私ってつまらない人間かもしれない
※私自身の話をしているため、他人に向けた文章ではありません。
漠然と昔から自分が「つまらない人間かもしれない」と思っている。
それをあきやさんの講演会第4回の「なりたい」「好き」「似合う」「違和感」ワード仕分けで思い出した。
一般的に悪口の部類は違和感ワードに入れるのは違うという意見もあるので、あくまでこれによって思い出したという話だが、「つまらない」「底が浅い人間」という評価は私の思う悪口の中でもトップクラスに不快な表現だ。
私にとってそこまで反応してしまうワードということは、これらが【図星】であるということも同時に意味していると言える。
要するに、私は、私に対して、つまらない人間、底が浅い人間だと思っているのである。
私の思う、つまらくなく、底が深い人間とは、誤解を招くかもしれないが、とても平たく言うと、物語の主要人物やキーマンになり得るような人物のことだ。
もう少し詳しくいうと、自らの中で一本筋の通った興味関心の軸に沿って、何かに精通している、または知見を広げ深めている人を指している。
その人がその人たらしめる生き方の選択の下地には、土台となる経験と知識があるはずで、人間の興味関心に全て理由づけできるとは思っていないが、土台から現在に至るまでを苦労少なく説明できる、伝記を書けそうな人。
私はそうではない、真逆の人間だと自分に対して思っているのだ。
目の前の自分の問題解決にしか興味関心を抱けないし、労力も時間もつぎ込めない。解決してしまえば、そこまでに得た知見に価値を感じなくなるし、活かしたい気持ちも持てない。
他人の助けになりたい気持ちがそもそもあまり持てない(親愛の情を抱いているなど特定条件が満たされないと発動すらしない)ので、同じような人の役に立てば〜というその後の活動も、解決策に含まれてなければやらない。
誰にも強制されず自分の意思で注ぎ込んだ労力のことは忘れてしまえるし、それに対する報酬の意識も希薄だ。なので得た知見のことは時間経過と共に忘却の彼方にいってしまうこともしばしば。
また新しい問題へと興味関心が移っていくだけで、蓄積していっている感覚は殆どない。
気まぐれに残した自分の記録を見て、割といろいろやってたのかもしれないと、最近思えるようになったが、それは0と思っていたのが2くらいやってたのかも、くらいのものだ。(最大値が10とする)
つまる、つまらないは、他人からの客観が入った概念だと思うので、自分のこと、しかも目の前ことにしか関心がない人間が底が深いと私は思えない。
これは近しい人にフォローしてもらったり、私をリスペクトしていると言ってもらうようなことで払拭できる感覚ではなく、俯瞰的な事実として、そう自分は思う、という話だ。
ここまで書いていてもマイナスの気持ちではなく、コメダのエビカツパンを美味しくペロリとできる程度には受け入れている自分自身の話だ。
ただ、他人に指摘されると嫌な気分になるくらいにはコンプレックスではある。
誰かの特別な人になりたくてなりたくない
少し前の私は孤独の達人を目指したいというな心持ちではなく、そう決心できたのはつい一年半くらい前の話だ。
それまではこの世の誰か一人でいいから、特別の位置付けをされるような人になりたかった。
親友、人生のパートナー、名前がつかない関係でも何でも良い。形こそなくても相手も自分も「特別だ」と感じられる関係性を何か一つ欲しいと思っていた。
自分のことをつまらないと思っていることと、これは繋がっていると考えている。
自分がつまらないと思ってるから、誰かの特別になることで、中身の詰まった底の深い人間の多くが得ているだろう(と私が思っている)誰かの特別という地位に根差すことで払拭しようしていたのだろう。
この気持ちは結構根深くて、特別仲の良い友人ができなかった小学生の頃から連綿と最近まで繋がっていた気がする。
転校生という立場と人見知りという性質が上手く人間関係を作れず、浅い人間関係の構築で精一杯で、関係を深めることができないコンプレックスが生み出した呪いみたいなもののように思う。
そこに恋愛関係のパートナーを人生のパートナーとする文化が前提の年頃に突入して、友人に限らずもっと深い関係を築けない劣等感に変質して行ったに違いない。
そして、出来ないことには理由づけをしたくなるものだ。
「私はつまらない人間だから、誰かの特別になれない」のだと。
そう思うようになるのは自然なことのように思う。
恐らくそれだけだったら、誰かしらのパートナーなり親友のポジション取りに尽力して、それ以上自問自答したり自己分析することなく「特別」の席を維持に必死になる人生だけで終わったんだと予測できる。
でも、そうはなってないし、そうしようと今は思っていない。
それは「特別」の席をがむしゃらに求められない私もいたからである。
私は誰かの特別になれるのか
向いてないとか、必要な能力やリソースがないとか、そういう話ではない。
どう考えたってここで思いつくこと全部やるくらい相手のために自分の全てを賭けて行動するべきだというタイミングが、短い人生の中で数回あった。
そのタイミング全てで私は全力を出せなかった。
いや、出さなかった。
最適ではないかもしれないが、何かしらのアイデアもあれば、やろうと思えばできるリソースもある状況でやらなかったのだ。
例えば。
当時とにかく特別でこの人以上に良い意味でも悪い意味でも執着したことはないという相手が、家族恋愛仕事全てで窮地に陥っている時。
私はただ話を聞き、相手が仄暗い選択肢を取らざるを得ないと嘆くのをやんわり制止し、どうにかこうにか何とかした相手からの連絡が来るようになった時にまた話を聞いただけだった。
例えば。
当時何でも話せる友人で、もしいなくなるようなことがあった時のためにクローンが欲しいと冗談を言い合う仲の相手が、家族のことであらゆる明るい未来を諦めなければならなくなった時。
また私はただ話を聞き、言葉を失い、どう声をかけて良いのか分からず相手の気晴らしになれば良いと好みそうな無料コンテンツのリンクをラインで送り続けるだけだった。
失踪して連絡が取れなくなった時も、状況的に生死が分からなかったため調査会社に依頼するか悩みに悩んで宅配で様子を見たりするだけだったのだ。
どちらも相手は遠方にいるのだが、やろうと思えばお金を借りたり貯金をはたいたりして相手の元に飛んでいき、何もできなくても一緒に考えたり励ましたりすることはできたはずだ。
相手がもし望んでいないようなら、最適な相談先や自治体などの制度を探すこともできる。
そこまでしなくても頻繁に連絡を取って、味方がいる、心配している人がいると意識してもらうこともできた。
でも、いずれもやらなかった。
私が臆病故に自分の無知と自信の無さを言い訳に「様子見」をするだけに止めてしまった。
正直言って私は恵まれてきた方の人生だ。
恵まれてきた人間は安穏と生きてるだけでは、見えてないものがこの社会にたくさんあり過ぎる。
それを知らない顔をする程、非社会的でもないのでいつかは自分もそうなるかもしれないと、収集心から読み漁る。自分なりに考える。彼女たちのことを想う。
でもそれらはほんの一端で、何も知らないに毛が生えたくらいのものだ。
本当に経験した、身近な人が目の当たりにしてそのサポートをしたような人にとても話せるような代物ではない。
私みたいな人間はただ話を聞いて、余計なこと(になるかもしれないこと)を言わないのが関の山だった。
とはいえ余計なことかもしれないことを言ったり言わなかったりしてきた自覚はある。
保守的な対応に甘んじてしまったがために、相手のことを本当の意味で思いやれなかったと思っている。
でもそれ以上のことが出来る人を知っている。
向いてなかろうが、知らなかろうが、行動に起こしている人はいる。
そういう人が誰かの特別の席に座っている。
そしてそうあって欲しくもある。
だから、私がどう考えていようと表に出したことだけが相手にとっては事実で、私はただ「何もしなかった」よりも不適切な対応を言い訳しながら選択しただけなのだ。
自分が並々ならぬ思い入れを持っている相手に対しても、私という人間はこうも薄情で臆病なのだ。
今後同じようなことがあってもできないまま死んでいくのかもしれない。
それにはたと気づいたのが「孤独の達人」をコンセプトに掲げる頃だった。
孤独の達人は軽薄で内向き
ここまで自分の出来ること、出来ないことに気づいていても誰かの特別の席を完全に諦めきれていない節がある。
タイミングもあるし、こういう間柄や距離感だから必ず話すという訳ではないことは分かっているが、親しくいたい、長い付き合いをしていきたいと思っている人が、
自分以外の人に、自身の深い部分にありそうな悩みや想いを話していたと聞いた時に嫉妬というか身勝手なショックみたいなものを受ける。
前述のエピソード以前から、元々深い間柄になることを苦手とする傾向にはある。
それはリアクターの才能が無いのも、程良いコメント力が無いのもそうだが、何より私が相手への関心を強く示せないから距離が縮まらないせいだと分析している。
本当に深い付き合いをしたい相手に、素直に「あなたのことなら何でも知りたい」という趣旨のことを言えてきていないから当然なのだが、自分の中にある強い関心を表出出来てない自覚がある。
何も無い時にそんなことを言うわけにはいかないので、ここぞと言う時に示すのが良いと考えているのだが、それを言った後に相手が本当に打ち明けてくれて、それに対するリアクションが不適切でがっかりされるのが怖い。
がっかりされればその後の「また言っても良いかな」と思ってもらえるまでの信用回復に時間がかかる。
だから怖くて言えない。
そういう負のループに陥りがちだ。
でもこれを打破するには、がっかりされると分かっていてもやっぱり言うしかないように思う。
リアクションにがっかりされながら自分の返しを磨くしかない。
と、真っ先に頭に浮かぶ。
違う、必要なのは小手先のテクニックではない。
相手への思いやりや慈しみであることを知っているはずなのに。
何故自分にはそういうものが抱けないんだろう。
両親には注いでもらったからどういうものなのか知っているはずなのに。
問題なんて起きない方が良いし、楽で苦労をしない人生の方が良い。これは天地がひっくり返ってもそう言える。
でも何かを乗り越えてきた人、慈しみを持つ人の言葉の威力、重みを目の当たりにして引け目に感じることが多々ある。
自分の不健全な欲望を自覚してなおまだ欲しているというのか。
誰かの特別になれないコンプレックス。
自分の言葉が軽薄なように感じることへのコンプレックス。
誰かと結婚して、しばらくして離婚してバツイチの独身で死ぬのが便利だとすら思っていたくらいに小賢しい自分。
そういうものを引っくるめてそのまま受け止められるのは自分しかいないのだ。
だから私のなりたいは孤独の達人なのだ
孤独の達人は孤独な状態を意図して選択し、有意義に使い分けられる達人だ。
誰かと深い仲になることよりも、自分にとって最適な社会の場所で、自分や好きな人たちと祝杯をあげることを優先する。
時には好きな人たちを励ますことや、一緒に悲しむことはあるが、がっちり互いの左と右の足を紐でくくって二人三脚していくことはない。
つまらない自分をそのまま受け入れ、私という人間に入っている中身を認識した上で得られるものを目指した先、それが私にとっての孤独の達人である。
自分のコンプレックス由来のずるくてさもしい欲望を満たすために他人を利用したりはしない。
この欲望を満たすことを考えるのではなく、他のことに集中して気づけば無くなっている、そういう状態を目指すべきだと今の私は考えている。
まだまだ自分の欠点や不足部分が気になってしょうがない日が何日もあるに違いないが、この問題解決は解消させずに、薄めることこそが私の選び取りたい自分の未来である。
そこを履き違えないようにこれを残す。