別の角度から眺めてみる
前に来たことのある場所、風景。毎日通っていたとか通い慣れたというほどのお付き合いではなく、そうかと行ったことがあるというほど疎遠でもない。
そんな場所であるはずなのに、ほんの少し角度を変えると全く別の場所のような気になります。
そんなことに気がつくと、なんか得したような気持ちになってうれしくなります。
へぇ〜こういう風に見えるんだ。こんなところがあったんだ。
なんて思ったりもするけど、じゃあ別の機会にわざわざこの角度からの景色を見ようという気にはならない。
ただその景色が持っているポテンシャルというか、裏の顔。それを知ってニヤニヤしている。
でもこれってぼくたちも一緒で、誰だってこういう人っていうそもそもの性質と他人から見た第一印象的なものがある。
だいたいはそこまでわかるお付き合いができるといい方で、何年も何年もお付き合いしていてもその域から脱することはなかなかない。
でもその奥にはその人しか知らないその人が隠されている。もしかしたら、その人自身でさえ、気がついていないその人が隠されている。
これはとある年月日、時刻の四柱推命命式です。
この中で左から2番目、上段にある庚(かのえ)が、その人自身。でもその他の1番右にある庚(かのえ)もそうだし、隣の辛(かのと)もそう。1番左の己(つちのと)。子(ね)、巳(み)、申(さる)、卯(う)。
それぞれ全てがその人を作る要素になっている。
これだけでも8つの要素が混ざり合っているのだから、その人自身が複雑なのも頷ける。申(さる)とか巳(み)とかはさらに3つの要素にわけられる。
そうなってくるともう訳がわからなくなる。
それらが、表に現れたり潜んでいたりするから、ある一定の角度からパシャリと映されたその人なんてその人ではない。
ぼくにはこれが向いているんだ、わたしはこれが好きなの。自分で思い込んでいることさえ、全部ホントは違うかもしれない。
自分というのはもっと多様性があるものだし、紋切り型に決まっているものでもない。
それが自覚できている人は幸せなのかもしれないが、その自覚もどの程度かあやしいものだ。
誰かにレッテルをはられても、こうだと決めつけられても、いつまでもそこにいる必要はない。
決められた方が、何かに縛られた方が楽なような気もするけど囚われすぎると不調和が生まれる。
自分というものは案外奥が深いものです。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。
読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。