故すぐに殺さなかったのかわからないのではないか。そう考え思い浮かぶのは、私に三五郎さんとの縁談について話した旦那の言葉だった。
「何とか立ち直って、前を向いて進んでほしい。そのためにおふみの力が必要だ」
 あれは本心だったのだと思う。
 共に悪事を重ね、落ちるところまで落ちた2人。だが、それぞれの道を歩き始めると、その差はあまりに大きいものになった。
 三五郎さんが旦那に「ああなれるはずだった自分」を重ねることで、憤りや虚しさを感じていたように、旦那は三五郎さんに「なっていたであろう自分」を見ていたのではないか。言わば、過去の自分の亡霊だ。その亡霊を救い新たな道を進ませることで、自分をも救おうとしたのかもしれない。そう考えると、一度ならず、二度、三度と三五郎さんを排除する機会を逃していることも納得がいく。
 私はそこにひと雫の温かい血を感じてしまう。わずかに残っていた情のようなもの。三五郎さんを殺さずに別れたときから、悪党としての運が尽き始めた。大黒屋の主となり、常にまわりのことを考え、商いに精を出し、驕らず無用な争いはせずという「人としてのあるべき暮らし」を重ねるほど、悪党としての運、悪運を消費し、あの火事の日、すべてを使い果たしたのだ。

 お白洲で謂れのない侮辱を受け、すべてが明らかになった今なお、大黒屋で働いた日々が幸せだったと感じる自分も不思議でならない。
 もし、井戸で旦那と会わなければ、三五郎さんと旦那が再会しなければ、幸せな記憶のまま富さんと出会い、何事もなく平穏に暮らしていたろう。だが、富さんの中にある雪は消えず、時も進まない。父上との再会も叶わなかったかもしれない。それとも、そういう道であっても天は悪事を露見させただろうか。幾度考えても、これでよかった。やっぱりお天道様は見落とさないのだ。そう思うが、あの日々を否定することもできなかった。
 重四郎が悪党であることに異存はない。実はいい人だなんて言い出したいわけでもない。だが、すべてを「どうせこんなものだ」と流し、自分で何とかしようとしなかった私が、初めて「何かしたい」と考え手を動かしたのは、紛れもなく二代目大黒屋重兵衛がいたからだ。それだけは確かなのに、なかったことにしようとした。
 稀代の大悪党だ鬼だと言われている重四郎といて幸せだったなどと思っていいのか。それは鬼に加担していると見られるのではないか。そうではない証しにすべてを拒否しようとし、気づいてしまったのだ。鬼だからと自ら考えず目を背けるのは、怖いから、見たくなかったから、あれは悪夢だと逃げていたことと何も変わらない。逃げても、いずれツケは払う。そのことは身に染みていた。だから、二代目大黒屋重兵衛の元で働く日々は間違いなく幸せだったと認めてしまおう。
 そして、ドキリとする。多くの奉公人たちは、旦那の気まぐれや理不尽な責めに右往左往し、いつも不満を抱えている。だが、その旦那たちは誰かを殺害するような悪党ではない。むしろ店の大黒柱を務める立派な人だと見られている。
 鬼とは何なのか。鬼である重四郎の中にもひと欠片の情があったことと、悪党ではないがまわりの者に理不尽な行いをすることは裏表のようだ。きっと誰の中にも鬼はいる。私にも、文吉さんにも、富さんにも。
 重四郎と富さんはどこか似ているように思えた。それは心持ちや生き様ではない。富さんは言葉にせずとも、ちょっとした心の機微を感じ取ることが多かった。何故、わかるのかと問うと、「あたしは目が見えないから、その分、人の肌や声から感じ取ろうとしているんだと思うよ」と答えてくれた。
 重四郎も相手が喜ぶことや企んでいることなどを不思議なくらい察知した。元からそういうことに長けた、勘の鋭い人なんだろうと思っていたが、生い立ちを知るとそうではないとわかる。相手を思い合うような関係が築けないから、欲望のまま傷つけ、傷つけられる。金と暴力にまみれ血を流し、泥水をすするようにして生きる中で痛みを知り、人が何に苦しみ、喜ぶのかを体で覚えていったのだろう。
 何かの行き違いや不運が重なれば、誰もが重四郎のようになり得る。逆に、もし重四郎のまわりに人らしい生き方や関係の紡ぎ方を導き、寄り添ってくれる、富さんにとって城重師匠のような存在がいたら、鬼にならずに済んだのかもしれない。しかし、そんな「もし」をいくら考えたところで、起こったことは変わらない。
 それならば、この世にひとりくらい、血の代わりに蔦が張っている大悪党、鬼だと忌み嫌われている畔倉重四郎にもわずかに温かい血が流れていたこと、その鬼によって奉公人たちが安心し幸せな日々を送れたことを覚えておこう。誰の共感も必要としない、私の中にそっとしまっておく秘密だ。

 増えてしまった瓦版を竈で燃やしていると、富さんの声がした。
「おふみ? どこだい?」
「どうしたんですか?」
「ああ、よかった。いえね、不意にいなくなったような気がして…」
「ここにいますよ。側にいると約束したじゃありませんか」
「そうだね。あ、親父がね、暖かくなったら、旅がてらおふみの親御さんに挨拶に行きたいと言っていたんだ」
「私の…ですか。でも…」
「おふみを生み、育ててくれたお方だもの。あたしもきちんと挨拶したい。その旅が終わったら、新しい住まいにみんなで帰ろう」
「富さん……そうですね。区切りになりますもんね。今日は寒いから、夜、湯豆腐にしましょうか」
「ああ、いいね。安藤様の療治が終わったら、大岡様の役宅に寄って親父に旅のことを話してくる。きっと喜ぶよ」
「でしたら、お義父様がよろしければ、一緒に湯豆腐を召し上がっていただきましょうよ」
「おふみ、いいのかい? ありがとう」
 富さんはうれしそうに支度をすると、安藤様が頼んでくださった駕籠に乗って出かけて行った。

 まだ凍える冬だ。でも、いずれくる春を迎えるための支度を少しずつ始めよう。 

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