考えたことのメモ

この世界は蝶が見ている夢である。
この世界は実は5分前に突如として発生したのだ。
生きていると、このような文章を目にしたことがあるではないだろうか。
前者は胡蝶の夢と呼ばれる、荘子の説話。後者は世界五分前仮説という、Wikipediaを読むのが好きな人ならば該当記事を一度は読んだことのあるであろう仮説。

テクノロジーが発達したこの時代において、何をそんな非科学的なことを考えるのだ、と一蹴されがちな、この世界の存在そのものについての議論。
しかしこれらは現代科学を持ってしても否定しきれないのではないか。存在を思考すると、科学では歯止めが効かない。

世界の歴史とはシャボン玉のようなものだと思う。
大きくできたシャボン玉は、「もったいないから」「残したいから」と言って手で支えるなどして、延命処置を施す。小さくできたシャボン玉は、いつか割れる。そんな遊び方。
重大な出来事はたくさんの史料をもとに、保存され、語り継がれ、教科書に載るような歴史となっていく。一方で、ちいさなちいさな出来事は、その出来事の当人同士しか知らないし、その人々はいつか死に、その出来事が本当に存在したかどうかもわからなくなる。これは科学では証明できない。

そうなると、“思い出”という自己の歴史にすら疑いの目を向けてしまう。
遠い昔、まだ幼稚園児だった頃。友達に折り紙の折り方を教えてあげたのに、何故か機嫌を悪くされて険悪な雰囲気になった記憶があるのだけど、それは本当に存在した出来事なのかしら。
私は覚えているけど、相手の記憶になかったらこれは“出来事”じゃなくて私の“妄想”に成り下がってしまう。気がする。妄想に塗れていく私の人生の中で、何が本当なのかがよくわからなくなる。

自己のアイデンティティは、他者という存在がなければ確立し得ない。世界の存在を疑い続けると、自己の存在に疑いの目が向くのは必然だったのかもしれない。

そして、その他者にすら、人生がある。その家族も、本人も覚えていないような歴史を抱えた、他者がごまんといるのだ。

この事実に気づいてしまった。
う〜ん。流石に、受け止めきれない。世界があまりに大きい。そして私があまりにちっぽけで愚かである。

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