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『熱海殺人事件Standard』(2024.07.13)についての備忘録

【以下、自分のThreadsからの転載です。誰も見てないからなThreadsなんてな!】

まず第一印象として、「東京」と「地方」という図式がこんなにもしっかり描かれていたっけか、と驚いた。
木村伝兵衛部長刑事は、熱海の浜辺で職工が女工を殺害した事件の取り調べに臨むが、そのあまりの地味さ、色気なさに犯人の大山金太郎を在日朝鮮人ということにしようとしたり、容疑者はカフェじゃなくてカフェバーで被害者と会ったことにしようとしたりと、次々と虚飾していこうとする。その虚飾に耐えかねて自白を始める大山…みたいな流れ。
数年前(嘘だろ)に『熱海…』を観た時には考えもしなかったが、何故この木村伝兵衛はこんなことをしているのかということを考えながら今回は観ていた(大人になったね僕も)。
例えばこの殺人事件が新聞記事になるとして、「熱海の浜辺で職工が女工を殺害」といった本当に小さな記事が地方紙に載るくらいだろう。全国新聞に載るのかどうかも怪しい。だので木村伝兵衛は「出世のため(まぁ嘘だけど)」と言って事件に虚構を並べて飾り立てようとするわけだけど、これは大山と(殺害された)アイ子の人生みたいなものを「東京」や「資本主義」といったものによって黙殺、圧殺されることに抗うための手段でもあるのだな、と感じた。今回、木村、熊田、水野の刑事3人は、「一歩踏み出せない人物(告白できないとか、相手をちゃんと振ってないとか)」として描かれ、それは台詞でも言及されていたけども、それに対して容疑者大山金太郎は「殺す」ということに踏み切った人物であり、木村はその点をリスペクトして、「この事件を黙殺させず、華々しいものにしてやろう」という気概があるわけである。やがて虚飾に辟易した大山は本当の「動機」を語り始める。
木村伝兵衛がやっているのは「(暴力的な手順を経て)弱者当人の言葉によって弱者当人を語らせることによって、その『声なき声』に(自身を含む)大衆の耳を傾けさせる」という、やってることの本質は応用演劇みたいな手段なのである。暴力的だけど。
で、ここから語られる大山の自白というのが、
「地方出身者にとっての『東京』という虚構」を浮き彫りにしていく。
「地方」と「東京」。
この間には大きな断絶があって、長崎の五島(川口春奈の出身地じゃなかった?)から出てきた大山は、同郷のアイ子と再会する。
アイ子は性産業に従事しているが客もつかなくて、およそ非人権的な仕事をさせられているんだけれど、「東京の女」になっている自覚はあるので、地方感まる出し(原宿に弁当と水筒さげてやってくるモップみたいなパンタロンを履いた男)の大山に対して「恥ずかしい」と告げる。
「東京」に純度100%の「地方」を持ち込んでくるのは「恥」なのである(みんなも田舎の両親に、東京の友達の前で「漬物食べな?好きだったでしょ?」などと言われた時のいたたまれ無さを想像してみよう!)

でも大山はここでめげずにアイ子に結婚を申し込む。なんといったって、大山は「村相撲で一位になった」ことのある男なので、自分にもある程度の男っぷりはある、という自負があるのだ。それが彼にとって唯一最大の自尊の根拠、実存の起点なのである。
でもアイ子はもう既に「東京の女」なので「(過去の自分を思い出し後ろ髪引かれつつも)そんなの忘れた」と言い切るわけである。
「東京」に対して「村相撲の大一番」はあまりにも小さく、そして無意味になってしまうのだ。

唯一の自尊の根拠と、「あの大一番で俺を応援してくれたアイ子」を同時に打ち砕かれた大山はアイ子の殺害に至るのだ。

自白を聞き終えた木村伝兵衛は、その動機を飾り立てることなく、十三階段を踏み外さないようにとハイブランドな靴をくれて、裁判長に言い残すことを問われた際のアドバイスをする。
「東京」と「地方」、「黙殺する声」と「黙殺される声」、「生」と「死」、そして、「男」と「女」。
あらゆる二項対立かつ、絶対的にも思えるその二項の上下関係を相対化し、打ち崩すことによって、犯罪者であっても弱者であっても、その人生に輝きを見出し、耳を傾ける。生きている限りその「価値」に上下はなく、そのどれもが「絶対」的であるという(すべてを否定することですべてを肯定する、とでも言おうか)、泥臭い輝きを放つ「ヒューマニズム」が木村伝兵衛には宿っているのだ。
もちろん、弱者によって語られたからといっても犯罪は犯罪だし、その「黙殺された声」によって語られるのがすべて尊ぶべき美しさを持っているわけではない。でも、その「醜さ」にこそ人間を見出し、語らせ、(大衆、つまり観客に)記憶されることによって、「ある事件」ではなく「熱海殺人事件」として、(東京という虚構の)波に飲まれることなく、浜辺に書かれた消えない砂文字の如く、残り続けるのだろう。


これは俺の新札を旧札に変えた新宿のカレー

2、3書き漏らした気もしますがスッキリしました。
こっからは普通に悪口なんですけど、演者がやっばり「有名人」なので、本来つか作品は「泥臭さ」が「滲み出て」くるものなのだと思ってるんだけど、今回はその「泥臭さ」も「演じる」もの(つまり嘘)になっていたのは「うーん」という感じ。
つか作品って「(世間的には)無名の演劇人」とか、「演劇初挑戦のアイドル(その虚飾が剥がれる瞬間!)」とかの方が輝くと、個人的には思っているので、「演技の上手い有名人」がやると、なんていうのかな「本当」が何もなくなってしまうんだよな…という。でもこれは良い発見でした。
あと、前半の水野婦人警官の手持ち無沙汰だから伝兵衛の台詞を一緒にいう感じが(個人的に)嫌だったのと、
やっぱり選曲とギャグ選びが、やや(無理に)現代的だったことに違和感を覚えたので、あぁ僕は熱海を、つか作品を、古典として観てるんだなとも思いました。果たしてつかこうへいが存命なら、大山金太郎の登場曲に嵐の『Monster』を選ぶだろうか?選ぶかもしれない。本当の当時を知らないからな僕は。

さて来週は中屋敷法仁のモンテカルロ版。
どうでるか。

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