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一流のオーディエンスを目指して~バッハ・コレギウム・ジャパンのマタイ受難曲を聴く

これも、聴いてから少し時間が経ちました。

また、ミューザ川崎へ。前日はコバケンさんと前橋汀子さんのコンサートでしたから、期せずして、連日のミューザ行きとなりました。どれだけミューザが好きなんだろう(笑)。

さて今回は、バッハのマタイ受難曲を初めて全曲聴くことになりました。感想は、まず、とにかく長い。長いと知っていたけど、実際に聴くとやはり長いです。ヤバかった。

一部は有名な讃美歌になってるけど、ほとんど知らない上に休憩20分入れると軽く3時間越えるんですから、一般的なクラシックコンサートと比べてかなり長いです。体力勝負。演奏者、指揮者はへとへとでしょう。流石に前半、後半は演奏者は入れ替え。歌手は歌いっぱなしじゃないとはいえ、入れ替えなしの苛酷な試練(笑)です。

もちろん聴く方も大変ですが、ヨーロッパの国ではイースター前の受難節には色々な受難曲が街に溢れるとか。
そして、古楽器を使った本格的な演奏に鈴木雅明の指揮なんです。長い、大変、なんて言っていられない。聴かねば。

マタイによる福音書の26~27章をそのまま音楽にしたダケ、、、というところがバッハの敬虔なプロテスタント信仰を感じます。バッハは教会のオルガニストで、敬虔なプロテスタントキリスト教の信仰のある人でした。それを、これまた生粋のプロテスタントキリスト教の信仰の持ち主の鈴木雅明が振る。素敵過ぎます。音楽は音だけで出来てると思わない私には、最高なんです。

字幕を見ながら、ふーむ。たぶん(笑)聖書のとおり。って、思っていました(笑)。

物語は、イエスによる受難の告知から始まります。私が好きなベタニアの女による塗油。これは、世の中から排除されている人々の集まるベタニア村の一人の女が、ナルドの香油をイエスの足に塗る場面です。高価なエッセンシャルオイルを惜しみ無く足に使うことを弟子に非難されますが、イエスは、これは、自分の葬りの準備をしてくれていると言う有名な場面なのです。

後半はペテロの否認、ビラトによる尋問、そしていよいよ磔刑となり、埋葬されます。山場ですね。イエスは神の子どもながら人間の肉体を与えられ、ローマのやり方の死刑である磔刑に処せられるのは、ローマに支配されていた当時のユダヤ人には恥なのです。こうした背景がわかると、イエスの十字架の苦しみが幾重にもなっていると理解できてきます。

音楽的には、古楽器は全くわからない私にとっては、こんな本格的なコンサートは理解できない、知らない、わからないことが多すぎて勿体ないんですが、やはり本物は良いなと思います。ヴァイオリン、ヴィオラ、ファゴットなんかはどれだか何とかわかるとしても、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオローネに至ってははどれだか?また、奏法や表現も何だか聞きなれている古典派以降とは違います。バロックを聴く機会って、あまりありませんし。

しかし、素人としては演奏の素晴らしさは美しい音色を聞けば充分で、私はとりあえず良いオーディエンスではないかと思いますが、如何でしょうか。とにかく、すごく心に響きました。
特にソロ歌手は方達の素晴らしさに感動しました。エヴァンゲリスト役のトマス・ホップスの抜きん出た実力は、私にもわかります。長いコンサートのたくさんの出番にも関わらず、歌声の伸びやかさ、艶、豊かさの素晴らしいこと。男性アルトのベンノ・シャハトナー、バスの加来徹、ソプラノのハナ・ブラシコヴァも、本当に綺麗に歌って下さいました。何も知らなくてもオペラとは明らかに違う、宗教音楽だとはっきりわかるでしょう。何しろ、清潔感が凄い。あの凄い清潔感は、どうやって出すのかしら?ただ、上手ければ良いというわけではなく、音楽の理解と、最後は人間性でしょうか。歌っている人の話を聞いてみたいですね。鈴木雅明の指揮も誠実で丁寧で、人柄を感じました。指揮者って、自分では演奏しないだけに、全人格をかける必要があると思います。鈴木雅明なら、そこは間違いない。
アンコールに、オルガンを弾いて下さり、満腹の上に満腹、というありがたいことでした。
大きな声ではいえませんが、途中、何回か気を失いかけ、記憶がありません。トホホ。楽しみにしていて張り切っていたのに、残念無念。当日はこの受難日から3日目のイースターでした。朝はイースター礼拝に出てからいったん帰宅してからコンサートに向かうというハードスケジュールではありましたが、船をこいでしまうなんてね。
先々、こういうコンサートを聴く機会はないかもしれませんので、大変良い機会をいただきました。感謝です。







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