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レモンの娘 #シロクマ文芸部



レモンから溢れ出る匂いが冷蔵庫を満たしている。

レモンのストックが冷蔵庫にあることは、
納豆や牛乳のストックがあることくらい普通のことだと思っていた。

それが別に普通のことではないと知ったのは、小学生の頃。友人が家に泊まりに来てくれたときのことだ。

ジュースを取ろうと冷蔵庫を開けたとき、
「なんでそんなレモンあるの?」とガラスのコップを左手に持ちながらその友人は言った。

「え、家にレモンないの?」
「んー、お母さんあんまり買わないかも」
だとしたら、唐揚げやレモンパスタを食べたくなったらどうするのだ、という言葉を飲み込み、どうやらレモン常備はうちの家族特有ということを知った。

レモンは、いつも父が買い足す。
父が買い物に行くと大体ビニール袋にはレモンが入っている。父が相当なレモン好きなら分かるのだが、特段レモンのお菓子など好んで食べているわけではない。


「お父さん、なんでいつもレモン買うの?」
父はちらりと私の顔を見て、少し考えてから、「んーなんだろう。癖かなぁ」と答えになってない返答をしてきた。ただ、その声色は何かを慈しむような響きを孕んでいた。

父は何かの義務を果たすかのように、
そして歯を磨くとかお風呂に入るとかの日常習慣のひとつのように、レモンを買い続けている。




あるとき、授業で小さい頃の写真を使うことになり、本棚で家族アルバムを漁っていた。
すると、はらりと写真が落ちてきた。

その写真には、若い父の隣に可愛らしい女の人が写っていた。水色のワンピースを纏った彼女は、父の隣で小さく笑っている。
この人は母ではない。
母はもう少し目が切れ長で鋭い。


脳内に「お父さんの元カノ」と危険信号のように赤い文字が浮かぶ。


私の父親って、昔の恋を引きずるタイプ。
未練たらたら、いや、なんと。

父はいつも優しくて、ほぼ怒られたことはない。
家事は母と同等に行うし、参観日にもよく来てくれていた。母に怒っている姿を見たことはなく、むしろ父は尻に敷かれているタイプで、家庭内で機嫌が悪い姿は見たことがない。
そんな温厚な父がまさか、こんな。


父は一階のリビングのテーブルに腰をかけ読書をしていた。そして、私は父の目の前に例の写真を差し出した。

「お父さん、これ」
小説をパタンと閉じ、父は写真を覗き込むと同時に目を丸くし明らかに動揺をしていたが、よくこんなの見つけたなといつもの柔和な顔に戻った。

「お父さん、もしかして私の名前その元カノの名前とかじゃないよね?」
「いや違うよ。お前の名前は神社で見てもらった名前だ」
「ふーん。やっぱりこれ元カノか」
父親はしまったという顔をしていた。

父はそのあと、母との結婚後その人とは会っていないことや、写真がなぜ残っているのかわからないと本当だかどうだか分からない言い訳をしていた。

私はふと、いつかした質問をもう一度した。
「ねぇお父さん、なんでいつもレモン買うの?」
父は一呼吸置いてから、いつでもレモンパスタを作れるようにだよと言った。

私の違和感は多分当たっている。
以前と違う返答に、冷蔵庫のそれと水色のワンピースの彼女との関わりを悟った。
まるで父はレモンという小説の主人公かのように、
レモンと元カノに惑わされている。

「だってお前も母さんもレモンパスタ好きだろ?お父さん、昼飯につくろうか」
パスタ屋ではレモンパスタはメインメニューではない。彼女が好きだった味とかがどうせファイナルアンサーだろう。

「いらない」
そっけない私の返答に父親は苦笑した。
私は父にくるりと背を向け、この事実を母に伝えなければと使命感を覚えた。

怒りに任せ階段を登る。
きっと父はバツの悪い顔をしてリビングに座っているだろうか。それともコーヒーを入れ直し読書を再開するだろうか。
課題ために軽い気持ちでアルバムを眺めていたのに。父親の昔の恋人の写真を見るだなんて。


母は二階でアイロン掛けをしていた。
「ねぇお母さん」
私はさっきの写真を母に渡した。
母は手を止め、なぁにと写真を受け取るとまじまじとそれを見た。

「……お父さん若いわね」
そこじゃないと怒りを覚えながら「これお母さんじゃないでしょ?」と言うと、母はうーんまぁと気の抜けた返事をした。

「こんな写真残ってるの、お母さんは嫌じゃないの?」母は写真を机の上に置いた。
そして片付けを始め、父親のワイシャツは父のクローゼットに、アイロンはコンセントを抜いて流れるように作業を終えた。片付けが終わりひと段落したところで口を開いた。

「娘のあんたが気にする話でもないでしょう」
母はそう言いながら私に写真を返した。図星なことを言われ、言葉を詰まらせる。


「……ねぇ、どうしてお父さんと結婚したの?」
母はうーんと天井を仰ぎ、少し考えてから口を開いた。

「お父さん、男前でしょ。だからかな」
私は男前のお父さんを見たことがない。
いつもお母さんに尻に敷かれてニコニコと笑っているお父さんしか知らない。煮え切らない思いがふつふつとし、なんだか目頭が熱くなるのを感じた。

母は私の横に立ち、私の頬を触れながら「あんたの右の笑くぼはお父さんそっくりよね」と言った。

「さ、お腹減ったね。昼ごはん作ってもらおうか。お父さーん」
母はリビングへ降りて行った。


きっと、冷蔵庫のレモンも、水色のワンピースの彼女も母にとったら大したことはないのだろう。娘の杞憂だった。

私はなんだか気が抜け、右頬に父親譲りの笑くぼを浮かべた。


▼以下の企画に参加しました!


▼そして、今話題のあやしもさん『レモン』を題材にしています!
誰視点で書こうと悩みに悩み、架空の娘を出しました。章くんは誰と結婚したんでしょう。それは分かりませんが、その娘のお話です。
あやしもさん、勝手に書かせていただきました!レモン論争の外にいるかと思いますが楽しませていただきました☺️
ありがとうございました!✨

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