ホン・サンス監督の『あなたの顔の前に』今この瞬間を見つめ抱き締める女性の祈り

ツーショットはカットを割らずに基本的にワンカット長回し。カット数の少ないホン・サンスのカメラワークで有名な奇妙なズームも、本作ではあまりなく、ズームアウトのほうが目立つ程度だ。

アメリカ暮らしの元女優サンオク(イ・ヘヨン)が、韓国に突然戻ってきて、妹のジュンオク(チョ・ユニ)の元を訪れる。なぜ突然帰国したのか理由は語らない。母を亡くしてずっと疎遠になっていた妹との関係。可愛がっていた甥との再会。サンオクは、生まれ育った思い出の地をめぐり、懐かしき日々を回想し、ある人物と会う約束をしていた。その相手は、彼女のファンだったという映画監督(クォン・ヘヒョ)だ。

ホン・サンスお得意の酒を飲みながらの長回しの二人の会話が始まる。監督はサンオクに映画を撮りたいと口説き出す。そこで明らかにされていくサンオクの秘密。そんな人生のある局面を迎えた中高年女性の一日の描く。

酒が入ると人間の無防備で下世話な一面が現れる。酔っ払いながら男が女を口説くシーンを何度も描いてきたホン・サンス監督。今回も同じようゲスな男の口説き話かと思いきや、今回は女性の側にある事情があった。下手くそなイ・ヘヨンが弾くギター、そして映画の夢と男の欲望。雨の中で店を出る傘の中の二人の場面が美しい。店の路地裏の傘の中の二人。コートの後ろ姿のイ・ヘヨンの佇まいが印象的だ。そして、翌朝の監督からの留守電を聴くシーンの残酷さ。酒の酔いの中で語られる実現しない夢と冷めてから突きつけられる現実。イ・ヘヨンの笑いの芝居がなんともいい。ベッドの上でのサンオクの朝の祈りと感謝の言葉から始まり、翌朝のベッドの上での描写、そして夢見て眠る妹を見つめる優しいサンオクの描写で終わる。

昔住んでいた家を訪ねる場面も印象的だ。庭の緑が美しく、その庭の木の陰に隠れるサンオク。「何か御用ですか」と声を掛けられる不審な行動。かつて彼女が住んでいたところだと明かされる。そして、今住んでいる見知らぬ少女をイ・ヘヨンが力いっぱい抱きしめる場面も後から考えるとせつなくていい。

顔の目の前にある「今この時」の現実だけを「天国」だと考え、その「今」を愛おしく抱きしめて生きる女性のせつない思いが伝わってくる。ホン・サンスの演劇的に凝縮された時空間に、死を垣間見る女優としてのイ・ヘヨン夢と現実が交錯する。

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