孤独に生きると決めた
久しぶりにnoteを書く。
自分を抱きしめ労りながら、勇気を出しながら、自分の形を知りながら生きてここまできた。
この頃は不完全な自分をわらいながら、いろいろなことを「まあいっか」と慈しみながら、孤独で生きると決めて、ただくらしを続けている。
花の水を替えたり、晩酌をしたり、好きな動画や映画を見たり、1冊の本をゆっくりと読んだり。
完璧主義だった。過去は消して、善い1日と、善い趣味と、善い時間と、善いくらしと。そういうものを求めていた。しかしままならない日も嵐の中でジッと獣のように蹲る日もあるのだ。ばかみたいに食べる日も眠る日もある。何もしないばかりの日々もある。わたしの欲しかったものは善い日々ではなく、そういう日々を笑って慈しめる自分だと気づいたときに、肩の荷を下ろした。時間も天気も他人も、それかわたし自身も。何かによってわたしの理想が崩れることなんて、ほとんどだ。そんな不完全な時間や、あるいは不完全な過去も呑み込んで笑えるようになりたかったのだ。そして少しずつ、なっていっている。
だいたいのことに「まあ、いっか」と思うようになった。わたしのくらしと、ともしび以外には。むかしよりもだいぶん、枷が少なくなっている。
そして過去にしがみついたり、意味を求めたり、吝嗇になったりするのもわたしだった。どの居場所にいても、きっとずっとさみしいし、ずっと意味を求めて吝嗇になる。
すでに一度、死のうとした身だ。残りは余生だと思って気ままに使えばいいのだと思う。今のわたしの価値がどれくらいあるのかは知るところではないが、価値がなくとも生きていていいこと。生きている意味を求めなくてよいこと。身勝手な思い出づくりのために、いろいろなことをしていいこと。思い出は花束のようにめいっぱい匂いで捨て去ること。これもまた少しずつ、なっていっている。
軽やかでテキトーで孤独でごきげんな人間になりたい。灯台の中でくらしをただ続けてゆきたい。それ以上はない。さみしいときはヒトや本や動画映画に触れて笑い飛ばしていたい。それらがすべて同列であってもいい。こう思ったとき、きっとわたしはもう、そうなっている。
わたしの在り方と感情はまったく別々の動きをしていて、感情はわたしを豊かにして、在り方は感情を抱きしめて灯る方向を差して。そうやって生きている。
明日死ぬかもしれないし道半ばであるかもしれないし、どうなるかわからないけれど、わたしの今はそうなっている。そう在っている。おなかが減ったから今日はこの辺で。では。
今日は炙りしめさばです。ふふん。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?