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無題(まだ生きろと夜が告げる)

自らの手で自らの人生を終了させてしまった人達のことを思いながら、何故か8ビートにおける3拍目・7拍目の音について考えを巡らせている。そこに「生きる意味」とやらが凝縮して在るように感じているからだ。笑わば笑え。オレは本気だよ。

一番最初にそう感じたのは、1987年だったか、原マスミさんのライヴを見に行って、演奏された "ムー" という曲で、パーカッションの帆足哲昭さんが大きくて薄い胴のタムを3拍目と7拍目に叩いていたのを聴いた時。「どぅンかツ、ばぁぉンかッ。どぅンかツ、ばぁぉンかッ♪」の「ばぁぉン」の音に、その曲の世界観が象徴されていると勝手に見聴き感じ取ってしまい、心酔したのを覚えている。

通常、ロックのドラムスでは、そこはスネアドラムが鳴らされることの多い拍である。スネアの音は、何つーかホワイトノイズに近いっつーか、のっぺらぼーっつーか、全てを吸収してしまうっつーか、打ち消してしまうっつーか……。だから、どんな曲にでも平気で鳴らされるんだろうし、それはそれで全然OKなんだけど。

そう、打楽器の音って一期一会。すぐ消えるし、掴めない。それを忘れないように、身体の拍動をもって拍子(ビート)として記憶に留め置こうとするのではないだろうか、と。

ただし、さ。その打楽器の音ってさ、他人が鳴らすと不快に響くことの方が大半なんだろうね。特に日常生活でのなかでは、さ。オレだって、大半のドラマーのソロ演奏なんて聴きたくないよ。

"リンゴくらい巧みにライド・シンバルを叩ける人間はいない。リンゴのシンバルさえ聴ければ、他のトラックがみんな消されてしまっても構わない。それで僕はごきげんである。嘘偽りなく。"  ("Pet Sounds" Jim Fusilli 村上春樹訳 新潮文庫より)

ステキです、ジムさん。そしてリンゴ・スターさん。でもやはりこれは相当なレア・ケース(笑)。

(閑話休題。かつて参加させてもらっていた "サンガツ" というバンドで、オレが学んだことは「ドラムをドラムスとして聴かない」ということだった。ドラムスをバンド・アンサンブルの中でのリズムキープ役として決めつけるのではなく、あくまでも「そういう音が出る楽器」として、ギターやベースと同列に認知すると、あら不思議、ドラムス演奏の中からメロディが聴こえてきます)

身体に馴染まぬテンポ、癇に障るノイズ、押しつけがましいリズムのイディオム、況してやそれらを絶えず強制させられる世界に身を置くとするなら、オレだってそこからの脱出を図るだろう。

ただ、オレは脱出する勇気がない。っつーか、それでもそんな〇〇な世界はやはりそんな〇〇込みでも素晴らしいものだということを、身を以て知っているから。

そんな世界から引導を渡されるまで、自力を恃みここに生き残り闘うことを宣言する。 まだまだよろしくお願い致します!



"世界の遊戯に関する / 君達の使命が / 終了したかどうかを判断する / 簡単な 基準がある。

もし、君達が生きていれば / 瀕死の重傷でかすかに息がある場合でも生きていれば / まだ使命は終わっていない" 

(Richard Bach "Illusions" 村上龍訳 集英社文庫より)

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