超絶ポジティブのなり方

日々の大切な習慣ということでお題が出てましたので投稿してみます。
超絶ポジティブになれる習慣ですが、一面一人よがりに陥ってしまうという危険性も持ち合わせているので採用される方はご慎重に。
さて本題ですが、あなたは富士山を良き景色として眺めているとします。その現象を物理的に分析すれば、昼間なら太陽光が富士山表面の岩石群に当たり反射しそれがあなたの目のレンズを通り屈折して網膜に焦点化されその情報が電気的刺激となって脳に入り見えているという現象が起こっている訳です。
ここで一番大切なのは目のレンズで、そこで屈折するからこそ視界として脳に認識される訳です。
ということは美しい景色を見るという行為は目にレンズを持ってしかもその情報を受け取る脳の存在が前提とされているということなのです。
それはどういうことかと言うともしも神様がいて人間たちに美しいと思われる景色を創造したとすると何億年かけてまずその景色を自然現象として創り出し、その後それを見て喜ぶ生物が進化して眼球を獲得して行くのを気長に待っていた、ということになります。
こう考えると今がどれほど奇跡的か、ポジティブになるしかありませんよね。
一方でその記憶は私たちの脳に思い出として保存されて行くからこそ皆さんこぞって良い思い出を作るべく毎日努力して苦しい仕事でも頑張っておられる。
生きている間はそうするしかありません。
死んで火葬されて脳が灰になるまでは。
そこで記憶は蒸発して天に登り消滅してしまいます。蒸散して凝固して他の生命体に再生するという事象もたまに見られるようですが、それは稀です。
ここでもう一度振り返る必要があるのはこの時点でレンズも同じく灰になって使えなくなる点。
魂が残るか否かは議論がありますが、残ったとしてもレンズは持ってないので死後の世の中を視界として見るのは不可能です。
音も同じで鼓膜も灰になって終わります。
物理的な世界を感じる術を失ってしまう訳です。
残した子供達を見守って死後を続けるという事は虚しい願望でしかないと思うしかありません。
どこがポジティブか?
逆に考えればあなたは自分が去った後の現世にはなんら責任を取らなくて良い、何故ならその痛みを感じる術を持ち合わせていないから。
道徳的観点から言えば無責任な人生と一蹴されてしまいます。
人を殺す自由はその罰を受ける覚悟を持てば手に入ります。極端な例ですが。
反対の例で言えば大富豪は自分の持つ全財産を恵まれない子供たちに寄附するという遺言を残して自殺してもいい。
そういう意味では我々は無限の可能性を持っていると言っていい。
ポジティブですね。
#日々の大切な習慣


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