ミケランジェロ・アントニオーニ『夜』における愛の不毛と彷徨

「愛の不毛3部作」として有名な『情事』、そしてこの『夜』、『太陽はひとりぼっち』は、イタリア映画監督の巨匠ミケランジェロ・アントニオーニの代表作だ。純粋な「愛」で幸福にはなれない虚無的でアンニュイな男女の愛の不毛な姿が描かれる。大きなドラマが起きない彷徨う孤独や不安を感じるこのミケランジェロ・アントニオーニの映画が私は学生時代から大好きだった。熱情的でもなく、愛の葛藤さえなく、淡々と時間がとりとめもなく過ぎていく。劇的なドラマも、激しい諍いも、涙も怒りも感動もない。問題が宙吊りにされたままだったり、解決もハッピーエンドもない。ただただ、孤独と不安を抱えて彷徨っている人間たちが描かれる。のちのヴィム・ヴェンダースもジム・ジャームッシュのロードムービーも、このミケランジェロ・アントニオーニの映画の系譜にあると思う。『情事』では、途中で登場人物の一人の女性がいなくなり、行方不明のまま映画は展開していく。まさに存在の消失。なぜ彼女が行方不明になったのか、謎は謎のままであり、問題は解決しない。そんな衝撃的で理不尽な映画として私は記憶に残っている。

さてこの映画、『夜』は、愛を失ってしまった夫婦の物語である。夫は女性好きの作家ジョヴァンニ。演じるマルチェロ・マストロヤンニがとにかくイケメンでカッコいい。マルチェロ・マストロヤンニは『甘い生活』、『81/2』など、インテリで女性にモテる役が多い。愛を見失った妻リディア役にジャンヌ・モロー。への字口が気になる女優だが、『突然炎のごとく』、『エヴァの匂い』、『死刑台のエレベーター』など、ジャンヌ・モローの魅力を存分に引き出した傑作は多い。

オープニングは、死の間際の病床で苦しんでいるジョヴァンニの友人を夫婦が見舞いに来る場面から始まる。印象的なのは、病院の一室にいた狂ったような女の存在だ。ジョヴァンニは、帰る間際にその女の誘いに乗って、病室でキスしてベッドで折り重なっているところを看護師たちに制止される。死の淵にいる友を見舞っておきながら、狂ったような病気の女の誘いに乗る男。人気作家のようだが、何を考えているのかよく分からない。妻のジャンヌ・モローは、夫のパーティ―を抜け出して、町をフラフラと彷徨う。目的がある訳ではない。そこで出会う若者たちのケンカやロケット花火などを見物しつつ、夫に電話をかけ、迎えに来てもらう。いつまでも帰ってこない妻の帰りを待っていた夫は、文句ひとつ言わずに妻を迎えに行き、夜は二人でデートをする。高級クラブのような店で、黒人の女性がアクロバティックに踊るのを二人で眺める。倦怠期の二人のまわりでは、友の死の気配と若者たちの躍動が示される。そして、その店にも飽きた妻は、大富豪のパーティーに行きましょうと二人は場所を変える。いつも無表情で、楽しそうな顔もしないジャンヌ・モロー。クールで嫌な顔一つしないが、かといって妻への愛も感じられないマルチェロ・マストロヤンニ。

大富豪パーティーの夜、ジョヴァンニはその大富豪の娘バレンチナ(モニカ・ヴィッティ)に会って魅了される。本を一人で読んでいたり、賭けながらのゲームに興じたり、気ままで、寂しさや不安を抱えた若い娘バレンチノは魅力的だ。ミケランジェロ・アントニオーニのミューズともいうべきモニカ・ヴィッティがとにかく美しい。金持ちたちの夜を徹したパーティーは、フェリーニの『甘い生活』でも描かれるが、この映画もパーティーの「夜」が見せ場だ。夜の屋敷のプールで興じる若者たち、移り気なモニカ・ヴィッティの若い女性の魅力、突然降り出した雨、パーティーに馴染めない孤独なジャンヌ・モロー。

ラストは、「もうあなたのことを愛していないの」とリディア(ジャンヌ・モロー)は夫に告白し、「死にたい」とつぶやく。自分のことを唯一認めてくれていた見舞いに行った友人の死を告げ、自分がもらった愛の手紙を読みだす。熱き情熱に満ちた愛の手紙は、その死んだ友人からのものかと思ったら、ジョヴァンニがかつて書いたものだった。「誰の手紙だ?」とジョヴァンニが問うと、「あなたのよ」と妻が答える。自分で書いたことさえ忘れていたかつての愛の手紙。思い出したように妻に愛を求めて、夫はキスをして押し倒すが、妻は「やめて」と拒否をするところで映画は終わる。

物語を語れば、女の後ばかり追いかけている色男の夫に、妻は愛を見失い、絶望しているだけの映画だ。それだけの映画なのだが、なんだか人間のある種の真実がある。不安定でとらえどころのない心、確かなものなどどこにもない浮遊感や彷徨感。ジャズの音楽とともに、そんな現代人の「あてどなさ」が描かれる。


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