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カタカナの街で暮らすこと


こんばんは。私の住んでいるところは今日はとても冷え込んでいて、肩が上がってしまうので元々短い首をさらに短くして、胴に頭を埋めるようにして学校へ行きました。これで明日厚着したら暑くなったりするんだろうな〜、気難しい秋、かわいいね。



「学校へ行きました」と書いてあると、私を大学生だと知っている方は「学校」は大学のことだと思うのではないかと予想するのですが、今日行った学校は中学校です。明日行く学校も、です。



そうです、始まりました、アレが。「○組の先生めちゃくちゃ可愛い!」とか「数学の先生イケメンじゃない?」とか、「楽しそうに歩いてたけど付き合ってるのかな〜」とか生徒がこぞって噂するアレ。そう、教育実習の季節です。20歳秋、とうとう実習生になりました。あ、拍手要らないです。必修なだけなので。


とにかく自堕落な大学生にとっては毎朝起きることが何よりもの苦痛で、さらに運動不足で貧血体質の私には50分間の授業を何コマも立って見続けるということがつらくてつらくて仕方ないのですが、挨拶してくれたり、問題を間違えて素直に悔しがったりしている生徒を見ていると、かわいいなぁ、と自然に思います。想像よりはキツくない毎日です。



私の担当教科は国語なので、主に国語の授業を参観させてもらってます。先生って適当に話してると思ってたけど色んなこと考えてるんだな〜と、教える立場になって初めて知りました。学校の授業にいい思い出がない人も少なくないと思いますが、先生ってすごい職業だなと近くで見ると改めて思います。



実習についてのことは詳しく書く気はなくて、今日はある国語の授業の時間に思ったことを書きます。早く寝なきゃいけないしね、明日も学校だから。





中学1年生の国語。教材は「大人になれなかった弟たちに.....」


有名な話なので知っている人も居ると思いますが、戦争に関するもので、まだ赤ちゃんだった弟を栄養失調で亡くしてしまった家族が描かれている、戦時中の市民のつらさや食糧難の厳しさを感じられるお話です。


亡くなってしまう弟の名前は「ヒロユキ」で、最後の場面では、ヒロユキが亡くなってすぐの8月6日にヒロシマに、8月9日にナガサキに原爆が投下され、そして戦争は終わった、ということが描かれています。


今日観察した授業では、「ヒロユキ」「ヒロシマ」「ナガサキ」の3つに注目させ、文章における表記の工夫を考えるという活動がありました。
(人の授業なので一応内容はなんとなく変えてます)


答えとしては、外来語に主に使われるカタカナを使用することで他の語から際立たせ、また外国の人にもわかりやすいように、平和の象徴としてカタカナになっている。また弟のことも、広島や長崎と同様に忘れてほしくない存在であることから名前がカタカナになっている、というものでした。



そうだと思います。異論は無いです。国語的正解はこれだし、カタカナであることで世界に原爆の惨さは伝わっているのかもしれない。夏になると、日本人が思い出すように、トリガーの役割を果たしているのかもしれない。





でも。



ここからは国語を離れますが、カタカナにされた側の人は、どう思うのだろう、と思いました。


「忘れるべきでない。覚えておいてほしい。平和の象徴として。」

この願いは、どこから来たのだろうと。






私は20歳で、戦争の経験はありません。祖父母もありません。祖父母の両親になってやっと戦争を知っていますが、既に亡くなっているので、戦争の話を聞いたこともありません。


だから、戦争でない日常的なつらさに置き換えて想像するしかないのですが、つらいことを覚えていたいと思うだろうか、という疑問を抱きました。


例えば、大切な人を亡くしたとき、確かにそれはつらいことだけど、忘れるよりはつらいままのほうが、と考えて、「忘れたくない」と思うことはあるかもしれません。でも「象徴」にしたいとは思わなくないですか?


つらいことがあったとき、上のような場合を除いて、忘れてしまいたい、と思うことの方が多いように私は思います。バイト先で理不尽に怒られたとき、自分の準備不足で何もかも上手く回らなかったとき、怪我のせいで好きなスポーツを続けられなくなったとき。その時の感情を「覚えていたい」と思うのは、ごく限られた条件でのみだと考えるのです。


しかし、戦争による被害は日常的な被害とは規模もつらさの程度も大きくかけ離れたものだと思います。国際的な意義も持つし。だから、一概に「つらいのに覚えてたいわけないだろ」と主張するつもりはないのですが、私が思ったのは「カタカナにして「風化させないよ〜」と安く主張するのだけは絶対にやめよう」と。


私はカタカナの街には住んでいません。最近だと、震災で原発事故のあったあの街もカタカナになりがちですよね。書かないけど。


だから、私も外野なのです。カタカナの街で暮らす人に「カタカナにしてくれよ!俺らのつらさを揉み消すな!」と言われたならば全部カタカナにします。


でも、忘れないことをいいことと認識する世界で生きながらも、忘れたいと思っている当事者の人がいるかもしれないことを、私は忘れずに生きていたいと思いました。


理想は、カタカナなんかにしなくても忘れないことなんだけどね。人は忘れてしまう生きものだから仕方ないのだけど。そう、ふと思っただけです。でも、確かにカタカナに際立たせる効果はあると思います。国語的にね。



キョウ サムイカラ アッタカクシテ ネテネ!オヤスミ!



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