見出し画像

土曜クラスで豊島農民福音学校のカリキュラムを学んでいます

淀みなく講話が続く中、わたしが見ていたのは言葉の音色でした。講師の体験を元にした農業の話は説得力があり、独自の解釈もなるほどと思わせるユニークな展開でした。活動熱量の高い講師に、その場にいた人もグイグイ引き込まれていたと思うのです、わたしを除いては。

わたしは盛清さんを見ていました。講師の話を聞きながら、どう感じているのか、表情から読み取れるかと思ったのです。盛清さんはうなずくものの、微塵も批判的な表情はしません。すべてを静かに受けて止めているようでした。

わたしは流暢だった講師の話がループし始めた時から懐疑的に聞いていました。講師の事業には苦労や失敗もあったろうに、そこを見せずに成功体験だけを語るのは老害ではないか。内容は自慢話のような気もするけれど、人前で話し慣れている講釈のうまさが一方的になりがちでした。場所を移した夜の部は、対話になったでしょうか。助言でなく、共に気づくようなやりとりが生まれたなら、講師が山形から来てくださった余韻がいつまでも残ることでしょう。

この日わたしは、講師が土曜クラスを応援してくださっていることに感激しました。講師の言葉は、豊島農民福音学校が土曜クラスとして今も続いていることを賞賛していました。わたしは港へ送ってもらう車の中で、「いつか土曜クラスの修了書がもらえるかも!」と盛清さんに言いました。

盛清さんに豊島農民福音学校の話をしてもらうたびに、わたしは「過去」の出来事として聞いていました。豊島農民福音学校の口述を、聞き書きしなくてはと勝手に思っていたのです。ところが、講師が昼食前のお祈りで「土曜クラスを続けている盛清と夫人、一麦の未亡人に感謝します」と言ったことで、いっきに霧が晴れました。過去の口述が、今の学びに変わりました。今、わたしは土曜クラスで、豊島農民福音学校の今期カリキュラムを学んでいます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?