小さきものは凪いでしまい、霞がかっているのだが、それでも朝はくるのだろう。
ちちおやなんかいないよ。
――クソっ。
うーん?霞(かすみ)は……おとこのひと。
――っ。
がっ。
「あのクソ女。」
壁に打ち付けた手は、その時は痛くなんかなかった。
しかし、匂いがすると思ったら、血が滲んでいた。匂いには埃っぽさも交じっていて、あの場所が脳裏を過った。
廃れた家やアパートしか並んでいなかったあの住宅街は、俺には奇妙な場所にしか感じられなかった。
だから俺の目には、アイツの笑った顔は違和感としか映らなかったんだろう。
けれど、アイツは違うようであった。
「おはよう朝(あした)。」
男ぶったような、女にしては低めの声が、俺の思考を遮った。
がたりと、わざと音を立てて立ち上がる。
早くもなく遅くもない時間、いつも通りコイツは教室に入ってきた。
肩から下げた鞄を下ろし机に置く、少し距離のある隣の席に、俺は近づいて行った。
近づいた俺に気付いた、間違いなく女子生徒であるソイツが、不思議そうに俺の顔を見上げた。
「お前、ここじゃそんなナリのくせに、家ではあんななのかよ」
俺の動作に不思議がって、一度動きを止めるソイツが身に纏っているのは、この学校の男子学生服だ。
「あれ父親だろ?どこ連れてってもらったんだ?」
するとソイツは、やはり不思議そうに瞬いた。
「ちちおやなんかいないよ。」
「……」
「うーん?霞は……おとこのひと。」
性別くらい、父親だと思ってる時点でわかってるっつの。
コイツ、本気で言ってんのか?
「じゃあ、おまえの親、なんなの」
いない、ってなんだ、いない、って。
なんか、ってなんだ、なんか、って。
「親ぁ?んー、なんだろね?」
俺に聞くな、聞いてんのコッチだろ。
へらへらすんな。
むかつく。
「なんだろね、って、言ってる場合か」
「だって、わかんないんだもーん。」
一層にやけてんじゃねえよ。もーん、じゃねえよ。
「おい、小凪(こなぎ)、」
「ねね、それより朝、おはよう、だよ?」
ちっ、まだ話は終わってねーっつーのに。
「あー、はいはい、オハヨウゴザイマス」
「あはは、おもしろいなー、朝は。」
うっせーよ。
明らかに話逸らしてます、誤魔化してます、躱してます、って切り替え方しやがって。こっちが気付いてることわかってて、そんな態度とりやがって。ほんと、その笑い声……
うるせーんだよ。
日曜の昨日、俺が会いに行った時、家主は留守だった。
それは割と決した意の元だったのだが、留守とあっちゃあ仕方がない。
俺はため息をついて、インターフォンに添えていた指を下ろした。踵を返す。来る時は慎重になって上っていたぼろぼろの鉄階段を、わざとらしく音を立てながら下りていく。
必然的に足元を見ていた視界に、見えない両腕が入った。パーカーのポケットに両手を突っ込んで、いかにもふてくされたますって自分は、そこそこ応えているようであった。そこで自覚する俺も大概だな、と、自分で思った。なんだか笑えてきた。
安アパートを離れて、帰路について程なくした時、その顔は現れた。見知った顔だった。
ここを訪れるにあたって当初から与えられていた情報とは別に、そこで新たな情報が加えられた。
今思い返しても、知らなければよかった、なんて、別に思わない。思わないけど、
その時ほど、もしもの話なんてまるで意味がないと思ったことはない。
とは思った。
俺も向こうも、帰路の途中だったところ、擦れ違ったんだ。
知らねーけど、何てタイミング。
親父の方はこっちに見向きもしなかった。けど、アイツとは確かに目が合ったんだ。
普段学校には男の制服着てくるアイツが、全然女みたいに振舞おうとしないアイツが、フリルの付いたワンピースを着て、頭にリボンをつけていた。
あの男の前では。
なのにアイツは、驚きを隠せず思わず立ち止まる俺に、合った目になんの反応もしなかった。
道端で立ち止まって、明らかに不振であっただろうを、あの父娘はものの見事にスルーした。
アイツ、あんなに笑ってたのに。
あんなふうに笑ってるの、そんなの初めて見たのに。
あの時のアイツは、あんなに女らしかったのに。
その顔は親父に向けられてて、その手は親父と絡められてた。
あの男の名は、霞と言った。
小凪がそう呼んでいたのは、あの男の名で間違いないのだろう。
昨日、どうやって家に帰ったのか、俺は覚えていない。気づいたら朝だった。
けれど今朝、母さんが昨日の俺の様子がおかしかったことを、ひどく心配していた。出かける俺の行き先を知っていた母さんは、ある程度覚悟はしていたんだろうが、その日送り出す時も心配していた顔から、さらに悪化していた。悪いことしたな。
けど家主とは結局話ができなかったし、直接の原因ではないんだよ。
そう言ったところで、誰も納得してはくれないだろう。
俺だってそうだ。なんにも納得できない。
なら、どうすれば俺は納得する?
家主が家にいたらよかった?話すことができたらよかった?
小凪が嘘偽りなく話してくれたらよかった?
――さあ、どうだろうな。
家の自室に寝転がって、思い出す。
昨日のアイツは小凪なんだろう。否定していなかった。
結局今日、小凪に朝以外でその話をすることはなかった。
もう、寝てしまおうと思った。
小凪は転入生だった。
転校初日から、アイツはあのかっこうだった。
そんなんだからもちろん、転入生なのに誰も相手にしようとしなかった。
逆に俺は、人が集まらないアイツの傍が心地よかった。アイツを便利な人避けにしていた。
いつもわざわざ寄って来るのに、なんのちょっかいも出さない俺に、アイツは不思議そうにしていた。
そしてある日、名前を尋ねられた。
聞かれた質問に対してシカトするほど、めんどくさがりでもなかったから、教えてやった。
するとアイツは、おずおずと俺の苗字を呼んでくるのだが、俺はどうしても、アイツの苗字が呼べなかった。少し、個人的に聞き覚えがったからだ。
しかたなく俺は、アイツを名前で呼んだ。
するとアイツも、俺を真似てきた。
「あした、」
何度目かの席替えで隣同士になった俺と小凪は、元々並んでいる机を動かすこともなく、昼飯を食っていた。
俺は進まない箸をそのままに、隣に顔を向けていた。
「なに?」
それに気づいた小凪が、自分も食事を中断し、声をかけてくる。
コイツは俺とは全然似てない。
俺はこんな間抜けな顔できないし、四六時中にこにこなんてのもできない、威勢の制服をわざわざ着てくることもできない。
こんな、府抜けた笑みも、浮かべられない。
「お前って、学ラン似合わねーよなあー」
コイツのそういうとこが、気に入ってたはずなのに。
「えー、ひどくなぁーい?」
そう言って、ソイツは府抜けた笑みを見せた。
「そんな真っ黒いんじゃなくてさ、白のフリルとか、」
「朝、」
「髪の毛だって、編み込んでたの、よかったじゃん、」
「あし、」
「なあ」
これで俺は、納得するのか?
「なんでお前、女なのにそうしないの」
小凪は、困ったように瞬きをしていた。
そりゃそうだ、俺、こんなこと言ったことねーもん。
なのに俺は、更に畳みかけた。
「あの親父のことが、すきなのか」
小凪は、笑った。
「霞が、女の子なのは、おれの前でだけでがいい、って」
小凪は俺から、自分の弁当に目を落とした。
コイツはいつもコンビニ弁当だ。
「でも、霞のためっていうか、霞に、ちょっとでも好きになってもらえたらいいな、っていう、エゴだから」
小凪は割り箸で、プラスチックの器を所在なさげにつついていた。
その顔は、嬉しそうだった。
「……母親は?」
「ははおやぁ?はぁ……、って、なんだろうねえ?」
小凪は、顔を上げてまた俺を見ると、気の抜けたような笑みを見せた。
「…………じゃあ、…………他の、家族は?」
その時俺は、思わず小凪から顔を背け、俯いてしまっていた。
けれどその顔を何とか上げ、アイツの方を見た。
「他ぁ?」
アイツは……――
俺のうちは片親だ。
家には俺しか子どもはいないが、母さんが女手一つで俺を育ててくれている。とても感謝している。
しかし俺だって、自分の父親への興味がないわけではない。
母さんには申し訳ない気もするけれど、そこまで母親だけに盲目的なわけでもないから。
だから俺は昔、母さんに聞いたことがある。
とおさんは?
一言だけ。
すると母さんは、俺を叱るでもなく、悲しむでもなく、少しだけ困ったように笑った後、言ってくれた。
朝が、もう少し大きくなったら。
当時、自分はもうそこそこ大きくなっていたと思っていた俺には、それがいつなのか俺にはわからなかった。
けれどその時母さんの言葉に頷いて、それ以来俺は何も言っていない。
そして今年の俺の誕生日に、母さんは、その人の住所を教えてくれた。
黙って住所の書かれたメモ用紙を渡してきただけだったが、俺は別にそれで充分だった。
俺は母さんに礼を言っただけで、それをどうしようとは思わなかった。
ずっと大事に持っていただけだ。
だけどあの日、俺はあの人に会いに行こうと思った。
それは突然俺の中に沸き起こったものであった。衝動と言ってもいい。
焦っていたわけではなかったが、俺はその週の日曜に、そこを訪れることに決めた。
教えてくれたのは母さんだったし、俺が伝えておきたかったから、母さんに日曜の外出を伝えた。
母さんは、そう、と言っただけであったが、その顔には心配の色がはっきりと表れていた。
俺が今まで何度も見返してきたそのメモ用紙には、安っぽい名前のアパートで暮らしているというその人の名前の下に、もう一つ名前があった。こういう、苗字が書かれていない名前は、つまり、同じ苗字ということだろう。一緒に住んでいる、ということだろう。
「他はぁ、……知らないよっ」
小凪は明るい笑顔でそう言った。
ばか、俺はお前の兄弟だよ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?