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廻 ~越中のまどマギ考察

おはこんばんちわ、<越中>でございます。

いきなり次回予告ですが<越中FX>については今週中に記事を上げます。

今回は上記の劇場公開への考察をちょこちょこっと書こうと思います。

今まで個人的に気になっていた、ほむらは何故に悪魔ほむらになったのか

という点を考察してみたいと思います。

では変わる前(以下:眼鏡Ver)と後(以下:デビほむ)とは何が違ってしまったのかという点ですが、眼鏡Verでは一途に出会いをやり直したいー

ー守る側になりたいとの意思が明確にありましたが(本願として)

ループを重ねるごとに「まどかへの想いは私だけのものと」という

自分主体の願いに執着してしまい、まどかに関わるすべてのものに

個人の善悪からー自らその他の因縁を排除>独りよがりの願いに至ってしまい結果、デビほむに進化してしまったというのが真相であろうと思います。

私たちの世界もFXもそうですが、自己都合と希望を同一にしようとするとうまくいきませんよね。(外側だけを変えようと必死になってしまう)

対するまどかはと言うとQB(以下:いちごマシュマロ)に究極の2択を

迫られるわけですが、これ以上、自分や自分に関わるすべて(魔法少女)

を犠牲にする世界を続けさせたくない、終わりにしたいという想いから

概念となることを受け入れたわけですね。

これは自己犠牲ではないと越中は思うわけですね。

役割の意味を理解してそうなった訳なので・・・。

デビほむは自分の願いに固執するあまりにそれらの奴隷となり、(すべて)の想いを判ったうえで自分の存在も犠牲にしたのでこちらは自己犠牲だと思います。そして次回へと続くわけですがタイトル通りワルプルがどのように

関係していくのか非常に気になるところです。

以上、劇場版に向けての越中なりの考察でした。

これらの考察はまどマギのどのキャラを贔屓にするものではないです(注

                  ありがとうございます。




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