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「役に立つ」があなたを縛り付ける

 むかし、きかんしゃトーマスという番組がやっていて、その頃にはある程度の大人になっていたぼくが直接知ることになったのは親戚の子どもがハマっていたから。親戚で集まったときにはじめは子どもが話題の中心になる。子どもが大きくなったとか、こんなことができるようになったというのが親戚づきあいのはじめの話題。徐々に近況とかになり、懐かし話になるのだけれど、はじめは子どもがきっかけをくれる。そのときに親戚の子どもが手に持っていたのがきかんしゃトーマスのおもちゃ。それからしばらくして、ぼくにも子どもが生まれて、何度かテレビを見る機会を得た。

 きかんしゃトーマスは「役に立つ機関車」になることが目標になっている。お客さんとか経営者とかきかんしゃ仲間のあいだで「役に立つ機関車」と呼ばれたい。そのためにがんばっているのだけど、その中で起きるバタバタ劇が面白くさせている。トーマスは「役に立つ」ように努力する。トーマスに共感しやすいのは「役に立つ」という部分とトーマスが織りなすドタバタ劇に自分を照らし合わせるからだろう。

 ぼくたちは大なり小なり「役に立つ」ようになりたいと思っている。いい生活がしたいとか、お金持ちになりたいというようなこともあるが、そういった物質的な欲求だけで満足しない。誰かに認められたいとか賛辞されたい、SNSで「いいね」「すき」がたくさんほしいというような欲求は「役に立つ」という欲求に限りなく近い。世の中、世間、社会、会社、学校、組織などで活躍したい。ぼくたちはおそらく無意識に近い形で願っている。

 「役に立ちたい」と願うことは何かにつけて自分自身を苦しめることになりそうだ。自分自身を切り離し、どこかへ流れていくことを阻止する。無意識的に存在する「役に立ちたい」という欲求はアンカーとして存在している。いつまでも同じところを行ったり来たりしているように感じるのはアンカーに引っ張られるからなのだろう。老子は「役に立つ人間になるな」と述べている。「役に立たなくてもいいんだ」ということからはじめるのもいいのかもしれない。


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