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「Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座」が生まれるまで

ベーマガ40周年に寄せて

アラフィフ以上の世代の方なら記憶にある方も多いであろう、当時のマイコン少年のバイブル、「ベーマガ」こと「マイコンBASIC Magazine」。
この中で、3年少々の期間ですが「Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座」という記事を連載させて頂きました。
自分の名前を出さずDr.D名義で書いていた連載ということもあり、今まではあまり多くを語ってこなかったのですが、マイコンBASIC Magazine が40周年を迎えるということ、そして最近は不詳ながら自分のワークヒストリーとして公にしているおかげで色々な方と出会ったり再会することができたということもあり、記憶が褪せないうちに残しておこうと思い立ってキーボードへ向かいました。

キミのプログラミング・テクニックを公開しよう

ベーマガで連載を始める前、御縁があってFM-7/77版のバトルシティの移植を担当させて頂きました。1986年11月にマイコンソフトより無事発売され、高校生のバイト代としてはそこそこ高額な印税もゲットした冬休み。東京へ遊びに行くメインイベントのひとつとして編集部へご挨拶に伺った際に、「来年は一応大学受験なので次回作的な大きな移植は厳しいかもしれないけど原稿なら書けるかもしれないので書いてみたい」とお話ししたのが切っ掛けだったと記憶しています。年が明けて1987年、初めてそれらしき原稿を書き、プログラムと手描きのフローチャートを添えて編集部へ送付。1987年の1月下旬~2月上旬頃だったと思います。
その原稿が、後に1987年4月8日発売の5月号で特別企画「キミのプログラミングテクニックを公開しよう」と名付けられた記事として掲載されました。

1987年5月号の目次
「特別企画:キミのプログラミング・テクニックを公開しよう」の文字
そして著名ライターの皆様の間に自分の名前が

多くのゲーム投稿欄ではなく、その前の企画ページにライターとして自分の名前が載るという体験は初めてでした。私以外のライターの皆様が既に相当のネームバリューを持たれていた方々なので、その合間に自分の名前があるのが物凄く衝撃、かつ不思議でした。

自分の名前、原稿、手描きのフローチャートが全て活字になっていることに感動した瞬間

当初は「プログラミングテクニック」というほど高等なものではなく、「BASICはわかるんだけどどうやったらゲームを作れるようになるかわからない人が多い」という声を聞いたので、そのきっかけとして「こうやればゲームを作れるんだよ」という解説のつもりで書いていました。なので、プログラムは当時自分が持っていたFM-7用で書いたのですが、少しの変更で色々な機種でも動くようにしたのがポイントです。この工夫が後の連載のアイディアに繋がります。

BASICだからこそ出来た移植性の高さが後の連載へ繋がる

確かあと1~2本、同企画の記事を書いた記憶があります。その後、これを見て他の方からも投稿があったと連絡頂きました。そして実際に何本か掲載されたようです。

Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座

その後、月日は流れ、晴れて大学生になり上京した1988年の春。上京のご挨拶として改めて編集部を訪問。折角東京へ住むことになったので編集部へ通える頻度も大幅に上がるし、何か電波新聞社でアルバイトできないかな、とお話ししていた中でした。

「キミのプログラミングテクニックを公開しよう」は複数の機種で動くのが好評だったけれどそうした書き方をした投稿や記事は少ない。初心者向けにどんな機種にも通用するBASIC講座のような記事もあっても良いかもしれない。

というアイディアが、立ち話の雑談から出てきます。そして、ではそれを書いてみます、となりました。これが「Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座」が生まれるきっかけです。

1988年8月号の目次
新連載「Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座」

ベーマガは毎月8日発売で、その原稿のライター〆切は発売日の先々月末。どういうことかというと、1988年8月号は1988年7月8日に店頭に並びます。そして、そこに間に合わせる為のライターの入稿〆切が5月20日頃でした。大学入学早々、ゴールデンウイークも明けて興味のない一般教養の授業にも飽きてきた頃、授業中にスケッチブックへ手描きでフローチャートや説明図を描いたりする日々。やっていることが高校生の頃と変わっていません。典型的なバブル期の能天気大学生ですね。
そんなこんなでUFOが飛んでいる図を描いていると、覗き込んできた同級生に「それ何の落書き?」と不思議がられたり。これが雑誌の原稿だと説明しても、この時点では誰も信じませんでした。そりゃそうですね。

落書きの様な手描きの図やプログラムリストへの手書きのコメントが綺麗に写植されて活字に

実家から持ってきたFM-7でプログラムを書き、原稿用紙に書いた文章と手描きの図を持って編集部へ。そこまでは「キミのプログラミング・テクニックを公開しよう」と同じ。
違いは、プログラムのプリンタ出力を見つつ編集部に置いてあったMSX、X1、PC6001等へも打ち込んで動作確認、変更点をメモして追記して納入していたこと。そして6週間後の8日に本が店頭に並ぶ。それが毎月起きる。ということでした。これがライター生活か、と。本業は大学生のはずなんですけど。

1988年8月号のBASICプログラムリスト
FM-7で書いたプログラムの変更点を編集部のMSXとX1で動作確認して追記

そのうち、自宅のFM-7ではなく大学の計算機室に置いてあったPC9801VMでプログラムを作り、原稿もPC98で書いてテキストで納品するようになったりといった変化もありました。

連載を続ける中で

1988年10月号目次
「キミのプログラミング・テクニックを公開しよう」がスペシャルに
「Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座」と夢の競演

元々は「ゲームの作り方の初歩的な解説」のつもりで始めた「キミのプログラミング・テクニックを公開しよう」も、やはりテクニック重視となると機種依存となってくるのは必然。なので或る程度の数を溜めてスペシャル企画にしよう、というアイディアを編さん(編集部のO様)が数々の投稿と共に暖めていらっしゃいました。
そして、「キミのプログラミング・テクニックを公開しよう」と「Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座」の2つの企画が同じ紙面で共演する、という素敵な体験をさせて頂きました。
ソウルオリンピックで盛り上がる直前、まだ昭和末期の自粛ムードに突入する前の残暑厳しい1988年9月のことでした。

「キミのプログラミング・テクニックを公開しようスペシャル」
機種別に数々の小技を投稿して頂いた中から厳選して掲載
ソウルオリンピック開幕直前の発売号ということがわかっていたので仕込んだオリンピックネタ
元をただせば「〇〇〇〇オリンピック'88は出るんだろうか」というネタ投稿がきっかけ

謝辞

こうして、ベーマガに2つも企画を採用頂いて、在学中の約3年という短期間ながら連載までさせて頂くという機会を頂けました。
令和となった今でも時折、昭和末期のこの連載を元にプログラミングに興味を持った、ゲームを自分で作るきっかけになった、といった声を聞いたり、ブログやツイートを見かけたりします。ライター冥利に尽きますね。
こんな素敵なチャンスを頂けた電波新聞社の編集部の皆様、特に親身になって一緒に企画を考えたり、原稿を落としそうになった時に手厚くフォローして頂いたりした編さんことO様、そしてFM-7版バトルシティの移植の頃から年端も行かない地方の高校生だった自分へ色々とアドバイスをして頂けた元ベーマガ編集長のO様へは、今でもとても感謝しております。

今、ベーマガに代わるものって何だろう

令和となった現代、インターネットもSNSもすっかり普及して、自分のプログラムや文章を誰でも簡単に公開、発信できるしプログラムや文章の良質なサンプルも無料で世界中から拾えます。そして、小学生低学年でも、数十万ポリゴンもあるような綺麗な3Dグラフィックスが物理法則に従って正確な挙動をするような算数的に高度なゲームを、タブレットで絵を描くように簡単に作ることも出来ます。この40年で、プログラミング環境は8bitから64bitへ移行する過程で、信じられないくらい進化しました。ただ、そうして敷居が低くなったからこそ、薄まってしまったものもあるのかもしれない、と思う昨今です。それが、年齢を重ねたことによる自分の衰えから来る杞憂に過ぎなければ良いのですが。
過ぎた時間も起きた進化も戻せませんし戻す必要もないかもしれませんが、それならば、より多くの人がより良い未来を作るうえで今まで以上に知的生産に情熱を注ぐ。その過程で、切っ掛けは何でも構わないから、エンジニアであろうとなかろうと少しでも多くの方にプログラミングに興味を持ってもらえれば、と願って止みません。


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