新しい作法
薫さんはいつも笑っている。24時間笑っている。逆に24時間、笑わなかったことは無い。いつでも、ニコニコ笑っている。
薫さんは私の屋敷の茶の間でいつも笑っている。振袖姿の彼女は、目を細めて笑っている。畳の上で、笑っている。
きっと、笑っている理由は忘れている。薫さんは昔、小学校の先生をしていた。教え子のひとりが、理科の実験で爆発に巻き込まれて死んでしまった。薫さんの関係の無い授業だったが、爆死した子どもの親が、薫さんを酷く責めた。しまいには、薫さんの自宅にまで親がやって来て、激しく彼女を責めたてた。
薫さんはとうとう壊れてしまった。歩く時にゼンマイの音がするようになってしまった。髪の毛から異臭がするようになった。口から砂が吹くようになってしまった。足先から、得体の知れない植物が生え始めてしまった。
あまりにも哀れだったので拾ってあげた。着ていたパジャマもボロボロだったので、余っていた振袖を着せてやった。以後、薫さんはずっと笑っている。24時間笑っている。
彩香さんはいつも壁に寄りかかっている。24時間顔だけ、壁に寄りかかっている。逆に24時間、壁から顔が離れたことはない。いつでも、壁に顔を押し付けている。
彩香さんは私の書斎の壁にいつも寄りかかっている。振袖姿の彼女の顔はもうかれこれ、5年は見ていない。
きっと、壁に寄りかかっている理由は忘れている。彩香さんは昔、俳優の卵だった。演技をしている最中に、舞台が崩れて主役の男が潰れて死んでしまった。彩香さんはそれを舞台袖から見ていただけだったが、この事故の原因を劇団から押し付けられた。しまいには、主役の男の彼女に夜道後ろから刺されてしまった。
彩香さんはとうとう壊れてしまった。部屋のものを全て無くしてしまった。目から濃い油が止まらなくなってしまった。裸になる度、皮がめくれるようになってしまった。あなたとの距離が分からなくなってしまった。
あまりにも哀れだったので拾ってあげた。着ていた水着もボロボロだったので、余っていた振袖を着せてやった。以後、彩香さんはずっと壁に寄りかかっている。24時間壁に寄りかかっている。
和美さんはいつも照明を付けたり消したりしている。24時間、照明のヒモを握って電気を付けたり消したりしている。逆に24時間、照明から離れたことはない。いつでも、照明を付けたり消したりしている。
和美さんは客室の照明を付けたり消したりしている。無心で、電球を見つめながら付けたり消したりしている。
きっと、照明を付けたり消したりしている理由は忘れている。和美さんは昔、田んぼ農家だった。田植えをしている最中に、和美さんの田んぼに散歩中の柴犬が一匹落ちて死んでしまった。和美さんは懸命に犬を助けようと頑張ったが、和美さんの親戚一同が、犬を助けられなかった和美さんの無責任さを酷く責めた。しまいには、和美さんの田んぼの水が塞き止められてしまった。
和美さんはとうとう壊れてしまった。指先の痺れが電撃に変わってしまった。つま先から伸びる影が縮まなくなってしまった。腰の痛みが全員の痛みに変わってしまった。大切な人の言葉を忘れてしまった。
あまりにも哀れだったので拾ってあげた。着ていた作業着もボロボロだったので、余っていた振袖を着せてやった。以後、和美さんはずっと壁に寄りかかっている。24時間壁に寄りかかっている。
私は漢字辞書を開いた。漢字の「中」の所に赤マルが着いていた。それを指でなぞって、大きく声に出して読んでみた。
「中!!!」
すると、薫さん、彩香さん、和美さんの動きが止まった。薫さんは笑うのを止めた。彩香さんは壁から離れた。和美さんは照明のヒモから手を離した。
「中!!!」
もう一度声を出すと、三人はその場で土下座した。とても綺麗な所作で、不快のない謝罪の姿勢だった。私はその様子を見て、急に哲学を信じてみたくなった。
漢字辞書を置き、壁に立て掛けられていた日本刀を持って、それを天に掲げた。刀身がお日様の光で輝いた時、ようやく外が曇りのない晴天であることに気づいた。三人にその快晴を見せたくなった。
「顔を上げて空を見なさい」
三人は顔を上げて、揃って屋敷の外へ出て空を見上げた。強い日差しに三人とも怯んで目を細めた。すると、彼女たちに着せていた振袖の紐がどんどん緩くなり、しまいには裸になってしまった。
「いい天気ですね」
「とてもいい天気」
「よく晴れている」
私は脱げ落ちた振袖を拾って、それを日本刀で切り捨てた。散らばった布と紐が彼女たちの薄色の肌にくっ付いた。
そこに大きな愛しさを覚えた時、ようやく時計の針は進み始めて、何か小さい幸せの企みが力強く鼓動を奏でた。盲目であった悲しみに対して、空は無償の許しを与えた。なにより、足枷は全て虚空だったのだ。私はその事実に震えた。拾った愛の形に、無限と、永遠を覚えた。
暫くして、小さな白い雲が流れてきた。快晴を彩る色彩に白が混じっても、なお青は鮮烈だった。
「謝罪するか」
私は三人に提案した。
三人はその言葉に頷き、大きく両手を上げてバンザイした。
新しい作法に、雲は笑った。
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