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引き受ける覚悟はあるのか、なんとかやり過ごそうとしていないか

第2波か、高松でクラスター発生か。「野球でいうと2回表。数年間の長期戦になる」と北海道大学大学院の西浦博教授がコメント7/10。今週の数字を見聞きしながら、図書館で借りた本のページをめくると「引き受ける覚悟はあるのか」と脳内変換した文字が読み取れました。年明け以降の変化を、わたしは「なんとかやり過ごそうとしていないか」という問いが生まれました。

表に見えているものだけが全てではないと、アニメ「ライオン・キング」のセリフが強烈な記憶になっています。厳密には「見えるものの向こうを見よ」と言うセリフだったようですが。今の現象はどう進むのか、どう変わらざるを得ないのか、その最適解は自ら見つけるしかないようです。

日経新聞の「私の履歴書」、2020年2月は樂直入(陶芸家・十五代樂吉左衞門)氏でした。芸大を目指すあたりから連載を読み始め、バックナンバーを切り抜きました。パリ時代の見聞はアーティステックで、樂焼の創作過程は前衛的。代々の伝統技法を守ることが役目と思いきや、じぶんを追い詰めて作品を求めるストイックさは鋭利な刃物のようでした。扱うものは土、その精神は鋼。樂氏の十五代目は襲名ではなく、創作の踏破です。

本「13歳からのアート思想」に利休の件があります。
著者の末永幸歩さんによると

《黒楽茶碗》は「デュシャン顔負けの問題作だった」
                                                    ■引用 P123 「13歳からのアート思考」

利休は《黒楽茶碗》から「視覚で愛でることができる要素」をあえて排除し、「視覚」ではなく、「触覚」で楽しむ茶碗を作ろうとしたのではないか
                                                   ■引用 P126 「13歳からのアート思考」

茶碗の鑑賞方法がとびきりわかりやすい記述です。樂焼を、今の作品を見てみよう、それからどう感じるか。体験したくなりました。視覚情報よりも触覚による感じ方を優先です。ダイアログ・イン・ザ・ダーク ( DID )のアテンドの方々は、触って触って漆茶碗のカーブや今治タオルの商品開発に携わっています。彼らは音でお風呂の湯量がわかります。

見えるものだけでなく、身体機能をフル動員せよ感覚機能を取り戻せ。肌感覚に同調するな。通念はないのかもしれません。アートとはなんぞやと言う定義は、じぶんに。ちょっと前なら「自由に生きよう」とスピ系に好まれていましが、時流は変わりましたね。分水嶺の今。




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