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透明日記「書くことがない」 2023/09/22

どうしたものか、何も書けなくなってしまった。エディタを見た瞬間に、記憶が喪失してしまう。何も思い浮かばない。今日、私は一体何をしていたのだろうか。書くべき何事のこともなかったような気がする。そんなはずはない。新しいことを覚えたり、何かが届いたり、誰かが家に過ごすようになったりした。妹が来日した。しかし、そういうことを書きたいのではない。

これは日記だから、その日あったことを書けばいい。これが書けない。なぜか私が日記に書きたいのは、何時に何をしたとか、どこどこに行ったとか、予定をなぞるような一日の行動記録やひとまとまりの出来事ではない。日記に書きたいのは、ある時は家中の洗濯バサミについてであり、ある時は駅の構内の壁についてであり、母の謎の習慣がもたらす効果についてであったり、外出中に過ぎ去った風景といったものである。どこか分かりにくさのある、そこに在るものを書きたい。書いて分かるようにしたい。でも、見えない。見えてるけど見えない。感じているのに感じない。

言葉がいい具合に出てこない。焦ったい靄だけが流れる。頭の中から何かを出そうとして見当たらない、あの薄汚れた黄色い靄だけが流れる。あれが空虚だろうか。思ったより汚い。

一体、何が私から物を見る感覚を奪ったのだろう。最近の状況整理をしてみよう。私は無職だ。それに吉田だ。いや、それは最近始まったことでない。そうだ、無職だ。この無職が一因となり、三十路の女と別れた。私が悪いのは重々承知だ。この状況を打開するために、プログラミングの勉強を始めたわけだが、いまひとつ、情熱が枯渇してきている。

それはプログラミングだけの話ではない。あらゆる出来事に情熱が枯れてきている。文章を書いて、変なところに行くあの感じ、あの時間への没入。音楽に惹起されたイメージに浸る無時間的な空間、への欲望。見るもの、聞くもの、感覚したその感覚を言葉で捉えようとしてるときの夢遊的な意識。

そういう、私から私を奪い去るような没我の体験が欠けている。

気付いたら、没我することのない日々をおくってしまっている。これは危うい。危機に瀕していると言ってもいい。心の底のベクトルが多方向に拡散し、あらゆるものが意味をなさない、イメージを結ばない。現実が私に真実を告げず、のっぺりしている。アレをやってコレをやってと、過去に予定した流れからあんまりブレない。私はもう、ダメかもしれない。

夢中になれるものがなくなったのか。空虚がただただ、私を包んでいる。こうなったのはなぜなのか。一時的なものなのか。職を得ることを考え始めたからなのか。このまま、垂れる涎もそもままに、廃人と化すのだろうか。

未来に寄せる期待が少ない。期待が少なければ、不安も少ない。人間的な振れ幅もまた小さい。希望も絶望もない。かように宙ぶらりんの肉体は生きていると言えるのだろうか。目も耳も鼻も口も指も、身体のあらゆる部分が辿り着けないバラバラのタンスに仕舞われたかのようだ。

ラディカルな方向転換が必要だと思う。ラディカルとは?哲学が、文学が、実学のように作用する、あの見え方の変容。日常的な視点が壊れる感覚。アレが欲しい。同じものが別様に見えてしまう感覚。動くのが嫌いな怠惰な私は、日常あるいは机を色んな角度から見ることで暇を潰していた。あれがなければ、生きていられない。生きる意味がない。

死にたくないな、生きたいな。生きていた痕跡をノートの端に刻印したいな。薄っぺらい人生だとしても、幾らかの歴史を知っているつもりだ。実家の前のガードレール史、通っていた小学校のフェンス史、抜けられなくなった幾つかの抜け道、失われたジャスコ、ダイエー、中華料理屋、寿司屋、焼肉屋、全滅した近所の駄菓子屋。私は私を思い出すと同時に、他者に、世界に、あるいは記憶に目を向けなければならない。私は私でありすぎる。一旦、私が壊れるように、私に気付かれないように仕向けなければならぬような気がする。

ああ、書けないと言ううちに書けた。こういう速度で書いていたい。つぎはぎのもじゃもじゃを。この日記はもう終わる。明日は、

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