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愛から逃げた。愛を知らなかったから。#1 愛することを許されたい

◎はじめに

今回のはぜーんぜん創作でもなく、だからと言って実体験書くわけでもなく。最近深く考えたことについて誰かに聞いてもらいたくて。でも、誰かに聞いて、って言えない人間なのに言いたい欲だけは醜く持ってるので。文字で読んでくれる貴方に、ちょっと独り言を聞いてもらえたらなって。気持ち悪くてごめんなさい。

◎世の中には誰かを愛する喜び、というものが存在するらしい。

人は誰かを愛したい、という欲があるらしい。
愛を享受するわけでもなく、愛したからと言って自分に見返りがあるわけでもなく、ただその人のことが好きであり、愛することができている状態に快感や幸福感を覚える、というものである。

あまりピンとはこないかもしれない。人は愛されることを望む生き物だ、と言われると満場一致で納得できるだろうが、人は愛することを望む生き物だ、というのに素直にうんうんと同意するのはいささか小難しい。
しかしこれは恋人しかり、最近の言葉で言う推し、というものに対して向ける欲である、と説明すれば納得して貰えるのではないかと思う。

この二つには愛することに対するリスクの有無、という点において大きな差があり、いっしょくたにして考えるべきものではないがその差について言及するといたずらに文字数が増加の一途をたどるだけなので今回は割愛。

愛することを許されたい。

それを叶えてくれるのが推しであり、恋人なのだ。

そしてもう一つ。容易に想像することができるのが親が子に対して思う愛がある。
しかし親が子に対して愛することを許されたい、と思っている、と聞くと違和感を持つのが大半であろう。
そう。そこに誰かを愛したい、という欲望のもとに行動される「誰かを愛する」という行為の難しさが凝縮されていると言っても過言ではない。
誰かを愛する、という行為は、非常に難易度の高いことであることに人は気づけない。

◎愛したい、というエゴ

そもそも私は子が親から与えられる愛、は当たり前に存在するべきであり、親が子を愛するのは一種の義務だと思っている。
そこにはなんの躊躇もなく、子が親に何かの対価として貰うのではなく、微塵の心配もなく、その愛に疑念を抱くことすらない当たり前にあるべき愛。
そんな愛が、子には享受する権利がある。そう考えている。

しかしながら実際問題親から100%の愛を受けて育ちました、となんの忖度も躊躇もなく言い切れる人がどれほどにいるだろうか。
毒親、という言葉が流行るように難儀な親も多く、そうではなくとも親からの愛、というものを認識し、心が満たされながら生きてきた、と言える人はそんなにいないんじゃないか、と私は思う。

愛そう、としてくれた親は多いと思う。
その分愛の押し付けをしていた親も多いと思う。
私はそれを1つの愛ではあるが、愛ではないと思う。
お金を稼ぎ、食事を用意し、日常を支え、成長を願ってくれる。それも勿論愛ではあるが、そこに心の繋がりを形成できなければそれは愛が届いていないことになる。届かない愛は、愛ではない。ただの自己満足に留まる。愛したい、というエゴなのだ。

ただ愛したい自分が、愛したかっただけ。

こんなことを親という立場になったこともない若年者に生意気に言われる全ての親の立場にある方へ、本当に申し訳ない。
しかし私はその愛に醜さや不正解といったレッテルを張りたいわけではない。
ここで言いたいのはそれほどに誰かを愛する、というその行為そのものの難しさを説きたいのだ。

エゴに流されず、自己満足に終わらず、相手のことを思って何かをする。それだけじゃたらず、常に、何回も、忘れることなく、あなたのため、なんて傲慢な考えのもとにしてはいまいか、問い続ける。

そうして初めて、子はきっと愛を感じてくれる。初めて自身の届けたい愛が届く。初めて自身の愛したい、という欲をぶつけることを許してくれる。
もちろん子の成長や精神年齢などにもよってその愛が届くかどうかは大きく左右されるため、愛が届かないことも多くある。むしろそれが大半なのかもしれない。
しかしながら、多くの人は愛をぶつけることしかしらない。
ぶつける愛は愛するとは言わない。愛で殴って自身が気持ちよくなっているだけで、人を殴る暴力となんら変わらない。

エゴを自覚した上で、適切な言葉で、適切な表情で、適切な関わり合いの中でやっと、少しずつ浸透していくように届き、伝わる。
そうやって初めて、誰かを愛することができている、と言えるのだ。

これまでさんざんに親が子に与える愛について述べてきたがこれは恋人にあげる愛、というものについても全て置き換えて考えることができる。

人を愛する、という行為はこれほどに難しい。

では何故それほどに難しいのか。
知らないからだ。
正しい人の愛し方を知らないのだ。

では何故知らないのか。


愛されたことが、ないからだ。

◎愛という暴力

愛することが難しい、というのには大きく分けて二つ理由がある。

1つ目は愛されたことがないから、どのようにして愛を届けるべきかがわからないのだ。正解がわからないから、その欲に振り回されるままに愛をぶつけてしまう。ただでさえ難しいことを、欲望に従うままに行動してしまう。

2つ目は、そうやって愛されたことしかないからだ。DVを受けた子どもが自身の子どもにDVをしてしまう、という話は珍しい話ではない。原理としてはそれと同じである。それしか知らない。知らないからできない。わからないのだ。

愛されたことはあるけれど、適切な愛ではないため本当の愛は知らない。しかしながら似たような愛は受けたことがあるのでそのようにしか誰かを愛することができない。

といった次第である。

人を愛することができるのは、愛されたことがある人だけなのだ。

愛されたことがなければ
人を愛することすらもままならない。

愛する、ということに秘められた残虐性、その自分勝手さ。
未熟な愛は誰かを傷つけ、拙い愛は何かを奪う。

今回は愛することに主に焦点を当てた。
次回にて愛されること、を深堀していく。




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