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案外「いま」にいなくて、「いま」から出発していないのかもしれない

 強烈な一日があったとしても、徐々に徐々に風化していき、いつもの日常に戻る。強烈な一日を昨日のことのように、いま目の前で起こっていることのように記憶し、再生し、いいにつけ悪しきにつけ、保ち続けることができる人もいる。そのときは吐き気がするような思いだったとしても、今日またぼくたちはご飯を食べる。美味しいものを物色し、食べる。強烈な出来事を思い出しながら、誰かに話しながら、食べる。場合によっては「食事中にする話じゃないんだけど」って断って、話しながら、食べる。

 これまでに点在する記憶を反芻すると、「いま」の自分に近いものから味がしない。味がして、においがして、より強烈な一日として再生されるのは自分からなるべく遠い記憶になる。遠いものほど近くに感じる。これもまた不思議な体験だなと思う。記憶には短期記憶と長期記憶とがあるが、体験や経験。強烈な一日というのは確実に長期記憶に分類されるし、エピソードとしても申し分ない構成になっている。それなのにそれらの中で距離感があり、なおかついまの自分からすると本来なら近況として近くの強烈な一日を紹介したいと願う。

 年をとると昔の話しかしなくなるひとつに、普段は大した一日じゃないから、というものもあるのだろうと思う。若かりし頃のキラキラした一日一日。毎日が勝負だったかのようにギラギラした一日。そういったものが失われるから、年をとるとどうしても昔の話ばかりになるんだ。

 思い出すことでいつでも過去に飛ぶことができる。「こうなったら・・・」って考えることで未来に飛ぶこともできる。その出発は「いま」の自分と思っていたけれど、出発点の認識が間違っていたのかもしれない。ぼくたちは案外「いま」にいなくて、「いま」から出発していないのかもしれないな、って思うんです。「いま」という時を過ごしながらも「いま」にいない。


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