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背骨が勝手に思うこと

2019年に書いた記事です。

現在のお店が置かれている状況とは異なるとは思うのですが、感受性というものにとどくサービスを提供できるお店が残っていくのではないかな?と思います。

心を込めたサービスをとか、お客さまのことを考えたサービスをというものの、心もお客さまもその感受性によってまったく異なるのです。

心を込めた、お客さまのことを考えた、とお客さまに思ってもらえたらそれでいい。それがオートマチックであっても無意識的にでも。

わたしたちは好きなものやキライなもの、嗜好品に至るまで自分の好みは自分だけのものだと思っていますが背骨の感受性からある程度の分類されます。
自分が好きだと思っていることも単に背骨の問題だったりするのです。

どうしてもこの人は鼻につく。この人の好みがわからない。同じことを言ってもどうしてこの人には伝わらないのだろう?

それは単に背骨の問題だったりもするのです。


あなたが社会を憂いているときに隣りの人は夕飯のメニューを考えているかもしれない。それは憂国の精神が足りないのではなくてただおなかが減っているだけ。考えれば考えるほど意気込む人もいれば、考えれば考えるほど何かを口に入れたくなる人もいる。

ただ好きか嫌いかで命を懸けれる人もいれば、あいつに勝ちたいからという理由だけで命を懸ける人もいる。


ほんとうのオーダーメードってどういうことだろう?一律のもので「こんなものか」と自分自身を落とし込みながら、一方では個性を叫ぶ。そもそも人間というものは矛盾に満ちたものだから、そんなものなのかもしれないけれど、それほど聖人君子でもないのにもかかわらず、寛容さというものは失いがちだ。

自分はどこかに分類される。そういった所属欲求があるものの、完全なる孤立化は嫌う。そして同じように十把ひとからげに扱われることにも反発する。


腰椎1番に特徴のある人が腰椎5番に特徴のある人のことを理解できないかというとそんなこともない。理解はできる。けれど、ふとした時の反応や受けとり方に違いがある。知識がないと、知っていないと「どうしてこの人はこういう反応をするのだろう?」って急に理解できなくなる。わからない、信用できない、普通ならこう思うはず。それはすべて発する側の勝手な普通。理解できないのではなくて知らないだけ。それだけで排除しようとする。

「こう思うだろう」そう思わないのが背骨から現れる特徴の違いである。

ピンチの時に、身構えるのもヘナヘナと腰を抜かすのも背骨の違いである。そこに精神とか根性はないのです。

単にそれだけのことを知らないだけで、寛容さを失い、誰かと争ったり、誰かを信用できなくなるのはやめたほうがいいと思います。

自分が思っている普通とか常識的なものって、身近な人と比べてみても違っていたりする。「この人ってすごいと思わない?」って言うだけで「ふ~ん、そうなんだ」って無意識的に好き嫌いを判断している人もいれば、yes、noどちらを返答したら損か得かを勘定している人もいれば、「この人ってすごいと思わない?」って言うだけで負けまいと鼻息を荒くする人もいる。

えっ!それだけのことで?っていうことって意外と背骨に隠れています。



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