川上弘美『某』レビュー「誰でもない誰か」であり続ける人生の集積

川上弘美は初期の頃から好きでよく読んでいる。女性作家の中では一番好きな小説家かもしれない。輪郭がぼやけてしまうような人間の世界からちょっとずれた不思議な感覚を描く。つねにあやふやで曖昧なのだ。それだけ人間が捉えどころのないものだという前提が彼女にはあるのだろう。そのふわふわとした現実と別の世界の間を行き来するような感覚になんとも惹かれる。男性作家では村上春樹が現実とは別のパラレルワールドをよく描くが、それとも違う。輪郭が滲んでしまってぼやけるような曖昧さをひょうひょうと生きる感じがいいのだ。

さて久しぶりに読んだ川上弘美の『某』もまた、「誰でもないもの」の話だった。まさに『某』というタイトル通り、名前が次々と変わっていく名付けようもないもの。人間なのか宇宙人なのか、どこから来た人なのかもよく分からない。SF的ともいえるが、そういう明確な感じもない。「私とは何か?」、「私はどこから来たのか?」、「私とは、とりあえず誰かを演じているのか?」、「誰でもいない誰か」という存在論的なテーマ、哲学的な小説でもあり、「生きるとは何か?、「誰かのために生きるとは?」、「人を愛するとは何か?」、そんな本質的な問いを突きつけてくる恋愛小説にもなっている。

最初は記憶喪失もののように始まる。病院の受付に来たときから「年齢も、性別も、名前も、わからない」ものとして、医師の前に現れる。医師は「あなたのアイデンティティーを確立しようではありませんか」と言い、丹羽ハルカという女子高生を名乗ることにする。名乗ることによって、丹羽ハルカという女性になっていく。その存在が停滞してくると、今度は野田春眠という男子高校生になる。性欲を持て余し気味で、次々とセックスをしまくる男の子。愛の無いセックスばかりしてまわりに相手にされなくなると、山中文夫という学校事務職の31歳の男性になる。そしてガールズバーで、ある女性に彼が惹かれていくうちに、その女性はかつての丹羽ハルカそのもので、自分の分身を好きになったに過ぎないことを知る。惹かれていた執着とは自己愛だった。そしてマリという女性になって、はじめて愛というようなものを知る。相手は「夜逃げ屋」で、夜逃げして過去を抹消して生きているナオという似たような存在。ナオは、「誰でもないもの」であるマリを受け入れ、二人は寄り添うようにしてナオが死ぬまでの16年を一緒に暮らす。

そんな風にして次から次へと別の者になっていき、キャラクターを獲得して、変えていく。それはまるで小説家が人物造形をして、それぞれの物語を書いているようでもある。人間とは、それぞれのシチュエーションで誰かを演じているに過ぎないのか?マリは奇妙なアルバイトをする場面がある。物語を売る仕事をしている亀山さんに頼まれて、占いに来た人たちの話を聞きながら物語をつくる仕事だ。しかも「物語にならないような物語」をマリは物語にするのだという。まさに、この小説そのもののような仕事だ。「アイデンティティ-とはなにか?」。それはひとつの一貫性のある物語ということだろうか。しかし、現実はバラバラのとりとめのない物語の断片を私たちは生きているのかもしれない。物語にならない物語。

マリはナオを失ったことで、喪失の哀しみと「死」という限りある時間を認識する。この「誰でもないもの」たちには、同じような仲間がいることが分かり、小説の後半では、その「誰でもないもの」たちが、それぞれ人格を変えながら集まり、惹かれ合い、彼らの間で子供を産もうとする。人格を変えながら200歳も生きている仲間もいて、彼らは死ぬのかどうかも分からない。そして仲間が子供を産むことに成功したことで、マリであり、ラモーナであり、片山冬樹であった者は、みのりという彼らの子供を見守るために、ひかりという子供になる。みのりの成長とともに大きく変身していったひかりは、いつしか変身できなくなって、普通の人間のようになっていく。

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今まで、あたしは変化してきた。でも、生まれてはいなかった。けれど今あたしは、ひかりとして生まれ、そして育って(あるいは退化して)いるのだ。生きるとは、日々刻々と、変わってゆくこと。(P347)
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ここに、ある真理がある。「生きるとは、日々刻々と、変わっていくこと」。変わらなければ、成長も退化も、生まれることも、死ぬこともない。その日々変わっていくことのなかに、物語が生まれる。関係が変化していく。そして「限り」のある時間が生まれてゆく。
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みのりと喧嘩するのは、楽しかった。なぜなら、仲直りすることができるから。みのりと喧嘩しないのも、楽しかった。なぜなら仲直りする必要がないから。みのりと一緒に歩くのは、楽しかった。なぜなら、みのりと同じものを見て喜ぶことができるから。みのりと一緒に歩かないのも、楽しかった。なぜなら、一人で見たものをみのりに教えてあげることができるから。(P377)
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ひかりとみのりは愛し合うようになり、共感し合えるようになる。相手を喜ばすために、自分がいて、自分以上に相手の存在が大切になる。「相手のために生きたい」という愛の姿が最後に描かれる。人間ならざる「誰でもないもの」たちを描くことで、人間とはどういう存在なのか?私とはなんなのか?人を愛するとはどういうことなのか?日々刻々と変化があり、変わってゆくことのなかに物語が生まれ、かけがえのないものも生まれる。それは同時に失われる哀しみでもあり、時間と不在と記憶にもなってゆく。自分ではない誰かとともにあること、それは誰かになることでもあるし、誰でもない誰かであることでもある。

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