瞑想とは光を求めるためだけにある

陰と陽。

四柱推命の世界でも風水の世界でも基本的な原則としては五行理論を基にして展開していきます。

五行それぞれにさらに陰と陽があります。これは陰と陽があって、五つのエレメントがある。というふうに理解されていることが多いようですが、ほんとうはそうではなくて、たったひとつのものが陰を呈し、陽を呈する。そして五行の木行、火行、土行、金行、水行を呈するのです。

ですので、ゴレンジャーみたいにアカレンジャーとアオレンジャーがいるように木行と土行があるわけではない。むしろゴレンジャーが一番最後に怪物にぶつける爆弾、ゴレンジャーのエネルギーを合致させてつくった爆弾。それが世界を現していると言える。

ゴレンジャーのように別々に分離しているものはどちらかというと世界を構成する要素としても甚だ疑わしいものです。

最近では瞑想なるものが流行しているようですが、この瞑想というものも誤解されている部分が多いようです。いろいろな人がいろいろなことをおっしゃっていますが、瞑想の目的はたったひとつ光に出会うことだけです。

瞑想することで人生を好転させようとか、好転させるという意味の具体案としてお金持ちになるとか、ステキなパートナーに恵まれるとか、学校の成績がよくなるとか、人間関係がよくなるとか、などなど・・・。そのために瞑想をやろうという人も多いようです。

瞑想をやること自体はいいことです。

起きていながら、意識がある状態でいながら、目を閉じることができるのは人間である証明です。人間はある意味において動物でありますが、動物とちがう点として大きな特徴は、起きているときに意識的に目を閉じることができるということです。

人間は起きているときに意識的に目を閉じて、思索にふけったり、それこそ瞑想したりすることができます。

ということは、反対に言うとそれをしていない人は動物的な部分が多いということです。人間というよりは野生動物的な感覚なのでしょう。時間がないという人もおられるとは思いますが、意識的に目を閉じる時間を作ったほうがいい。もしそれでいつの間にかウトウトとしてしまうようだったら、そのままうたた寝してしまったほうがいい。よほど疲れているのですから、まずは回復したほうがいいのです。

しかし、そういうこともできないから一生懸命に目を開けて、携帯電話を構ったりしながら起きようとしているのかもしれません。

それはほんとうは外の世界のことなので、自分とは関係のないことなのです。それよりも瞑想し光を見つめることが大事です。

陰と陽。

陰と陽は男性と女性との表現されることがあります。陰と陽。男性と女性。これって半々なのがわかりますか?この場合の陰と陽。そして男性と女性には何の因果関係もありません。

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男性がいるから女性がいるわけではないですよね。もちろん男性もいるし女性もいます。しかし男性がいるから女性がいるわけではないですよね。男性ばかりでもいいし、女性ばかりでもいい。

この場合、女性であろうと男性であろうとそこには分離があり、分離があるから半々なのです。よくて半々。勝つとか負けるとかです。勝ち負けも半々ですよね。勝負の行方はいつも半々。

ということは、自分が自分なんだ、オレは男だ!ってやっていると半々なんです。全体から見ると半々なんです。ですからいつも疲れている。だって半々なんですから、疲れますよ。消耗もします。

ゴレンジャー的発想はいつも欠けていて、不足していて、満ちることがない。いつも足りないんです。足りないから不満だし、安心できないし、こわい。こわいから相手を先に攻撃するし、相手を許せないし、それでもやっぱり不安になる。

光があって闇がある。これは先の意味での陰と陽、男性と女性ではありません。光と闇は完全な因果関係です。光が存在するから闇が存在します。闇があるから光があるわけではない。光が原因で闇が生まれるのです。光に対して何かの遮蔽物が存在した時に闇が生まれます。

夏の暑い日に太陽が燦燦と照らしています。そこには影ができます。影、先で言うと闇ですね。影は光があるからできます。日が暮れて、太陽が沈むと影も消えてなくなります。光があるから影や闇ができるのです。これは完全な因果関係です。

目を閉じて、そこに闇が拡がっていたらそこには光があるはずです。そうしないと闇は存在できないのですから。お先真っ暗、人生は暗い。全部光がある証拠です。

動物は起きてきて目を閉じることはできないと言いました。ただ光には寄ってくるんですよね。虫もそうですし、夜中に田舎道でクルマを走らせているとタヌキとか飛び出してきて危ないのなんのって。光は動物を集めるんですね。

というか、光を求めるのは本能なのでしょう。

そういう意味では、瞑想をして光を求めるのは本能を鍛える行為でもある。本能というのは本来の能力という意味です。

光があるから闇がある。じゃあ、あなた自身は光でしょうか?闇でしょうか?私探し、自分探しはもう必要ないのではないでしょうか。

光を得ようとすること、光を探そうとすること、光でありたいと思うことは本能なのです。

目を閉じて、光を見つめるだけのこと。

目を閉じて、幸せになりたいとか、お金持ちになりたいとか、成功したいとか、そういうことを言っている場合ではないのです。

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