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<越中の歴史探訪~源義経>

-軍事的天才- スター源義経

 皆さま、おはこんばんちわ越中です。
今回は越中の歴史探訪と題しまして、たまには歴史について学んでみよう    と思った次第です。趣味の範囲ですがお付き合いだたければ幸いです。

さて、日本の歴史上最も有名な武将の一人として名高い源義経。
今回はその人にスポットを当ててみようと思います  

 ”騎兵を使った天才的武将、義経”

 平治元年(1159)に起こった平治の乱。源の兄弟の父義朝を破った平家は、平清盛を中心に一手に権力を掌握しました。
しかし、一人の天才的武将によって意外に早く滅びました。        

義経と言えば幼名を牛若、遮那王(しゃなおう)とも呼ばれ、京都五条大橋での弁慶との出会いなど その逸話は今もなお語り継がれるほど有名ですが
戦場においても、その類まれなる才能を持ち得た軍事的天才でした。

その才能を遺憾なく発揮したのは義経が26歳、治承・寿永三年(1184)一ノ谷での戦いでした。その前年、源氏に追われ都落ちし、西に逃れ一ノ谷に集結していた平家を、東西からはさみ打ちにしようという源氏方の作戦の最中です。

一ノ谷は現在の神戸市内に西部に位置し、義経は三木を過ぎたあたりで隊を二手に分け、地元の猟師 を道案内に雇い、自ら険しい山道に入っていきました。平家側は、現代の神戸市三宮、生田の森から須磨~一ノ谷まで   約10Kmに及ぶ陣が続いており、その頭上に突如として義経勢が現れます。

その頃の馬に乗った兵というのは、一対一の戦いを原則としていたわけですが、義経は常識とされていた戦争概念を否定して、馬に乗った人間ー騎馬兵の集団を一挙に移動させるという方法を史上、はじめて行った人物です。
それまで、名のりを上げて敵の首を幾つ取ったということが、当時の戦場では主流になっていたのをすべて否定した人なんですね。
これは、「平家物語絵巻」に-鵯越の逆落とし-として描かれています。
 
平家としては、盗人猛々しい野蛮なやり方のような印象を受けたでしょう。
今では常識じゃないかと思われがちですが、敵の背後に現れて、集団で奇襲するやり方は、盗賊や山賊を連想させるので、当時としては、およそ戦法とはかけ離れたものだったでしょう。


 ~スターの誕生~

なぜそんな戦法を思いつけたのか-
 彼は浮浪者の出身であり、まともな武士の教養や作法を学んでいません。
少年時代に、馬の本場である奥州の藤原氏のもとで送り、馬の習性を熟知していたであろうことから、独創したものなのでしょうか。
その後の屋島での戦いでも、義経方は地元の加勢含めて300騎ほど・・・ 平家軍が1000~2000騎ともいわれる大軍勢に対し、その独創性を発揮して、とうとう壇ノ浦で平氏を滅ぼしました。 

見事としか言いようのない心理作戦で、つまり戦場での集団における   ヒステリックになりがちな部分を奇襲攻撃によって刺激し、敵を追いつめたのですね。
これも馬や鳥などの習性から学んだのでしょうか、集団の恐怖心を煽り、刺激してやれば脆くも崩れるということをよく知っていたんですね。

この度重なる大勝利によって、義経の名は京都(当時の中心)から全国に知れ渡ることになったんですね。
それまでの偉人というのは、階級や官位が高いことが常識でしたが、源九郎というだけで何も持たない義経が、ある日を境に、京都中の子供まで知っているというまでになる。
そういう歴史的な状態になった最初の人です。たいへんな人物ですね。
  

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