生きづらさを、どう捉えるのか。
「わたしはね、目が見えなくなってよかったなあと、ほんとうに思ってる。そのぶん、得たものが多いからね」
無理のない声色で、そう言われたとき、胸のなかがざわざわした。すごい視点から話してくれている、と思った。
こんにちは、こんばんは。栗田真希です。
大学生のとき、視覚障害者と仲間の集まり『いどばた』に参加していた。その管理人である、ゆずきさんには以前取材させてもらった。
この人と出会っていなかったらと思うと、怖くなるくらい、影響を受けている。
いどばたには、明るいゆずきさんを灯台にして、たくさんの人が集まる。視覚障害者も晴眼者も。
卒業から数年後に久しぶりに『いどばた』に顔を出して、ある視覚障害の方のサポートをしていたとき、一緒にごはんを食べていたときだったと思う。年老いてから視力を失った方が、冒頭のことばを発したのは。
「わたしはね、目が見えなくなってよかったなあと、ほんとうに思ってる。そのぶん、得たものが多いからね」
無理も強がりも、声には含まれていないように聴こえた。そのことに、驚いた。一緒に活動していると、わたしもアイマスク体験なんかもやらせてもらう機会があった。目が見えない恐怖もほんのすこしは知っていた。
自分だったら、こんなふうに穏やかに、けれど力強く、「目が見えなくなってよかった」と言えるだろうか。いや、無理だ。
続けて、こんなことを語ってくれた。
目が見えなくなって、目が見えない人たちの世界を知れた。世界が広がった。視力だけじゃなく、いろんな障害をもつ人たちのことを考えるようになった。こうして「いどばた」で仲間を見つけることもできた。ありがたいことだ。
わたしの胸のなかで、びゅんびゅん風が吹いていた。
もしわたしが視力を失ったら。もしも『いどばた』に出会っていなかったら。
ただただ泣いて、悲嘆に暮れていたのではないか。おのれの不幸をわめき散らし、誰かの不幸と比べて一喜一憂していたのではないか。
そんなおのれの姿が容易に想像できて、「敵わない」と思った。
誰しもがなにかしらの生きづらさを抱えて生きる。その生きづらさを大事にかかえていくのか、仲間と分かち合い話し合い笑って過ごすのか。世界の見方は当事者に任せられている。
不幸のない人も、生きづらさのない人もいない。不幸自慢をすればキリがない。そんな土壌の上で、楽しく生きようと決めて歩く人たちがいる。わたしも、そうでありたいと強く思った。
感染症の流行は、視覚障害者には大きな問題だ。なにせ、見えないぶんいろんなものを「さわる」ことで認識しているのに、あらゆるものがさわれなくなっている。さわれば感染のリスクが高まる。そんななかでも、『いどばた』のみなさんはzoomで集まったり、メールをしあったりして交流を続けてきた。たくましくて、うれしくなる。
またゆずきさんに、電話してみよう。
30minutes note No.1036
さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。