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#121 common good(共通善)

*こちらは#120 コミュニタリアニズムのつづきです。


前回述べた通り、リベラリズムの対極に必ずしもコミュニタリアニズムが存在しているわけではない。

どちらかといえば、同じベクトルで枝分かれしているようなものだ。(あくまでも私的意見)

自由の中立性(個人の自由)を説くリベラリズムに対し、共通善を重心に説くコミュニタリアニズムは、確かに対極関係に思える。

しかし、コミュニタリアニズムは個人の自由を必ずしも否定していない。

リベラリズムの説く、個人の自由を行使するためには、その背景として自分以外の不特定多数の共存する社会が必要になる。

例えば、巨大な独房に入っている人は、誰にも干渉を受けることはない。なぜなら、独房に入っている人以外、人が存在しないからだ。その中で何をしようと誰の干渉も受けず自由を謳歌できるはずだ。

しかし、そのようなことをリベラリズムが説いているはずもないだろう。

リベラリズムの説く、生命・自由・財産という人が生まれながらに有している自然権を、権力の恣意的行為から守るという思想も、自然権を奪う存在が必要になる。

独房にはそのような存在がいないのだから、彼らの説く自由はそもそも存在しないことになる。

つまり、ここでいう自由とは不特定多数の共存する社会が前提となる

だが、そもそも人は他者の存在により認識できる個が生まれる。

この個(自然権)を守ることは理解できるが、そもそもその個は不特定多数または血縁のある家族によってはじめて誕生する。

ならばまずはじめに初期段階として何らかのコモン(共同体)存在がある。

一般的に考えれば、両親を含む最小数のコモンがそれにあたる。

そして両親は自身の育った環境やその土地の思想などの影響を受けている。新たに生まれた個が、それらの影響を受けずに存在できないのは言うまでもない。

そこにあるコモンの共通善がまず先にあり、そこで育まれた美徳はそのコモンの成員の自由の種としてまかれ、それが開花し成員の個の自由を形成するのではないだろうか。

リバタリアンのいう自由とは、コモンの土壌から発芽し開花した花のようなものだ。

土壌はコモンから生まれ、そこから個(ここでは個の自由を意味する)ができるのだ。

つまり、リバタリアンのいう自然権は、コミュニタリアニズムの共通善のうえに成り立っている。

いうなれば二層構造のようなものだ。

そのように解釈すると、リベラリズムとコミュニタリアニズムの言い合いはとても滑稽に思える。

まるで家族内で兄弟が言いあっているようだ。

このようにわたしは、リベラリズムもコミュニタリアニズムも同じサークルに入っている『人間に求めうるもの』は差異はあれど同じものとして考えている。

だが、どちらかの主張を純粋に正当化するためには互いの主張する要素が欠落しており命題化しているのではないだろうか。

ここで、リベラリズムとコミュニタリアニズムが共存できる可能性があるという一つの思想を紹介したい。

これは、三重中京大学大学院教授、菊池理夫氏が現代コミュニタリアニズム入門として紹介しているものだが、菊池氏によればコミュニタリアニズムが重心を置いている『共通善』は、わたしたち日本に住む者が守るべき日本国憲法12条の「公共の福祉」と同義だと述べている。

マッカーサー憲法草案の中では11条、今は12条になっていますが、ほぼ原文通りになのです。その中で「公共の福祉」は、common good なのです。
あと「公共の福祉」という言葉は3つくらい出てきますが、英語の草案ではwelfareとか別の言葉になっているのですが、ただ総括的な権利を主張しているところで使われている言葉は、common good なのです。
「公共の福祉」をcommon goodとして読み直してみると驚くべきことがわかります。12条では「公共の福祉」と個人の権利・自由とは対立するとは書いていないのです。権利の濫用とは対立するとは書いてありますが。しかも、もっと驚くべきことは、個人の自由や権利はcommon goodのために用いる必要がある、用いなさいとはっきり書いてあるのです。

千葉大学 公共研究 第5巻第4号(2009年3月)

このように共通善と自由の中立性は対立しておらず、共存している。

common goodという言葉は、公共の福祉でありこれを共通善として捉えている。それが必ずしも一致しないかもしれない。

だが、大枠で考えれば同じことを指しているといえる。

そのなかで「個人の自由や権利はcommon goodのために用いる必要がある」と述べ、個人の自由や権利は結果的にコモンに寄与されることになる。

つまり、個人の自由はコモンの活動の中に存在しその活動はコモンを活性化させたり減退させるといえる。

これをふまえて現代社会に戻ってみよう。

現代社会では、多様性と自由意思の選択を尊重している。これは素晴らしいことだ。個々人が好きなように生き歳を重ねられることは喜ばしい。

だが、あくまでも先に述べた通り、個人の自由や権利がcommon goodのために用いられた場合に限る。

そうではなく個人の自由や権利が権利の濫用として行われるようであれば、それに対立しなければならない。

昨今起きている世界的な格差社会は後者にあたる。

とりわけ自由を履き違えているアメリカでは後者の自由が指数関数的に推進されている。それを裏付けるように、アメリカ人の4人に1人は親友がいない。

アメリカでは1985年から2004年の20年間で「重要なことを話す」親友の数が平均して3人から2人に減少し、ゼロという回答が8%から23%に上昇した。

また、日本においても2021年度版(コロナ後)の高齢化社会白書によれば、60歳以上で「家族以外の親しい友人がいない」と答えた割合は31.1%で、ほぼ3人に1人。

この割合はアメリカ14.2%、ドイツ13.5%、スウェーデン9.9%より高く、「孤独死」が社会問題になる背景が垣間見える。

実はより深刻な状態なのは日本だった。

そろそろ、わたしたちは自由の価値と意味を本来の意味で理解する必要がありそうだ。

おわり


最後まで読んでいただきありがとうございます。

参考文献:千葉大学 公共研究 第5巻第4号(2009年3月)

もつにこみさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますので、よろしくお願いします。
no.121.2022.06.03

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