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「沼らせる」とか言う男は辞めておけ

1.“嫌い”な言葉

いくつかの"嫌い"な言葉がある。
「沼らせる、沼る」「元カレ、元カノ」そして「嫌い」
他にもあるが代表的なものはこの3つ。

先に断っておくがだからと言ってこれらの言葉を使用している人を蔑んでいるわけではないし、その人に対しての何かを変えるといったようなことはない。
ただただ、自身はこれらの言葉を使うことを好まない、という話であることを重々、前提として読み進めていっていただきたい。

そもそも我々人間が話す時に行う言語選択というものは非常にその判断軸が曖昧なものであり、自分の心の内とはちぐはぐな言語表現をしてしまうことが往々にしてある。

それが起こってしまうのは言語選択時に起こる2種類の要素が関係する。
1.感情と想いの乖離
2.コミュニティとの親和性の保全

1の「感情と想いの乖離」というは、時々の感情と落ち着いて考えた時の想いというのは中々に背反することが多く、加えてそれら多数は落ち着いて思考した時に出てくる答えがその人にとって本意であることがほとんどだ。

例を下に。

友人や家族など、些細なことから諍いに発展することがあるだろう。
その時に感じる相手への怒り、嫌悪感、不快感。
それらを優先し、それらの感情を発端とした言語選択。
「もう話かけてくるな」「お前なんて嫌いだ」「うぜぇ」「まじでキモイ」

ただ、ほとぼりが冷め、ましてや相手から謝罪なんかがあった時にはこちらもあの言葉は、あの瞬間は嘘ではなかったかもしれないが今もそう思っているかというとそうではない。と言ったような次第になるだろう。
「まぁまた明日ね」「別に嫌いなったわけではない」「もう喧嘩したくねぇな」

ここで特記したいことは、すれ違いを起こしている真っ只中であったとしても「相手のことが嫌いではない」という感情は、失くなっているわけではなく、一瞬隠れてしまっているだけ、ということ。

一瞬のネガティブな感情によってその瞬間で見れば至極正しい、ただ全体で見た時には誤りであったと認めざるを得ない言語選択をしてしまう。

感情と想いとの間で、言葉を選び、並べることで人間は会話を行っている。

2の所属するコミュニティとの親和性の保全というのは、自身が所属しているそれぞれのコミュニティとの関係性を守るために口調や雰囲気、言葉遣いと言語選択が変わるということだ。

こちらも例を置こう。

例えば普段は落ち着いた物言いの人でも「まじで~~~やんけ」「それなww」といったような、今時の話し方、をしている集団に入ると、自然と少しそれらの口調や言葉の選び方というのが似てくる。(浮かないように努力するだいたいの人であれば)

もっとわかりやすい例をあげると、保育園に入るまでは家族の中しかコミュニティがないため穏やかな話し方をしていた息子が、同年代の子と関わっていくと家の中でも「俺」や「キモイ」といったようなことを話すようになる変化がある、ということだ。

それはいずれ口調だけでなく、そのコミュニティで「"ウケ"がいい言葉」というものが発生する。それは2チャンネル用語と言われるようなものを顔も知らぬ人とネット上でやり取りするだけでも一体感が生まれるように、仲間と錯覚させるために常用される手段の一つである。そういった意図で「保全」という言葉を使用した。

自身の内圧的な「感情と想い」と外圧的な「コミュニティとの関係」の間で揺れ動くようにして言語選択を行っているということを理解いただけただろうか。

それらのような形で言葉を選ぶ人間という生き物であるが、ではなぜ私が冒頭述べた3つのワードを好まないか、について説明していこう。

2.なぜ、その表現を避けるのか

2-1.沼

「沼」という表現。
恐らくこれはここ数年で人と人の関係性を表現する際に使用されるようになった。主に恋人や推し、ホストなどの搾取される可能性がある関係性に使用されているように思う。

「抜けたいけど、抜け出せない。本当は抜けたいと思ってすらもいないのかもしれない。でも抜けないといけないんだろうなぁ。まぁ、抜けれませんけど。」

その様子がまさに「沼」のようであり自力での脱出が難しく、体に纏わりつくよう不快な粘りが絡みついてくる。

言葉が流行るということは、現世の人々にとって「しっくりきた」と感じる人が多いということだ。人が人に「沼ってしまっている」様子はまさにずぶずぶと、貶められるようにして浸かっていってしまうのだ。

だからこそ、私はこの言葉にあまり好感を抱けない。

自身の状態が沼にはまっているようだ、というのに表現するのはまだましだ。
ただ、自身に「沼らせる」という人は、どこかその人に対しての「見下し」がその言葉には内包されているようにして思えない。

相手の弱みに漬け込み、要らぬ足枷を自ら通させるような状況に貶め入れ、そしてこう、ほくそ笑むのだ。「自分のことは大切してくれる。でも自分は大切にしなくともよいやつが落ちてきた」と。

そこには誠実性のかけらもなく、あるのは優越感とできてしまった上下の関係。

ましだ、とは言ったが自身を「沼にはまった」という人は「下に見られる」ことを許容している、ということを上記からくみ取っていただけるだろうか。

一つ前の時代の言葉かもしれないが、同じ理由で好意を寄せている相手を「落とす」と表現することも、相手に対する尊重を感じることができないため好んで使うことはない。

ただこれだけ言っても自身も今を生きる者の一人として「沼」という表現にはとても求心力を感じており、その適格さゆえに染まってしまうことに抗うばかりである。

2-2.元カレ、元カノ

これは先ほど述べた「沼」と違って、その時々で私も使用する言葉でありながらも、本来であれば積極的に発していきたい言葉ではない、といったような立ち位置にある。

なのでこれは本当にただの私の主観でしかないのだがこの「元~~」という言葉とそれを使う時のシチュエーション、言い方がとても軽薄な感じが多いように感じる。「過去のあまり思い出したくもないようなどうでもいい相手」といったような雰囲気を感じる。

もちろん、その人にとって嫌な恋で終わったこともしばしば。
素敵な恋の終わり方、なんてものはこの世にはないと言っても差し支えないのかもしれない。

でも、私は違う。今はきっと知ることも、関わることも、そしてもう二度と会うこともないけれど。あの時のあの瞬間の、あのひと時は私にとって人生を彩る一番の理由であったし、心の側にいてくれた数少ない人間の一人だ。

だから自分が使う分には「元~~」というのがどうしても軽く感じてしまう。ただ、その場の流れでわざわざ「昔お付き合いしていた人」みたいに言い換えるのもコミュニティの場を濁すというものだ。

だから、私の中では可能な限り「元恋人」ということが多い。
同じ理由で特定の相手がいるのか、と聞かれた際には「恋人はいます、いません」と答えることが多い。もちろんそう言えない、言わない時もある。

先ほどの言葉にしてもそうだが、人に対しての尊重が自分の中では足りてない言葉だ、と感じるからこそ好き好んで使う言葉ではない、ということだ。

2-3.嫌い

あえて、使うことはある。
ただ極力、使いたくない
そんな言葉だ。

言葉にはそれぞれ「強さ」がある。「嫌い」という言葉は「強い」言葉だ。
これは別に対象に対しての尊厳が感じられないとかではく、もちろん強い言葉を使いすぎると弱くみられるから、みたいな理由でもない。

ただ、その負の感情を一身に注がれたような、攻撃性を身に纏ってしまっている言葉だからあまり口にしたくないのだと思う。

もしかしたらこれを好きな人がいるかもしれないから、とかそんな高尚なことまで考えていない。ただ、自身がこの言葉を使うことで何かこの世には好きor嫌いでしか判断できなようになってしまうことを避けたいのだ。

好きの中にも色んな形があるように、嫌いと一語で言っても「できれば避けたいけど、無理やり進められたら我慢できる程度」なのか「1億あげると言われても嫌だ」といったように色んな形がある。

そして「嫌い」と本当に断言しきることができるものなんて、案外世の中には早々なかったりする。戦争とパイナップルぐらいだ。

だから私はよく「好きではない」という表現を使う。そっちの方が言葉が柔らかい。

全て、これらあげた全てただの自己満足ではあるが、なんとなく、伝えたいことは伝わっているんじゃないだろうか。

3.映る心根

言葉は思考になり、思考は行動になり、行動は人格へとなっていく。
古来から日本で信じられているように言霊、みたいなものは存在するのだろうし、存外人々が思っているよりもはるかに自身の口から出る言葉、というものは自分にとって小さな塵が積もるようにして影響を与えている。

自身の発する言葉、について私が一番初めに考えたのは小学5年生の頃。あまり周りと上手くなじめていなかった私は原因の一つとして当時の担任の恩師に「上から目線のように聞こえる時がある」と指摘されたのが始まりだ。

その頃から言葉とコミュニケーションを見つめなおし、ただひたすらに客観視することに努めてきた。

その過程をえてひしひしと感じるのは選択した言葉によってその人の人格の全てがわかるわけではないが、一部分であることに違いはないということ。

「~~してあげようか?」と相手に問う人はもちろん何かをしてあげたいという気持ちを根幹にして発している言葉でありながらも、やはりどこかに「~~してやる」という言ったような一種の恩着せがましい気持ちが見え隠れしてしまうのだ。

もちろん真心のままに荷物を持ってあげたい、と思いつつもこういった言葉の選択をしてしまっている人もいた。

だからこそ、私はそういった心と言葉のすれ違いや違和感を限りなく少なくしたい。
自身の本音と表現の情報量を極力同じ量、質で相手に伝えたい。
ただただ、それだけなのです。

毎度のことながら文末にて注意書きをしておくが、だからと言ってこれを読んだ人に成長して欲しいだとか、日々気を張って会話しろ、とかを言いたいわけではない。
ただ、聞いて欲しいなんて恥ずかしくて言えないから、書くしかねぇんだ。

長ったらしい文章に、最後までお付き合いいただきありがとう。


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