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#119 リベラリズムと無知のヴェール

深刻な自然災害が起こると世界中から支援の手が差し伸べられる。
それは他者の痛みを自身の痛みとして共感できる力があればこそである。

そして、愛に満ちた行為(支援の手)を受けた者は、新たな災害時に更なる支援者と姿をかえる。

社会は多くの善意ある者のたちによって構成される。だからといって善人のみで社会が構成されているわけではない。

それでも、自然災害のような社会が深刻なダメージを受ける時、人々は自然と協力体制をとり個人よりも共同体を優先する傾向がある。

おそらくこれは、有事により個人間の差が薄まり個人同士が結合しやすくなるためだろう。

また、社会が健全に機能しているとき、人は個人の意思を優先しやすい。これは社会においての個人間の差が目立ち、協力体制を取りにくくなるためだろう。

社会には、個人の自由意思を強く主張するリバタリアンや、共同体主義を強く主張するコミュニタリアンを除く多くの人たちは、ケースバイケースでその在り方を変化させる。

  リベラリズムは、もともと政治哲学用語で「自由主義」と訳すことができる。
自由を尊重する思想にもさまざまな種類があり、極端な個人主義を主張するリバタリアニズムや、福祉国家を掲げる福祉自由主義もある。

自由主義は、生命・自由・財産という人が生まれながらにして有している自然権を、権力の恣意的な行使から守るべきという思想から端を発してしるようだ。

代表的な哲学者は、17世紀イギリスのロック。

社会契約論が有名で、著書に『人間知性論』などがある。
その後、19世紀イギリスの哲学者ミルの『自由論』に受け継がれ、他人に危害を加えない限り自由は保障されると説いた。

現代社会におけるリベラリズムは、積極的に人々の自由を促進する思想として主張されている。
これは資本主義の影響で、貧富の差からいかに人々を救うかが、思想の面でも課題になってきたためだといえる。

アメリカの政治哲学者ロールズは『正義論』の中で、無知のヴェールをまとうことで正しさを判断できると提案した。

無知のヴェールとは、それをかぶると自分自身の情報が遮断されてしまうという思考実験のことだ。

例えば、10人ほど集まり、皆にとって明日からの共通のルールを決めるとする。その中には大富豪も貧困者もおり大食漢も少食な人などさまざまだ。
ここで、あなたは大富豪だとする。

ルールを決める時、お金持ちの財産を5割カットし、その分を再分配し貧困者に均等に振り分けると提案されたらどうだろうか。
あなたは守銭奴ではなくとも、その提案を却下ないし、財産カットの割合を少なくするよう働きかけはしないだろうか。

また、あなたが貧困者の場合、お金持ちの財産カット割合をより多くして、貧困者への振り分け額を多くするための提案をしないだろうか。

これは極端なケースを述べているが、人は自身の初期状態に都合の良いルールを求めてしまう傾向がある。

当然といえば、それまでだがそれでは公正なルールを作ることは難しいことがわかる。

このバイアスを無くすためには、先に述べた【無知のヴェール】が必要であり、それをまとった状態を原初状態という。

原初状態に置かれた人は、ようやく他人のことについても自分と同じようにとらえることができるようになり、真の正義とはを判断する前提が整うのである。

先程の思考実験で、あなたの状態が全く分からないを想像して欲しい。

  もしかしたら大富豪かもしれないが、貧困者かもしれない。大食漢かもしれないが、少食かもしれない。
このような中で、何かルールを決める時、何が自分にとって有利または有用なのかわからない。

そのため、人は自然と公平な選択をできるようになる。

つまり、無知のヴェールによってバイアスから逃れられるのだ。

その前提に立った上で、ロールズは「正義の二原理」の基準を出す。

第一原理は「平等な自由の原理」。

第二原理は「機会の公正な均等原理」。

第一原理は、言論の自由や思想の自由や身体の自由を指し、基本的な自由のことだ。

第二原理によって、社会的・経済的不平等については、ある地位や職業に就くための機会の均等が保障されている場合にのみ認められるとした。

ロールズは、不平等が許されるのは、もっとも恵まれない人が最大の便益を得る形がなされる場合に限られるとした。

このように中立的な立場から合理的に正しいことをなそうとする思想がリベラリズムにはある。

しかし、人のこころは常にとどまっておらず、ゆらぎが起きているので、そのようにあることが必ずしも正しいとはいえないのではないだろうか。


おわり



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