「現代思想入門」千葉雅也(講談社現代新書)より 差異=ズレを肯定せよ!

若い人向けの現代思想入門書である。さらっと浅く解説しているので、入門書として分かりやすいが物足りなくもある。これをきっかけに考え方を深めていく本でり、私も備忘録としてまとめておく。

千葉雅也は現代フランス哲学が専門(著書『動きすぎてはいけない』(博士論文「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」)だが、最近は小説も話題になり、『オーバーヒート』は芥川賞の候補にもなった。同性愛の当事者として発言し、小説では大阪に住むゲイである大学教員が主人公だったりするようだ(未読)。

ここで言う「現代思想」とは、1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しており、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーを中心に紹介されている。「現代思想」で大事なことは、「複雑なことを単純化しないこと」。現代は「きちんとする」方向に向かっている。秩序化が進み、コンプライアンスの遵守が意識され、クリーン化を推し進めている。しかし、ルールに収まらないケース、逸脱するものは取り締まられ、例外性や複雑さは無視され、一律の規制を増やす方向に行くのが常になっている。「現代思想」は、秩序化を強化する動きへ警戒心を持ち、秩序からズレるもの、「差異」に注目する。排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定すること。秩序化も必要だが、秩序から逃れる思想も必要であり、ダブルシステムで考えるべきだという。

まずは、「二項対立を脱構築すること」。物事を「二項対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのを一旦留保すること。デリダは「概念の脱構築」、ドゥルーズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」だと説明。二項対立の間のグレーゾーンにこそ、人生のリアリティがある。

デリダは、二項対立のマイナスの側に味方できるようなロジックを考え、主張されている価値観に対抗する。そして「宙づり」状態に持ち込む。それが「二項対立の脱構築」。

ドゥルーズは、AとBがバラバラに区別されて存在している対立関係であっても、実は多方向に超複雑に関係しあっており、その関係性を「リゾーム」と呼ぶ。AはAだ、BはBだ、という硬直化した見方から、リゾームのなかに多数の、多方向の無関係があり、あらゆるものが多方向に接続され、切断されている。AはBではないという区別を超えて、AがBに「なる」ような、区別を横断する新たな関係性を発見すると同時に、AとBが同一にならないような、区別を横断する新たな無関係もまた発見する。それがクリエイティブな意識なのだとドゥルーズは言う。世界は時間的であって、すべては運動のただなかにある。あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在している。事物は時間的であり、だから変化していくのである。すべては途中であり、本当の始まりや本当の終わりはない。生成変化の途中であり、すべてを「ついで」にこなしていくライフハックというドゥルーズ的な考え。「本当の自分のあり方」なんて探究する必要なんてなく、いろんなことをやろう、いろんなことをやっているうちにどうにかなる。接続と切断のバランスをケース・バイ・ケースで判断すること。

フーコーの場合は、「権力は下から来る」と言い、弱い者がむしろ支配されることを無意識的に望んでしまうメカニズムを分析。実は権力の開始点は明確ではなく、それこそドゥルーズ的な意味で、多方向の関係性(と無関係)として権力が展開しているという見方を示した。権力は、逸脱した存在を排除し、マジョリティに「適応」させることで社会を安定させた。近代という時代は、そういう権力の作動に気づきにくなるような仕組みを発達させたのだ。管理社会を批判するためには、逸脱を細かく取り締まることに抵抗し、人間の雑多なあり方をゆるやかに、「泳がせておく」ような倫理をフーコーは示唆している。

さらに本書は、現代思想の源流となったニーチェ、フロイト、マルクスを解説する。ニーチェのディオニソス的なエネルギー、混乱こそが生成の源だが、それと秩序=アポロン的形式性とのパワーバランスこそが問題。そういうニーチェ的なダブルバインドの考え。フロイトは、自分ではコントロールできないものとしての無意識、自分の中の「他者」、過去の諸々のつながりの偶然性に注目。そしてマルクスは「人間は本来、好きに使えるはずの力があるはずなのに、偶然的な立場の違いによって、搾取されている」という考え。自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見すること。自らの力を取り戻すという実践的課題において、ニーチェとフロイトとマルクスが合流する。

そして「人間は過剰な動物だ」、秩序から逸脱するエネルギーを持て余している存在。そのラカンの精神分析。母から引き離された決定的な喪失、欠如を埋めようとする人生の欠如の哲学。「本当のもの」を求め続けつつ、何か=対象aを得ても、「本当のもの」は遠ざかってしまい、「本当のもの」=Xの周りをめぐっている。母に振り回された原初の時の不安ゆえの享楽の時。それが認識の向こうにずっとある。また、ピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」の紹介。人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドグマだという。

否定神学という言い方で近現代の思想を捉えたのは東浩紀の『存在論的、郵便的』だ。「神々は何々でもなく、・・・」決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義する神学を否定神学と呼び、「本当のもの」=Xを探し求め続けては失敗を繰り返す近現代の生き方と似ている。カフカ的な「空回り的人間像」を成立させたのが近代。やってもやってもキリがないという無限性。その否定神学システムからいかに逃れるか。様々な活動がそれぞれに有限に、それなりの満足を与えてくれる、それなりに完結するという考え方。無限の負債を負い、返しきれない悲劇的な人生を送るのではなく、様々な事柄を「それはそれ」として切断し、それなりにタスクを完了させていく。ひとつのXをめぐる人生というのは、いわば単数的な悲劇だが、そうではなく、人生のあり方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めようということ。単数のXから「複数的な超越論性へ」という転換。無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性は、フーコーが晩年、古代に発見したような自己との関わり方につながるという。

最後に「ポスト ポスト構造主義」として、メイヤスー、ハーマン、ラリュエルにも言及しているが、紹介も短く、正直よく分からない。

「私がこのようであることの必然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり出してもキリがありません。今ここで、何をするかです。今ここで、身体=脳が、どう動くかです。身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。そのとき世界は、近代的有限性から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するのです。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。」

「現代思想入門」千葉雅也 P214

哲学者の千葉雅也の結びの言葉は、我々を一つの謎の呪縛から解放し、とりあえず行動し、秩序から逸脱しても、複雑で多様なあり方をまずは肯定すればいい、と語りかけているようだ。

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