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我を忘れずにいることの意味

 困っているときは特にそうなのですが、自分都合の話になりがちになります。それは仕方のないところもあります。その悩みでごちゃごちゃになっている。悩みが悩みを生み、どこから手を付けていいのかわからなくなります。精神的に強い人、思い切りのいい人は「えいや!」ってやってしまって解決の糸口をつかんだり、さらに悩みの種を蒔いてしまったりします。

 整体操法なんかをしていると身体だけでなくいろいろな相談をしてくださいます。ご本人の身体のお話なら当然のことですが、家族の健康問題のお話や友人の健康問題の相談なども受けます。健康に関するご相談ならまだいい方で親戚の結婚の日取りまでも相談されます。陰陽五行から考えますとそういったことにもひとつの回答がありますので、そういったご相談をしてくださるのもうれしいです。大歓迎です。

 ご相談の重さもひとそれぞれです。内容よりも重さが違う。第三者から観て「こんなこと?」って思う内容でも、そのひとからすると大きな問題だったりもします。反対に「よくぞ、それで・・・」って思うことでも大した問題でない場合もあります。悩みの内容でその重さを推し量ることはできません。そういった意味合いで言うと、お話を聞きながらどこかで俯瞰した自分がいます。我を忘れずにいること。とても大切です。


 平常心を保つことができるから。
 身体的コンディションも大事ですがメンタルの安定性というのはパフォーマンスを発揮するのにとても重要だと言われています。自分の持つパフォーマンスを最大限に発揮できると結果がどうあれ悔いを残すことはありません。ある意味で結果が出なかったのは自分の力が足りなかったからだと奮起することもできます。力が発揮できずに結果が出なかったというのは辛い話です。
 
 平常心でないと視野が狭くなります。平常心だと気がつくような落とし穴、矛盾点、小さな変化も平常心が失われていると気がつくことができません。そこから導き出されるものは過去の経験や事例に基づいた「ありき」のものになってしまいます。導き出されるものが「ありき」なわけですから、気づきを得て、新たな経験を積み上げることもできません。

 平常心を保つことができますと先ほども言ったように視野が広くなり、パフォーマンスが最大限に発揮できます。そうするとどうなるかと言いますとアイデアが生まれます。アイデアと言うのは単なる思いつきのこともあるのですが、実はわたしたちはまったくのゼロから何かを生み出すことはほとんどありません。他の人からしますと斬新なアイデア、突飛なアイデアに見えてもどこかしらにごくわずかな種が蒔かれていて、芽が出るのを待っている状態なのです。そのごくわずかな息吹を感じることができるのも平常心を保ち、視野を広く持てているからとも言えます。アイデア自身もわたし自身と言えます。アイデアは等身大の自分です。大きくも小さくもない自分。そうではないアイデアはやはり単なる思いつきと言わざるを得ません。


 流されない。平常心を保つに近い表現です。我を忘れずにいると矛盾しているように感じるかもしれませんが、問題の帰結するところがわかるということがあります。そもそも悩みというのは現在起きている悩みと過去の悩みとまだ起きていない未来の悩みがあります。それをあっちに行ったりこっちに行ったりタイムスリップしていて複雑化しています。それを同じように時間旅行をしていては悩みの悩みがわからない。自分の意思を保つことができることにもつながります。


 我を忘れずにいよう、ということは我を忘れてしまう人が多い、わたしたちは我を忘れがちだということになります。ほんとうにそうだろうか?という疑問を持ってみます。「我」というものを忘れずにと言いますが、そもそも「我」とは何だろう?「我」を忘れた人は概して余裕がありません。パフォーマンスも低く、落ち着きがなく、視野が狭く、アイデアを生むことがありません。その状態でものごとに当たっていますので余裕なんてあるはずがない。

 行動もパターン化し、思考も同じことの繰り返しです。グルグルいつもいつもそこを廻っている。大きくなるのはおなか周りと態度だけで何も変わったりはしない。そういった状態ですので感情も不安定でいつもイライラしていて不安に苛まれています。不平不満を述べだすと止まらない。

 これって「我」を忘れているのだろうか?反対に「我」にしがみついている状態なのではないだろうか。

 「我」っていわゆる「自我」っていうものとは違っているものなんだろうなというのが想像できます。「自我」が「我」であると仮定すると「自我」が生むものって「我」を忘れた状態のもの。「自我」に囚われて行動しなさいと言うものではないと考えられます。

 このときの「我」を忘れないといことは「自我」を忘れないということでないことがわかります。


 たとえば飲み会で酒に酔ってしまい、我を忘れて余計なことを言ってしまった、という例があるとすると、この場合の「我」とは理性とも訳すことができます。ということは「我」とは「理性」なのでしょうか?確かに瞬発的なことに関して言いますと「我」=「理性」も正しいかもしれません。しかし「理性」を超越したものでないとアイデアは生まれません。「理性」は微々たる変化を感じ得ることができません。


 おそらく「我」というものはこれまで意識してきた「我」とは違うものではないだろうか。わたしたちはこの「我」というものを探求する必要がある。

 「我」を知らないからこれほど不安だし心配がいっぱいなんだ。こわくてこわくてブルブル震えているんだろう。こわいからもっと怖がっている者を探す。もしくは作るんだな。暴力を使ったり権力を使ったり、悪口を言ったり。自分よりも怖がっている人を作ると自分は少しでもこわくはなくなるから。一時的に恐怖は消えるから。そんなことしないで「我」を忘れないようにすればいいのに。過去からも未来からも恐怖はやってくる。でもほら、いま現在この瞬間は大丈夫じゃないか。そりゃ一寸先はわからないけど。そのときだって柔軟だから動けるんだよ。


 「我」を忘れるなと言うことは「自我」ではなくて「光」を忘れるなということなのです。

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