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透明日記「魔のトライアングル」 2024/04/20

魔のトライアングルというものがある。わたしの生活では、家と川辺と近所のカフェという三つの場所が魔のトライアングルの頂点となっている。川辺は点にしては広いが、向こうに行ってこっちに帰るだけで風景に大差はない。場所は広くともやはり点だ。家がそうであるように。

この三つの頂点を結んだその中身が、わたしの一日のすべてだ。二年ほど前に無職を始めてから、そういう日が多い。魔に魅入られているのだ。

この退屈なトライアングルから抜け出したい気持ちになることもある。しかし、外に出てすることが思いつかない。休日になると人が出かける。平日でも無数の車がわたしのトライアングルを突き抜けていくのが見られる。一体、人々はどこからどこに向かっているのだろうか。どこから用事を調達しているのだろうか。少なくともわたしには、用事の出所が知らされていない。

朝方、母は墓参りに出かけた。わたしの兄の一家と落ち合って兄の車で行くと言う。わたしは墓参りが嫌いだから断った。墓参りは半日かかる。半日のあいだ、死に向かう移動と死の元を去る移動をやるのだ。移動だけで疲れ果てる。死を想うだけなら、近所の川辺で十分だ。

川辺に向かうと、死が頭の中を駆け抜ける。ほんの一瞬。晴れた坂道を登るときに。流れる川の川面に群れる水鳥の群れを見たときに。淡く、みずみずしい色彩の大きな空に抱かれたときに。

母が出かけると、ベランダでタバコを吸うことにした。シートに座って、立て続けに吸った。それなりの時間が過ぎるうちに、雀がベランダに来る。

ベランダは孤独だ。ベランダのわたしを知っているのは雀だけということになる。休日も、平日も、朝も、昼も、夕方も。

夜は?とても惨めだ。

しかし、自分が惨めだと思わない人間ほど惨めなものはない。それはただの自己欺瞞だ。自分に対する嘘だ。まっしぐらに死へ突き進む特急券だ。そんなものは丸めて路上に捨て去るに越したことはない。なにより、嘘はよくない。

新卒で入った会社で驚いたのはそういうところだ。入社して間もない頃は誰もが社会人という着物が慣れずに、ニヤニヤとはにかんでばかりいる。同期と顔を合わせると、意味もなく和気あいあい、平和な空気が生まれる。

しかし、半年もすると様子が変わる。いつもふざけたことを言い合っていたアイツが、社会人という着物を心に溶かし、「もうおれは社会人やから、そういうことは思わへん。」と言った。通勤前のことだ。わたしは「工場、爆破してたらいいのにな。」と、いつもの軽口を叩いただけだ。

「社会人やから」と聞いたとき、こいつはどうしようもないバカだと思った。バカだと思って、寂しくなった。

人間であることはどこまでも不安で仕方のないことだが、不安から、訳のわからない型枠に自分を嵌め込むのは違う。自分以外の型枠に自分を救う何かがあるということはない。型枠は自己欺瞞を誘導する罠でしかない。

誰がこのことに気付いていて、誰が気付いていないのか。慎重に見極める必要があった。学歴のある者ほど、容易に社会人を代弁するというのが分かってくる。あの連中は大学で何を学んできたというのか。不思議でならなかった。

会社には毎年、新人が入ってくる。自分を社会的な枠組みにピッタリ嵌め込もうとする人間ほど、鼻息を荒くして仕事を頑張る。しばらくすると目の開きがイカれてくる。ナマの不安に耐えられず、盲信に身を委ねる目つきだ。

そういうわたしは、ずっと、社会人という着物がこしょばかった。半年経っても、一年経っても、三年、六年、ずっとこしょばい。こしょばくて、はにかんでばかりいた。自分だけがこしょばいようで寂しくて、惨めなときもあった。いまでも惨めだ。それもまた、道は違えどイカれている。おかげで日中のわたしは雀にしか見えない。

今日は早く寝よう。明日の足音が聞こえる。ほんとうは、言葉が持っている嘘というものを考えたかった。が、また今度にする。今度はいつ来るだろうか。今度と言うとすぐさま、未来永劫に来ないということが約束されるかのようだ。

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