第一夜【サイカイ】scene8

★☆☆☆☆☆☆★

 小型のプールにシーソー、五段ほどの階段を備えた子供の遊び場のようなステージで、ブリキのバケツを持ったスタッフがペンギンたちに囲まれている。トランペット型のスピーカーからは、タンバリンの音が目立つ明るいメロディーが流れている。
 トレーナーが指示を出しながら魚をやると、プールの上に浮かぶ薄いビート板の足場を、ペンギンがバランス感覚よく歩いていく。三つの足場を渡りきった一匹が物欲しそうに振り返る。タイミングよく魚が飛んでくる。
 三月の風は凍てつく。ダウンジャケットに身を包み、マフラーに顔を埋めたソラは、家族連れで賑わう観客席で一人、ぼうっとペンギンショーを観ていた。
 ジャケットのポケットを探って、折れ曲がったパンフレットを出す。ペンギンのパレードまであと二時間もあるのに、ここ以外に座っていられる場所はない。
 ソラは寒さに耐えかねて、席を立った。
 パレードはヒカリと観るはずだった。彼女と立てた予定や一緒に決めたルールを一人でも守り続けることが、ヒカリに近づく唯一の手段。ソラにはそう思えた。春休みの終わりに駿河湾マリンバレーを訪れたのも、もしかしたらヒカリに会えるんじゃないかという淡い期待があったからだ。
 ソラは自販機の前に立った。これだけ寒いというのに、ホットが一つもない。商品はすでに冬物から夏物へと入れ替えられていた。
 そういえば、来週から新学期か。
 ソラは自販機から離れ、席に戻ろうと振り返った。
 その背中を、老成した男の声が捕らえる。
「久しぶりだね」
 聴き慣れた声ではなかったが、記憶に刻みついている。それに、久しぶりというほどでもない。
「星を眺める者よ」
 男が付け加えたので、ソラは顔を向けた。
「やめてください、恥ずかしい」
 薄いグレーだった短髪はより白味を増し、元々こけていた頬も窪みがくっきりと浮かび上がっている。やつれてはいるが、ソラの知る御門司郎だった。
 浅間機関が監視を続けているとは思っていたが、こうもあっさりと見つかるものなのか。テクノロジーに対する敗北を感じた。しかしおかげで、この偶然にも納得ができたし、出会うはずのない男で出会ったことも、それほど驚かずに済んだ。
「僕はもう〈コネクター〉じゃありません」
「君はずっとコネクターだよ。一度負った役目からは降りられない」
 そう言って司郎は、ホットのブラックコーヒーを手渡した。
「上で話そう。展望台は人がいなくて話しやすい」
「来たことあるんですか」
「ああ。『彼』が小さい時にな」
 ブラックコーヒーを空けて、一口飲んだ。苦くて、熱い。もう一口いくと、苦味は幾分か楽になった。しかし鼻から抜けていく野生的な香ばしさが慣れなかった。
「ミルク入りの方がよかったかね」
 階段を上がる途中、司郎が気遣って言ったが、ソラはそんなことありません、と跳ね除けた。それからごくごくと多めに飲んでみせた。
 展望台は司郎の言ったとおり、閑散としていた。エレベーターがなく、三階相当のこの場所まで登ってくるのが億劫らしい。古びた木製の台の上に、スタンプラリーの巨大な判と、干上がった朱肉が見える。
 フロアに固定された二眼の望遠鏡があり、中央には太くて丸い柱が貫いていた。外周に沿うように背もたれのないベンチがいくつかあり、その一つに腰を下ろす。
 御門司郎は、京平の父にして、浅間機関の諜報員だった。ヒカリを守る任務に従事していたが、宇宙から来た来者にまんまと連れ去られてしまった。その失敗のために、組織をやめさせられたと聞いている。
 彼と話すのは、京平の簡易的な葬儀に立ち会って以来だ。
「どうしたんですか。司郎さんから話なんて」
 ソラはコーヒーをすすって訊ねた。
「そんなに固くなるな」
 ソラと同じ缶コーヒーを飲む司郎が言った。
「ただの様子見だよ。私たちの、友人としての付き合いを継続するための」
「友人として、ですか」
 ソラはぎこちなく言った。この男のことをソラは、おかしな出来事へ誘うチシャ猫のように思っていたので、友人という概念が最初はそぐわなかった。
 中年男性の疲れた顔を横目に見て、ソラはどうしてか胸が苦しくなった。彼は仕事でへまをして組織を追われた上、息子も失っている。
 そこでソラに一つの疑問が生まれる。疑問は、沈黙を破るためには好都合だった。
「あのう」
 ソラは、望遠鏡の方を見ながら言った。
「司郎さんは、今は何をされているんですか」
 しばらく首を傾けて考えた後、司郎は乾いた笑いを浮かべて言った。
「情報屋だね。フリーの」
「そうなんですか」
 こういう時、なんて言ったらいいかわからなかった。自分よりもずっと多くを知っていて、人類規模の仕事をしていた大人が、病に伏せるような顔をしている。
「京平さんのことは、その、残念でした」
 ソラはそう呟くと、京平の最後の姿が自ずと思い浮かんだ。京平は父親の失敗を自分の失敗だと考え、強烈な自責から、人間でいることに耐えられなくなった。京平が宿すナノマシンはその想いに反応し、医療廃棄物から集めた有機物をでたらめに縫合して、彼を化け物に変えてしまった。
 彼は〈人類の敵【リスク】〉になった。
 ナノマシンは想いと肉体を密につなぐ。心の歪曲によって、肉体も歪曲する。
「あんなことが、また起きるんですか」
 ソラはえずくように恐ろしい問いを静かな館内に放った。
「浅間機関は、犠牲よりも利益がほんの少しでも上回れば良いと考えている。地球には、まだ眠っている〈ヘテロ〉が無数にある」
 しばらく間を開けてから、司郎が答えた。
「ヘテロって?」
 ソラが訊くと、司郎はコーヒーの缶を膝の横に置く。
「人類の歴史とは異なるもの。外からやってきた災い。それが地球に根を張った事象も含める。要するに、君らの言葉で言ったら――」
 自嘲っぽく笑って、オカルトだ、と付け加える。
「浅間機関はヒカリを……、〈ゲスト〉を迎えるための組織じゃなかったんですか」
「ゲストを安全に受け入れるためには、宇宙との接触に備えなければならない。組織はそのための事業を拡張していった」
 ヘテロを管理することもまた、その一部に含まれる、ということか。
 あれだけ失ってもなお浅間機関は、ヘテロから何かを得ようとしている。それが人類のためになると嘯きながら。旧態依然。だから士郎は、組織を離れたということなのだろうか。
「なあ、ソラ君」
 ソラが頷くと、司郎は膝の上に肘を乗せて前のめりになった。
「先週、北海道を管轄する〈司令塔【タワー】〉が襲撃された。アーカイブは自衛的に暗号化したが、十二・八に関するデータが流出した可能性がある」
 深刻そうな面差しで、司郎が言った。きっとこれが本題なのだ。
 今でこそ曖昧な立場だが、十二・八の当時、ソラはゲストと組織を繋ぐパイプ役として、紛れもない浅間機関の一員だった。
 でも、それを聞いて、どうしろと言うのだ。
「僕にはもう関係のないことです」
 ヒカリがいないのなら、どんな大義だって意味がない。ヒカリがいない世界が栄えようが滅ぼうが、ソラの知るところではない。付き合っていられない。
「君はまだ、宇宙を眺めているか」
 日課として、儀式として、罰として――天体観測を行っている。しかしどうだ、それが司郎の問いに対する答えになっているだろうか。ソラは曖昧に頷いた。
「いいか、君に関係がないことなんて、一つないんだ」
 司郎はソラの目を覗きながら言った。
「疑うな。猜疑心を隠せ。能天気を演じろ。そして時が来れば必ず、君の力必要になる。しばらくその鋭い目を閉じていなさい。しかし視力は決して失わずに」
 言葉は、右の耳から左へと抜けていった。
 あとに残るのは痺れるような空虚さだけだった。

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