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もうnoteに書いてたと言えることで話が広がることもある

「noteを書いていてよかった」ということが、こんな細々と続けているわたしの場合にも、ときどき起こる。

このあいだ、打ち合わせ中に著者さんとの雑談で、わたし自身の写真についての体験を聞かれた。わたしの口からは、すらすらと言葉が出てきた。なぜか。書いたことがあるからだ。

一度考えて、自分で編集してあることだから、話せる。話したあとに、もうnoteのURLを送った。なぜならこの場合は写真も見れたほうがわかりやすいから。

急拵えのものではなく、一回すでに考えてnoteに書いていたんだな、という事実を知ってもらえるというのは、大きい。

そこから、さらに雑談は雑な話になって、わたしが家電量販店でアルバイトをしていたときのエピソードも話した。

いま考えると意味がわからないのだが、わたしはなぜか、大量のおにぎりをつくってバイト先に持っていっていた。5合炊いて、混ぜる具を3種類くらいつくっていた。食堂にある冷蔵庫に入れて、食べたい人に配っていた。

一緒に働く人たちに、なにかしら貢献できたらいいなという純粋な気持ちだったと思う。自分にできることはなんでもする、ということだったんだろう。大人じゃないなりの戦い方を模索していたような気もする。

大学生のわたしはひたすら、カメラが、お客さまが、売り場のみんなが好きだった。

休みの日にみんなで撮影会をするのも、買ったカメラのことを教えてもらうのも、シャッターを切るのも、「売る」ことについて真剣に考えることも、お客さまの幸せについて思いを巡らせることも、売り上げを競い合うことも、なにもかも。

だからなんだか、いまも写真が好きなわたしの土台には家電量販店のテーマソングが流れている。

雑談はどんぶらこと雑に雑に広がって、「こんなわたしの個人的な話ばっかりいいのでしょうか?」とわたしが問うと「すごくいい」と著者さんは言っていた。

また桜の季節が来る。父を撮ろう。そのためにまずわたしが健康でいなくては。風邪で喉を痛めてしまい、今日は会社の人に「声が別人だよ」と言われた。なんとか自分に戻りたい。

さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。