知る、 此処 。
風、未だ止まずさんに出会えたおかげで
このクニの重要性を実感いたしました。
少しずつ理解を深め、日本人が再び開拓者となれますよう・・
風、未だ止まずさん
冬、月冴ゆ夜さん
深い感謝をさせていただいております。
此処に残しつなげてゆく
知識が太くなり、かたちが確かになるよう積み上げて参りたいと思います。
※冬、月冴ゆ夜さんからのお返事を追記させていただきました。
>近江型土器の広がりから野洲川下流域の弥生人がいかに広範囲に移動していたかが判ります
https://x.com/Maco99993078/status/1809734527675428874
https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/35syounin-y.html…
地方で近江型土器に似せてつくった土器//最近は胎土(たいど)分析と言って、土器に使われた土の成分から搬入土器か在地土器かの区別がされる。
スレッドから抜粋引用
②製塩文化:縄文時代・・
宮城県塩竈市/御釜神社の「藻塩焼神事」に縄文の痕跡が垣間見える。
興味深い、縄文の痕跡とは
④編組文化:縄文時代の
目から鱗 ⁉
注目!!
その上、もち米のもちわらでないと、わら細工には使えないのです。
縄文の痕跡と大陸と半島と絡み合う
七夕飾り等々に込められた、心が形に現れる。
形骸化に気付き
藁をはじめ、植物と人間の関係が呼び起こされる。
https://x.com/goshuinchou/status/1809964200762208475
高知の山間部の七夕。川の上に注連縄を張り、藁馬などの飾りを付ける。七夕様(彦星)と織姫はこの注連縄を伝って逢瀬を遂げる。
馬は七夕様の乗り物であり、七夕に藁で馬を作る「七夕馬」は全国に見られる。旧暦7月7日は盂蘭盆と近く、七夕の馬は盆の精霊馬と同じく祖霊の乗り物と同源とも言われる。
教えていただいた
東京都下宅部遺跡
追記その一
冬、月冴ゆ夜さんのお返事をご紹介させていただきます。
(ポストXより)
ザックリとしか閲覧できていない状況です。きちんと閲覧した上でポストしたいと思います。辰砂や豆粒文についての意見も述べたいと思います。
https://x.com/nqj3b2c51x66762/status/1810672729210732831
たくさん引用して頂いてありがとうございます
朝鮮半島南部に新天地を求めた縄文土器文化人は次第に北から南下した櫛目文土器文化人と融合します。そして、その子孫は再び弥生期に列島の縄文時代人の末裔である弥生時代人と出会い、本格的な交流が始まるのです
https://x.com/YM5E9FdHJbBIPkE/status/1754824936294875643
■最近の研究成果では、縄文時代、九州と朝鮮半島の間において、互いの文化に影響を与えるほどの「交流」には遠く及んでいないとする評価が一般的である。単なる断片的な「往き来」であったとの評価である。
https://x.com/YM5E9FdHJbBIPkE/status/1754825367557493160
「縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏/水ノ江和同」よりP223-224,P243,P246-247より抜粋・引用、以下 ↓
"かつて筆者は、九州から渡ってきた縄文人の二世(子供)が製作した可能性を指摘したこともある(水ノ江 2007)。しかし、一遺跡から出土する縄文土器の少なさを考慮するなら、"(続く
追記を参考にさせていただき、思考をあらたにしたいと、思います。
ありがとうございます。
追記その二
https://x.com/nqj3b2c51x66762/status/1810990972836401299
■辰砂/水銀鉱山
●中央構造線周辺の水銀鉱山<辰砂(朱)>
大和地方:大和宇陀(日本最大級),多武峯,千早
伊勢地方:丹生 和歌山県:和佐 徳島県:水井(由岐)
愛媛県:日吉(双葉) 大分県:大分
●中央構造線周辺以外の水銀鉱山
北海道:イトカム/紋別,明治,幌加内
岐阜県:徳山 岡山県:和気
https://x.com/nqj3b2c51x66762/status/1810991064549052575
■辰砂利用の経緯
①出現期→縄文中期後葉~末葉、断片的に出現
②普及期→縄文後期前葉
③盛行期→縄文後期中・後葉
④衰退期→縄文晩期、ベンガラが優勢に
⑤激減期→弥生前期・中期
⑥復活期→弥生期末・古墳期初頭
https://x.com/nqj3b2c51x66762/status/1810991280333451567
■豆粒文土器は以前は12,000年前とされていたが、再調査の結果、約16,000年前となった。
○縄文草創期土器群
・無文(大平山元遺跡:約16,500年前の可能性)
/豆粒文(泉福寺洞窟等:直近:約16,000年前)→
・隆起線文→・爪形文→
・多縄文(縄目模様:約1万年前)
無文と豆粒文はほぼ変わらない時期。
追記その三(仮置き:調べモノ)
辰砂の採取を司る丹生氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している。
7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。
https://trekgeo.net/m/e/cinnabar1.htm
日本の辰砂の産地
産地数: 245ヶ所
■辰砂/水銀鉱山
●中央構造線周辺の水銀鉱山<辰砂(朱)>
大和地方:大和宇陀(日本最大級),多武峯,千早
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%B0%B4%E9%8A%80%E9%89%B1%E5%B1%B1#%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%AE%E6%B0%B4%E9%8A%80%E9%89%B1%E5%B1%B1
伊勢地方:丹生 和歌山県:和佐
徳島県:水井(由岐)
https://museum.bunmori.tokushima.jp/bb/chigaku/minerals/46.html
採掘や粉砕に使った多数の石臼や石杵が出土しており、中には辰砂が付着した石杵なども見つかっています。
その後江戸時代までは大規模な採掘は行われていませんでしたが、1888(明治19)年春から水銀鉱山(水井鉱山、のちに由岐水銀鉱山)として開鉱されました。1902(明治35)年頃には年約600kgを精錬し、奈良県の大和水銀鉱山とともに国内二大水銀産地として
愛媛県:日吉(双葉)
古代から中世
646年(大化2年) - 孝徳天皇が大山上安部小殿大臣小鎌を伊予国に遣わし朱砂を採ったという言い伝えがあり、村内の富母里の水銀鉱から採ったものであろうとされている(ただ、続日本紀には伊予国としか書かれていない)。
大分県:大分
https://motamota.hatenablog.com/entry/2018/07/03/095657
大分県は朱産地の多い九州のなかでも、最大の朱産地です。大分市にも丹生神社があります。
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